32.会社で
最近滅多に無かった上機嫌で俺は出勤した。今日は何だか気分が良い、ルーティンワークをサラリと熟し、課長の下らない指示もにこやかに処理できる。
鼻歌を歌いながらトイレに入ると、鏡と睨めっこしている新人を見つけた。
「よぉ」
「ちわっす」
声を掛けるた俺を一瞥し、軽く挨拶するとすぐまた鏡にジッと見入る。
『〇 うさぎの毛繕いには理由があります。野生では敵に見つからないよう、自分のにおいを残さないことが重要なのです。そのほか転移行動といって緊張やストレスを紛らわせるため、自分を落ち着かせるために毛繕いをすることもあります……』
そこで『初めてのうさぎのお世話②』の一文を思い出した。そうか、と思う。コイツももしかして新しい職場で緊張しているのだとしたら?そう言えばコイツの指導係になっているお局様は身だしなみに煩いタイプだったっけ。営業担当は身なりを整えるのが基本とは言え、ガツガツ責められてそこばかり気になってしまうのかもしれない。
「ちょっとこっち向け」
「え?」
肩に手を掛け新人を振り向かせ、上から下まで見下ろした。
前髪は目に掛かっていないし、寝癖も無い。
髭、鼻毛OK。
シャツのアイロンもばっちし、靴もピカピカ。
ネクタイが……詰まり過ぎか。僅かに曲がってしまっているのは、気になって締め直した所為かもしれない。
腕を伸ばすと、戸惑うような瞳が挙動不審に揺れた。
俺は問答無用で新人のネクタイを引っ掴み、絶妙に緩めまっすぐに直す。
「よし!……ん?」
袖口に汚れやほつれが無いか確認するために腕を取り、気が付いた。
「爪切りあるか?」
「え?いえ……」
「無いのか。こういうのは靴磨きなんかと一緒に常備しとくモンなのに」
わざと眉を顰めて苦言を呈する。指摘した途端カァッ頬を染めた新人に、俺は一転してニヤリと笑って見せた。
「お局は特にソコに煩いぞ。怒られて時間無駄にしたく無かったら切っとけ。俺の貸してやる」
「あ……有難うございます!」
「でも今度は自分の持って来いよ」
「はいっ!」
大きく頷く瞳がキラキラしていて、犬みたいに見える。
何だ結構、素直なトコあるんじゃん。
いつも挨拶が適当で、コイツ舐めてんのか?なんて思っていたけれど、もしかして必死だっただけなのかもしれない。……まー、入社当初は本当に適当だったのかもしれないけれどな。これまでを振り返ってみると最初顔を合わせた頃より、表情が必死になったような気がするから。
女だと舐めてかかる男にはあのお局、特に厳しかったもんな。佐渡なんか最初ターゲットになってガッツリへこまされていたし。俺はその点女性には、あまり怒られる事が無いんだよな。もともと先輩に教わるのに男女はあんまり関係ないって思うし、女性の先輩だからって目の前で嫌味を言ったり、相手の地雷をワザと踏むとか絶対しない。「女扱いうめーよな?」なんて佐渡に嫌味を言われた事もあったっけ。
それから俺は引き続き順調に定時まで過ごし、残業も最速で片付けて会社を飛び出した。もしヨツバがちゃんと運動場で大人しくしていたのなら、試したい事があったのだ。
「ただいまー」
と声を掛けて部屋に入ると、ヨツバが耳の根元を僅かに持ち上げこちらに向ける。
「良い子にしてたか?」
俺の声と匂いに慣れたのか、ヨツバはすぐに関心を失くしたように自分の毛繕いを始めた。何となく緊張からの転移行動では無く、リラックスしているように見える。それは俺の心が以前より落ち着いたからなのかもしれない。そう言えば亀田部長が言っていたよな『飼い主側のストレスも、うさぎに伝わる』って。
着替えて、コンビニで買って来た唐揚げ弁当と野菜ジュースで夕食を済ます。実は最初ビールに手を伸ばしたのだが……思う所あって野菜ジュースに方向転換したのだ。うさぎの牧草が健康の為だったと言うのを思い出し、人間もちょっと気を遣わなきゃならんよな、なんて思い直したのだ。
しかし今日はヨツバには贅沢品を与えてみようかと思う。伊都さんがドライフルーツの入ったタッパーを置いて行ってくれたのだ。
『仲良くなるには、美味しいオヤツを上げるのが一番です!美味しい物をくれる人を悪く思うなんて無理ですから!』
ただし食べさせ過ぎ注意です!とだけ言い残して伊都さんはヨツバのご馳走を託してくれたのだ。結局あの『捕獲作戦』中ヨツバが口にしたドライフルーツは一欠片だけだったから。
「ヨツバ!オヤツ食べるか?」
弾んだ声の調子で何かを悟ったのか、ヨツバは後足で立ち上がり鼻をヒクヒクさせ始めた。俺がペットフェンスの前に腰を下ろすと、両前足を下ろして真剣にこちらに注目している。タッパーをそっと開けて、ドライパパイヤの欠片を一つ手に取る。
「ほらヨツ……」
ペットフェンス越しに差し出した黄色いドライパパイヤが、一瞬で消えた。
ヨツバがピュッと俺の手元までやって来て、指先でつまんでいたそれをかすめ取ったのだ。
「アハハ!は、速ぇ!忍者か!」
思わず笑ってツッコミを入れてしまった。
「どんだけ好きなんだ」
俺の目の前で、真顔でポシポシと今さっき強奪したばかりのドライパパイヤを頬張るヨツバ。
「お前、意外とワイルドだな」
可愛らしいぬいぐるみのような外見とは裏腹に、かなりな武闘派だ。指を齧ったりキックしたりと言う攻撃力は言うに及ばず、ずっと物陰に隠れていたから性格は臆病なのかと考えていたが、捕まってからは意外と腹が座っている所をみせて、マイペースに堂々としている。今だって奪ったパパイヤを俺の近くで悠々と食んでいるのだ。
ポシポシポシ……と小さな口の中に引き込まれドンドン小さくなっていく黄色いドライフルーツの欠片。俺はその様子を飽きる事無く眺めたのだった。




