9.こんな所で
低い深みのあるその声の主を俺は知っている気がする。いや、確実に知っている。
「一番刈り一キログラムでしたよね?」
「はい」
ワイヤーシェルフに積まれた牧草みたいな物を袋に入れて眼鏡の店員はレジへと向かった。そうか『チモシー』って牧草の名前だったのか。と頭の隅で単語の意味を了解しつつ、突然現れた男に見られないように背を向ける。身をかがめてケージの中のうさぎを覗き込むふりを装った。
「えーと、税込み八百円になります。今日は……奥さまは、お留守番ですか?」
「風邪を引いたみたいで」
「えっ!そうなんですか……!どうか、お大事にしてください」
「有難うございます」
尋ねられるごとに簡潔に答える声に、ますます確信が深まる。間違いない、奴だ。俺が苦手にしている新しい上司―――銀縁眼鏡の亀田だ。
ったくプライベートでもそんな感じなのかよ?おそらく顔見知りであろう若い女性店員にも素っ気ない仕事と同じ硬い態度を取り続けている。愛想笑いの一つもするのが普通だろう?いっそ会社での態度と百八十度違った軟派な口調で接してくれれば、笑い話にでもしてやるのに。『アイツ新婚の癖に若い女に色目使っているんだぜ?!奥さんが年上だっつーから若い女に飢えてるんじゃないのか?』……なんてな。あーあ、くそつまんねー奴。
そんな簡単な遣り取りを終えると、直ぐに男は扉を出て行った。おそらく風邪を引いたとか言う妻のもとに帰るのだろう―――同棲三年目で女に家出された俺と、新婚でたぶん円満な家庭に戻る亀田。アイツは仕事だって順風満帆で……だからか?家庭が平和だから仕事が順調なのかね?俺と違って……チッ。
「すすす……すいませぇん!」
突然背中から、アタフタした謝罪が響いて来た。何事か、と思って振り向くと眼鏡の小柄な店員が、蒼くなって震えている。
くそっ……コイツ、亀田に対する態度と何でこんなに違うんだ?
普通逆だろ?亀田の方が愛想も無いし視線も凶悪だし、怖い筈だよな?!職場でだって女性社員にも手加減せずに愛想なく接しているから直接対応した人間はビビりまくっている。遠巻きにしている女はキャイキャイ騒いでいるがな。
「……何がですか?」
何も威圧のようなモノを発していないのに、ここまで怯えられると腹が立ってくる。コイツ情緒不安定過ぎねぇか?ついつい声に怒りが籠りそうになるが、あの銀縁眼鏡の亀田がどうやらこの店の常連らしいから、下手に弱みを握られたくない。俺は苛立ちを抑えて勤めて落ち着いた声を出すよう心掛けて確認した。
なのに眼鏡の店員は相変わらずビクついて俺を見上げてきやがる。
「先にいらしたお客様を放って置いてしまって……!あのっ先ほどの方はご予約されていてですね、つい急がなくちゃって思いましてっ」
「別に……気にしてません」
むしろ改めて謝られると、軽んじられた事実が浮き彫りになって新たに苛立ちが募ってしまうのに。本当にコイツ……俺を苛立たせる天才かもしれない。女に対してこんなに腹が立ったのは初めてだ。コイツの態度もそうだけど、あの銀縁眼鏡の声を休日に聞くはめになって、更に隠れるような真似を咄嗟に取ってしまった屈辱がごっちゃになってしまう。
「もう、帰ります」
「え!」
疲れた。だからもうここには居たくない。とりあえず撤収!それ一択だ。
「あのっ……うさぎのお世話の仕方は……?」
「自分で調べますので」
「えっでも」
引き留めようとする彼女を振り切って俺は出口へ向かった。
「お客様!」
店員のか細い声が背中に掛かるが無視して扉に手を掛けようとして―――寸前でその扉が勝手に開いた。まるで自動扉みたいに。
その扉を開いたのは。
目の前に立っていたのは、背の高い銀縁眼鏡の男―――冗談みたいに整った顔、凶悪にも見える鋭い目つきの俺の新しい上司、亀田部長その人だった。




