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21.気が付いた

 ふうっと肩の力が抜けた事で、気が付いた。


 みのりがヨツバを置き去りにして出て行った時から、俺は声を上げて笑う事を忘れていた。

 いや……正確にはそれ以前から、ここしばらくこんな風に緩んだ気持ちになった事は無かったかもしれない。何かで気を晴らそうとしても何か硬い芯のような物が心の奥底に残ってしまい、常に俺の神経にチリチリと触っていた。いつの日からかずっと、それに気付かない振りをして何とか日々をやり過ごしていたんだ。


 二十九歳、仕事も大抵思う通りにこなせるようになって、乗り越えきれない壁が目に見えるようになった。それを意識つつも新人の(つたな)さをフォローし、丸投げ上司の尻拭いに徒労して……家では同棲中の彼女が地味に発する結婚のプレッシャーをやり過ごして来た。


 一人前の男なら難なく出来る筈なんだ。

 何でも無い顔で文句も言わず黙々と仕事をこなし、長い付き合いの気の合う女とキチンとケジメを付けて家庭を持って。やがて子供が生まれたら、休日には家族で動物園に出掛けたりして―――なのに、現実の俺は割り切れない気持ちを抱えて、ジタバタしていた。

 上司の愚痴を言って憂さを晴らした筈なのに、苛々や焦りは消えるどころか増すばかり。みのりとの関係にも決着をつける勇気が出なくて、居心地の良い状態を維持して逃げ回っていた。


 相手が逃げた事に気が付かず、固まったままのうータンを見て身につまされる。

 置いてけぼりにされたままボンヤリしていないで、先ず俺に出来る事をやらないと。




「あの、この間……有難うございました」




 小柄な店員に声を掛けると、キョトンと大きな瞳で見上げられた。


「『初めてのうさぎのお世話』、助かりました。何から手を付けて良いかさっぱりだったので」

「ええ!」


 まるで予想していなかった、とばかりに彼女はビクリと飛び上がった。


「い、いえいえいえ!そんなっ!」


 それからズザッと後ろに飛びずさりそうな勢いで、垂直にピッと上げた右手をブンブンと振って否定する。


「かえってお節介だったんじゃないかって!思っていたくらいなので、もうそう言っていただけるだけでっ……親切のつもりで相手の迷惑顧みず……って反省していたくらいなので……なので……またお店に来ていただけて、嬉しいです」


 と、ここまで一気に言い切った店員は頬を真っ赤にして俯いた。


 うーん、相変わらずウザい。


 大袈裟で卑屈な態度は、お礼を言った側としては多分にガッカリさせられる。あの女子力たっぷりの花井さんに弟子入りして、素直さの欠片くらい学んだら良いのでは無いだろうか。素材は良いのに、残念極まりない。


 それに確かに―――『お節介』には違いない。俺だったら、あんな風に取りつく島も無く自分を拒絶した相手に、わざわざ親切に気遣ってやるなんて真似はしないだろう。きっと何かして上げるべき事を思いついても、何もせず放置する。ましてやこの店員は人と接するのが極端に苦手らしいし……。

 なのに何故ここまでしてくれるのだろう?と思う。ひょっとして……彼女は男慣れしていなさそうだし、俺になにがしかの興味を持ってしまった、と言う事なのだろうか?


 頬を真っ赤にしたまま、彼女は喘ぐように俺を見上げた。

うっ……このウルウルしたデカい目で見つめられると、何だか妙な気分になるんだよな。


「本当に心配でっ……気になってしまって、堪えきれなかったんですっ!」

「そうですか」


 やっぱ、そう言う事か。うーん、これから色々教えて貰う上で好意を向けられるのは良いんだが……思い込みが強そうだから、後々面倒な事になると困るな。ほら、ストーカーとか。流石にもう悪感情は抱いてはいないが、好みじゃないんだよな。こういう面倒なタイプって……


「あの、預けられたっておっしゃられていた『うさぎさん』は無事ですか?うさぎさんの事が心配で心配で……ご迷惑かもと思いつつも、何かせずにはいられなくなってしまいまして!」


 ガクッ……何となくこのオチ、予想していたような気がする。

 うさぎね、うさぎが心配でね。うん、そうだと思った。あー恥ずかし。先回りして変に牽制しなくて良かった……。


「あ、うん。……アリガトウゴザイマス」

「もしよろしかったら!うさぎさんの所にお伺いして直接確認させて欲しいと思っていたくらいなんです。でもお名前も伺えませんでしたし……だから」


 両拳を握りしめたまま、店員はクルリと傍らの『うづきさん』を振り返った。


「卯月さんの旦那さんがお客様をご存知だとおっしゃったので、不躾とは思ったのですがリーフレットを渡していただくようお願いしまして……スイマセン、亀田さんにもご迷惑をお掛けして」

「ううん、別に忘れ物の取次ぎくらい大丈夫ですよ!それよりちょうど(たけし)さんと同じ会社の人で良かったですね」


 『うづきさん』はニコリと笑って首を振った。

 え?ダンナさん?




「……あの、『うづきさん』はもしかして」




 思わず声が擦れてしまう。今聞き捨てならない事を聞いたような気がする。


「亀田部長の……奥さん、ですか?」

「あっ……すいません、ご挨拶が遅れまして。あの、このお店で会社の方とお会いしたって話自体は聞いていたんですけど、今伊都(いと)さんに言われるまで気が付かなくて」


 『うづきさん』は、俺に向き直って笑顔で頭を下げた。




「いつも主人がお世話になっております」

「あ!いえ、こちらこそ……大変、お世話になっております」




 平静を装いつつ頭を下げる。しかし内心は嵐のように混乱していた。


 この優し気で柔らかそうな、どちらかと言うと大人しい感じの女性が―――あの恐ろしいコワモテ銀縁眼鏡の亀田部長の妻?!

 え、じゃああの噂は一体何だったんだ?『年上の女と略奪婚』って言うのは?!しかも明らかに、いやこの『うづきさん』、亀田部長より相当年下じゃねーか?!

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