36.亀田部長の事情
会計は亀田部長がサラリと支払ってくれた。仕事の上下関係を考えると普通の対応かもしれないが、休日ヨツバの事で迷惑掛けたばかりの所に更に悩み相談まで対応していただいた俺としては世話になりっぱなしで申し訳ない気分だ。店を一歩出ると自然と頭が下がった。
「ご馳走様でした。有難うございます」
「もっと洒落た店が良かったかな。つい真っすぐ気に入った店に入ってしまったが」
「いえ、美味しかったです。俺もたまにココ寄ります。いつもは夕飯時ですが」
するとフッと頭の上で笑った気配があって、思わず顔を上げた。
「ここ旨いよな?結婚前は俺もよくここで夕飯食べて帰ったもんだ」
気のせいだったか?見上げた先にはいつもの無表情。だけど少しだけ亀田部長との距離が縮まったような気がして、歩き出す部長の隣に並びつつ気軽に返答する事が出来た。
「ちょっと分かりにくい所にありますけど、ネットで探したんですか?」
一応グルメサイトで上位に上がっている店だ。客はほぼ地元民だと思うが。すると抑揚の少ない返答が返って来る。
「義理の母が仙台に長くてな、勧められたんだ」
「へぇ!どちらにお住まいなんですか?」
「今は東京だ。春まで同居していたんだが」
「え?」
春まで同居?
それはつまり……年上美女と略奪婚と言う噂はもしかして。
「今住んでいるのは義理の母が借りていた物件なんだ。四月に東京に転職する事になっていたので、それを譲り受けて住んでる。たまたま職場に近かったから」
「……あの、それって卯月さんのお母様ってことですよね」
「ああ」
「もしかして、凄く若かったりしますか」
「若い……と言うより若く見える、な。俺と二十離れているが、最初会った時は四十代に見えたからな」
なるほど。噂の真相が今、図らずも判明した!
『同棲』じゃ無い―――姑と『同居』だ。
「はぁ、それであんな……」
「何が言いたい?」
「うっ……」
迂闊な事を尋ねてしまったと気が付いた。亀田部長との距離の近さに思っていた以上に浮足立ってしまったのかもしれない。太陽を背負ってこちらを見下ろす銀縁眼鏡の威圧感ったらない。俺は観念して口を開いた。
「あの、実は亀田部長が年上っぽい美女と一緒に歩いている所を見たと言う人間がいたらしくて」
「ああ、まあ確かに迫力のある見た目の人だが……それがどうかしたのか?」
「うっ……その、つまり同棲されていると思っている者もいて、その方と結婚されたのだと誤解しておりまして、だから卯月さんみたいな若い方と結婚されていたので……」
「ああ、それで駅で会った時、妙な表情をしていたのか」
部長は抑揚の無い声で、何でもない事のように頷いた。部長は俺達が面白可笑しく邪推していた事なんか想像もしていないのかもしれない。きっと他にも俺達のように穿った見方をしていた人間がいた筈だ。だけど本人には後ろ暗い所は何もないのだから、下らない揶揄なんて気にも止まらないのだろう。
勾当台公園駅で卯月さんと連れ立って亀田部長と対面していた時の事を改めて思い出す。あの視線の鋭さ―――背筋が凍った。だから尚更、こんな風に気さくに話している今が不思議に感じる。
「同居じゃなく同棲していたのは、お前だろう?」
「は?」
不意打ちに、足が止まる。部長も足を止めて呆然とする俺を振り返った。
「男同士でダブルベッドも無いだろうからな」
あ……!
「いえ、その」
狼狽える俺を、亀田部長は僅かに首を傾げてマジマジと見下ろす。そしてハッと息を飲み、早口でこう言った。
「スマン」
「あ、いえ!」
何を謝られているか分からなかったが、図星を刺されて慌てていた俺は反射的に首を振った。亀田部長は何故か俺からフッと目を逸らす。
「踏み込んですまない。男同士でも……その『男同士が悪い』と言っている訳じゃないんだ。いや、研修で知って偏見を持たないようにしたいとは思っていたんだが……これ、セクハラだよな」
背の高い威圧感満載の男が、うっすらと頬を染めて口元を覆っている。
俺を気遣うかのようなその素振りを見て、亀田部長が何を誤解しているかと言う事に漸く気が付いた。
「違います!俺は男が好きな訳じゃ……っ」
思わず声が高くなってしまった。そこまで言って俺は慌てて声を潜めた。
「その、亀田部長のおっしゃっていたので合っています。みのり……いや、一緒に住んでいた女が突然出て行って……ヨツバを置いて行ったんです。引き取りに来ると置き手紙にはあったんですが、実はこれまでまったく連絡がとれなくて、それで……その……」
「……」
「あの、いろいろ有難うございました。そんな訳でヨツバの事、相談に乗っていただいて大変助かりました……」
「……そうか」
亀田部長は目を丸くして俺の話を聞いていたが、フーッと息を吐いた後、俺に同情の籠った視線を向けてこう呟いたのだった。
「ま、その……あれだ」
「……」
「頑張れ。何か困った事があれば、また相談するといい」
肩をポンと大きな手で叩かれる。俺は何とか絞り出すように返事をした。
「はい……有難うございます……」
仕事場で直接やり取りする接点がほとんど無い上司の上司に、俺の情けないプライベートを把握されてしまう事になるとは……少し前の俺ならそんな事想像も出来なかっただろう。本社から来た出世頭のエリート上司に弱みを把握されるなんて絶対に許容できない!と屈辱に歯がみしてもおかしく無かった筈なのに……。
何故かその励ましの言葉に素直に頷いている俺がいた。




