29.ミッション・クリア
「本当はもう少しヨツバの様子を見ていたかったんですけれど……」
そう言って、伊都さんは帰り支度を始めた。卯月さんに『捕獲作戦完了』を報告した亀田部長を駅まで送るとのコト。二人の見送りを申し出た俺は、亀田部長と手分けして荷物を持たせて貰ったのだがこれが結構重い。小柄なあの体の何処にこのような重い荷物を持つエネルギーが存在しているのか、と不思議に思う。
「あの、ここに置いてあるフェンスはどうしますか。代わりの囲いを手に入れたら直ぐにお返しする、と言う事で良いですか?」
「え?それは差し上げます」
キョトン、と事も無げに返答する伊都さんを見下ろし、俺は首を振った。
「いや!いただくなんて……これ、結構高価な物なんじゃないですか?」
助けを求めるように亀田部長を仰ぎ見ると、無表情のままコクリと頷いた。しかし伊都さんはニコリと笑ってこう返した。
「余っている物なので、大丈夫ですよ」
「でも……」
俺はハッとした。そうだ、そう言えばヨツバはみのりのうさぎなのだ。『落ち着いたらヨツバを引き取りに戻ります』と手紙には書いてあった。だから間もなく必要無くなるかもしれない―――それとも、みのりの家出はやっぱり一時的なもので、気が済んだら戻ってきてこのままヨツバとここで暮らす未来も存在するのだろうか?
「その内使わなくなるかもしれない」
亀田部長がボソリと呟いた。相変わらず何を考えているか分からない無表情だ。そして銀縁眼鏡の奥の眼光の鋭さも、思わず体の軸がピッと真っすぐになるほど冷え冷えとしている。
「慣れれば必要無くなる。だが店で今使わない物なら、借りたままにしてその時返せば良いのじゃないか?」
伊都さんは部長を見上げて暫く思案した後、コクリと頷いた。
「そうですね、ここで使わなくなるなら結局邪魔になるだけですし」
「戸次もそれで良いか?」
「あ、はい!そうしていただければ……」
亀田部長がこんな風に助け船を出してくれるなんて、思ってもみなかった。会社での彼は……いや、止めよう。たぶん会社での『亀田部長』が亀田部長の全てでは無いんだ。それは今日、いやもっと以前『うさぎひろば』でばったり顔を合わせた時から感じずにはいられなかったことだから。
予定通り伊都さんの荷物を抱えて、客用駐車場まで二人を見送った。伊都さんはワンボックスカーのバックドアを開けて、慣れた手つきで荷物を手際良く積み込んで行く。そして亀田部長を後部座席に乗せ、運転席に乗り込んだ。
錯覚かもしれないが、寂しさが微かに胸を擽った。
さっきまで賑やかだった部屋でまた一人に戻るのかと思うと……いや、ヨツバがいるか。また今日から一人と一匹。ヨツバの存在にも少しは慣れて来たし、ちゃんとした運動場も作って貰ったから格段に日々の世話は楽になるだろう。それに今日からは安心して眠れるんだ。だから先日までと違ってもう少し男同士、うまくやって行けるかもしれない。
なんて感傷的な気分でワンボックスカーのエンジン音に耳を澄ませていると、突然バン!と運転席の扉が開いて、伊都さんが飛び出して来た。
「どうしたんですか?」
「あのっ……ええと」
伊都さんは俺を見上げながら、パタパタと上着のポケットやシャツを探っている。そして今度はゴソゴソと上着をめくり上げてお尻の辺りを探り始めた。
「あ!あった!」
と言って、ジーンズの後ろポケットから取り出したのは……見覚えのある、折りたたまれた紙片。
「スイマセン、ポケットに入れていたから少し皺になってしまいましたけど……これ」
差し出された紙片を受け取り、広げた。
予想した通りそこには『初めてのうさぎのお世話②』と書かれてある。
「二枚目ですか」
「はい!先日お渡しした分の続きです。押しつけがましいかとも思ったのですが」
伊都さんは眼鏡の奥の瞳を細めて照れたようにはにかんだ。
その笑顔に胸を突かれる。つい先ほどまでだったら、彼女はもっと卑屈な態度でビクビクしながら俺に接していたかもしれない。はからずもヨツバの捕獲作戦と言う困難なミッションを一緒にクリアする事で、互いの間に奇妙な連帯感が芽生えた気がした。肩の力が抜け、頬の緊張が緩む。
「いえ、嬉しいです。俺も実は『その②』が気になっていたので」
「……」
すると伊都さんは大きな目を更に見開き、口を噤んだ。
「伊都さん?」
「あっ……はい!いいえ!あの……」
伊都さんは慌てた様子で、パタパタと手を動かして……それからピタリと両腕を体の側面に付け、姿勢を正した。そのピョコンとした仕草に、何故か土産物の『起き上がり小法師』を連想させられてしまい、可笑しくなる。
「良かったです、お役に立てて」
微笑む彼女に、俺は心からの感謝を告げた。
「今日は有難うございました、本当に助かりました」
「あの……」
逡巡するように瞳を暫く彷徨わせ、それから伊都さんは決意したように再び俺にピタリと視線を合わせた。
「……ヨツバによろしく」
「プッ」
言うと思った!今度ばかりは、肩透かしを食らうと言うより噴き出してしまった。
「え?」
伊都さんは俺が噴き出したのを目にして、戸惑っていた。
「いや、あくまで『うさぎ中心』ですよね、伊都さんって」
「あっ……あの」
伊都さんは真っ赤になって口を噤んだ。
それから蚊の鳴くような声で「あの、その……スイマセン!さようなら!」と言い捨てたかと思うと、それこそ脱兎のごとくピュッとワンボックスカーの運転席に飛び込んで逃げるように車を発信させて去って行ったのだった。