19.リトライ
その週末、俺は再びペットショップ『うさぎひろば』に続く、小さな小道を歩いていた。
看板に向かって右にある木造りの扉の前でピタリと立ち止まる。
何故再びここを訪れたのか。
お節介とも言えなくもない『忘れ物』……『初めてのうさぎのお世話』を銀縁眼鏡の亀田部長づてに渡してくれた、挙動不審な店員に礼を伝える為だ。
「……」
いや、正直な所『初めてのうさぎのお世話①』の続きが気になったからだ。そして人間相手の接客は極めて苦手そうだが、うさぎに関する事となると途端にペラペラと饒舌になる、あの挙動不審な眼鏡の小柄な女店員に今度こそちゃんと話を聞きたかったのだ。
あの大脱走劇以降何度か手を尽くしてみたが、結局ヨツバはケージに戻らないままだ。俺がいない間トイレや食事を済ませているようだが、帰って来ると必ずソファの下かベッドの下に陣取っていてちっとも出て来ようとしない。そしてあの大惨事があった翌朝、起きた所でまたしてもベッドの上に粗相の後を発見した。初日と違って既に犯人は逃げた後だ。念のため分厚い敷きパッドをクローゼットから探し出し、それを敷いた上に更にタオルケットも重ねたからベッド本体まで染み込んではいなかったのだが。しかし大量の洗濯物との格闘は避けられず、かなり消耗する事となった。
会社に行く前に早起きしてコンビニに駆け込みビニールシートを購入。ネットの質疑応答を参考にベッドにビニールシートを被せて出社したので、不在時の悪戯は防ぐことが出来た。中にはベッドを網で囲っているって言う意見もあったな。そうなるとうさぎと人間、どっちが飼い主だか分からなくなりそうだ。ケージに戻らないようなら寝室側に入って来られないように何か対策をせねばならない。扉があればなぁ……何故か寝室と居間の間に扉が無い構造なのだ、うちのアパートは。
ケージに戻らせるコツ、と言うものがあるかもしれない。
若しくはもう少し建設的な対応策を知りたい。―――一縷の望みを掛けて、俺はまたこのうさぎ専門店を訪れたのだ。
亀田部長に尋ねるか、と言う考えも実はチラリと頭を掠めた。
しかし他人に厳しい亀田部長は自分にも厳しいようで、常に殺人的なスケジュールをこなしている。下っ端の俺が私用で引き留める暇は見出せそうも無い。おまけに偉く目立つだろう……あのコワモテ銀縁眼鏡に会社で話しかけるなんて、至難の業だ。
実は廊下で顔を合わせたあの時、二人きりになった経験は部長が赴任して以来初めての事だった。ひょっとするとあの時は部長が俺を訪ねようとしていたか、若しくは俺の動向を確認しようとしていたのかもしれない。だからあんな風に、バッタリと顔を合わせる機会に恵まれたのだろう。
それにそもそも、亀田部長自身がうさぎの世話に詳しいかどうか分からない。
わざわざ多忙な彼の時間を割かせて結局「いや、詳しいのは妻なんだ」なんて話で終わってしまう可能性も大きい。俺だってずっと同じ部屋で過ごしていたヨツバの存在すら忘れかけていたくらいなのだから……いや、忘れていたと言うより無視していた、と言う方が正しいだろう。
面倒臭かったのだ。家事の手伝いを頼まれるのも億劫なのに、うさぎの世話まで?よりによってこの忙しい時に……!なんて腹立たしく思っていたくらいなのだから。
みのりからの連絡はいまだ一切無い。
週末、一度だけメールを送ってみた。
『ヨツバは元気だ』
と一文だけ。
本当は『どこにいるんだ?』『いつ帰るんだ?』『何で出て行った?』『出て行く理由くらい話したらどうだ?』……幾らでも聞きたい事はある。だけど一度そう言う疑問を投げ掛けて、結局答えは得られなかったのだ。
職場に行けば、会えるかもしれない。
けれども平日は多忙で仕事を抜け出す時間は無い。それにプライベートな連絡手段を絶たれている状態で職場に乗り込むなんて、まるでストーカーだと思った。みのりが何を考えて消えたのかは分からない。だけど俺に理由も細かい事情も言いたくない、若しくは説明する必要が無いとアイツが判断した事は、事実なんだ。
もう一週間だけ。
そう思った。もう一週間だけ待ってみて、連絡が無ければみのりの会社にこちらから連絡をしよう。その時になればもう、きっとヨツバをどうするかと言う事のみについて話す事になる。
もともとヨツバはみのりの飼っているうさぎだ。引き取って貰わなきゃ、困る。俺が飼い続けるなんてありえない話だ。
しかしもし、みのりがそれを拒否したら?そもそも連絡が取れなかったら?
その時は―――しかたがない。何処か引き取り手を探そう。
それでも引き取り手が見つからなかったら?
その時は保健所にでも……引き渡す事になるだろうか。うーん……。
……後味、悪いよなぁ。
いや、とにかく今は目の前の問題をクリアするのが先決だ。
後の事は考えるのは止めだ。悩んでいても仕方が無い。
意を決して、扉を開け―――ようとして。
扉の取っ手にぶら下がっている表示板が目に入った。
『不在中 → お隣の”運動場”にいます』
「『運動場』?」
矢印の先には隣の店舗がある。そちらへ近づき、窓ガラス越しに覗き込むと一面に人工芝を敷き詰めた運動場らしきものが見えた。
扉の横には『うさぎひろば・運動場』と書かれた看板が掛かっている。
俺は扉の取っ手に手を掛けた。そしてグッと思い切って引く。
すると目の前に女が二人、立っていた。柵の向こうの人工芝を敷き詰めた『運動場』らしき所を眺めながら何やら和やかに笑い合っている。その運動場ではうさぎが数頭、駆け回っていた。
気配を感じて、振り返ったのは小柄な方だ。
「あ……!」
直ぐに気付いたらしい。眼鏡の奥の大きな目をまん丸に見開いて、俺を見ている。口をポカンと開けている様子は如何にも間抜けな感じだが―――世話になった手前、以前のように心の中だけだとしても冷たく評する気にはなれなった。
「い……いらっしゃいませ!」
「あの、入っても良いですか?」
扉を少し開けたまま、一歩踏み出す前に丁寧に尋ねると、眼鏡の彼女はブンブンと手を振り回して俺を招いたのだった。
「ど、どうぞどうぞ!この子達を見て行ってください……!」
ペコリと頭を下げて、中に入る。小柄な店員が大袈裟に腰を引いて差し示す方向に、義理を込めて目を向けると―――既視感を覚えた。
「……『うータン』?」
いや、まさかな。
似ていると思ったが―――
軽く振り払うように首をひねり、視線を小柄な店員の方へ戻すと。……店員と、その隣にいる若い、華奢な女性がジッと俺を見つめているのに気が付いた。