58.ヨツバ・チェック
56話にさかのぼって『検診』を『健康チェック』に修正しています。
伊都さんは急にキビキビと動き始めた。ヨツバの運動場までスタスタと歩いて行き壁と接した柵の裏側を覗き込む。其処から運動場を囲む柵のパーツが二枚ほど出て来たので驚いた。まるでマジシャンみたいに彼女はサッとそれを取り出したのだった。
「予備があったんですか?」
思わず尋ねると、伊都さんは少し申し訳なさそうに頷いた。
「スミマセン、延長用にこちらに置かせていただきました」
彼女は恐縮した様子で謝罪の言葉を述べるが、そもそもそれをタダで借りている俺が文句を付ける筈がない。
「いえ、全く問題ないんですが……それ、どうするんですか?」
「まず寝室へ逃げ込むのを塞ごうと思いまして。またベッドの下に潜られたら大変ですから」
そう言って寝室と居間兼台所の堺に柵を設置しようとする。なるほどね、おそらく彼女は運動場の外でヨツバの健康チェックをする行うつもりなのだろう。
「手伝います」
と手を伸ばすと、何故かまた「スミマセン」と謝られた。うーん……。
『そんなに謝られてばかりだと、逆にイラっとします』って言いたい。
友達とか職場の後輩だったら言ってただろうなぁ。散々世話にもなっているし伊都さんが悪い人じゃないって分かってしまったから、余計にそう思う。日本人らしいと言えばそれまでなのだが……謝る必要のないシチュエーションで枕詞みたいに『スミマセン』を連発するのは彼女の『悪い癖』だと思う。何よりそう言った癖は彼女にとって不利益しかもたらさない。
だから指摘してあげたいと言う衝動が湧いて来るが―――たいして親しくも無い男に言われても、きっと彼女は戸惑うだけだろう。まあ、どっちみちヨツバがいなくなればもう関わる事も無くなるだろうしな、とその衝動を抑え込んだ。
結局俺が柵を抑えることになり、伊都さんが連結用のアタッチメントを取り付ける事になった。立派な柵が増設され、例えあの稲妻みたいな逃げ足でヨツバが『脱兎』を実行したとしても、ベッドの下へ逃げ込むなんて敵わない状況を作り出すことが出来た。
準備が整った所で、伊都さんは持参した白い帆布のトートバックから一畳ほどの大きさのレジャーシート取り出し、運動場の傍の床の上に敷きつめる。次に透明なビニール袋を手に取ると、そこから使い捨てのマスクを摘まみ出した。白いそれをピタリと顔に当てる。
準備万端、と言えばそれまでだが。
眼鏡にマスクを付けたら、何と言うか……人である部分が少なすぎる気がする。そうか!伊都さんの顔が小さいからそう見えるのか、と気が付いた。
思わず奇異な目を向けてしまった事に気付かれたらしい。慌てて伊都さんが言い訳をし始めた。
「あ、あの普通はここまでしませんよ?仕事柄大量にうさぎの毛を吸い込むので用心で……あ!もし良かったら使いますか?」
いや、マスクが欲しいから見ていた訳じゃないんだけどな。その善意は丁重にお断りさせていただいた。気になるようなら次に自分でチェックする時にから使えば良いし。今は取りあえず手順を見学させて貰おう……しかし大きな眼鏡に顔の大半を覆うマスクを付けた完全防備の姿は客観的に見て怪し過ぎる。その怪しい人物が俺を見上げてこう言った。
「では、始めますね」
何か手術でも始めるみたいな口振りだな。
と、余計な事がまたしても頭の隅を過ぎる。
「はい、お願いします」
そんなふざけた内心など口にせず、俺は神妙に頷いて見せた。
伊都さんは運動場の柵まで歩み寄ったかと思うと、散々毛繕いを終えてうさぎの置物みたいに丸くなっているヨツバにスッと手を伸ばした。そして瞬きする間に抱え上げてしまう。
「え!」
思わず驚きで声を上げてしまった。そんなに簡単にあの、疾風のような速さで逃げるヨツバを捕まえる事が出来るなんて思わなかったのだ。
「そんな簡単に……」
目を丸くしている俺の前で、伊都さんはヨツバのお尻部分を手で包み込むようにして支えると、自分のお腹にヨツバのお腹をくっつけるようにして優しく抱え込んだ。そうしてそのまま、ストンとレジャーシートの上に腰を下ろす。
「コツがあるんですよ。……あ、それと抱っこの時にお腹が浮くとうさぎは不安がりますから、ピッタリお腹を何処かにくっつけてあげると良いですよ。あとお尻ですかね?しっかり支えてあげると落ち着くみたいです」
「はぁ……それは何となく分かるんですが」
人間だって抱え上げられて高い位置でお腹を無防備に晒されたら、恐怖心でパニックになるだろう。つい本能的に丸まってしまうか、逃げ出そうと考えるに違いない。その衝動は何となくイメージ出来るのだが……そもそも、まさに脱兎と書いて字の如し、稲妻みたいな動きで逃げ回るヨツバをどうやって捕まえる事ができたんだ?事も無げに捕まえた素早さに、目が点になってしまった。
どちらかと言うと伊都さんは運動神経と言う言葉から距離があるイメージだったのだが……意外と見た目とは違う、と言う事だろうか。
「スゴイですね。あんなに素早いうさぎを捕まえるなんて。『コツ』って言いましたよね。何に気を付けたら良いんですか?俺にもできますかね?一応運動神経はそれほど悪いわけでは無いつもりですが」
「大丈夫です、誰にでもできます」
俺が感心して尋ねると、伊都さんは膝にヨツバを抱え直しながら、大きく頷いた。
「私なんて体育3以上取ったこと無いですから!」
え?『3以上取った事無い』……って、つまりは1か2って事か?!
あり得ん。俺は『良くできる』か『5』しか取った事が無いから、どうやったら普通以下の評価が取れるのか分からなかった。そんな風に戸惑う俺に、自信満々で伊都さんは言い切った。
「簡単です。気配を消せば良いんです!」
マスクからはみ出した、唯一人間らしさの残る目と眉をキリッとさせて伊都さんは高らかに宣言した。
「……は?」
簡単……か?それ。
「『私は空気、私は空気……』って思い込むんです」
「……へ?」
何だって?イマイチ言っている意味が分からない。
「それが出来ない場合は……」
「……『出来ない場合』は?」
今聞いた説明で、到底自分に出来るとは思えなかった。だから続きを促した。
「ヨツバの存在を忘れてください!」
「……はぁあ?」
ヨツバ忘れて―――それでどうやって捕まえるんだ?
「ヨツバに悟られない事が大事です。まずは『抱っこするぞ!』と言う念を悟られないこと!気配を殺してうさぎを油断させる……要は狩られる危機感を忘れさせることです!つまりは肉食動物が狩りをするのと同じです。草食動物は僅かな殺気を感じ取ってしまいますから息を潜めて、狩りをする蛇や狐と同じ気持ちになってください!もしくは鷹か鷲!」
「……」
「では、始めますね」
うん、分かった。
「よろしくお願いします……」
結論から言って、俺にはヘビだのキツネだの鷹だのになるのは無理そうだ。
後で一通り作業が落ち着いてから、抱っこしないで健康チェックを行う方法を教えて貰うことにしよう。―――と、俺はこれ以上その『コツ』について追及するのは諦めたのだった。




