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ロストワールド

作者: 藤島一架



 ――好き、

  私、貴方の事が好き。


 ごめん、なんだからしくないよね。


 迷惑、かな?

  

 ――嘘っ?!

  冗談、だったら殴るからね? ぐーで。


 へ、へぇ。そう、なんだ。

  えへへ、嬉しい――。


 らしくないね。ホント、こーゆーの。


 じゃあさ、約束して。


 さっさとあいつを殴り飛ばして、ここに戻ってくるって。

  私達の、ううん。私の所に、あんたは帰って来るって。


 ん、指切り。

  ――信じてるからっ!




     信じてるからね――?




 あの時の約束、

  あの時の涙。


 俺は、それを思い出しながらその身を崖下へと躍らせた。













             ロストワールド


             ――序章――









  ■ 二日と、六時間程前――



 今日も、誰かの歌声に目を覚ました。


 夢を見た。

今ではない時、ここではない場所。

立ち並ぶビルの替わりに緑豊かな木々が生い茂り、車の騒音の替わりに鳥が囀る澄んだ空の世界。

それは、私が幼少の頃より見続けている夢のひとコマだ。

だが、それがどんな内容の夢だったのか、と誰かに問われたならば、私はそれを明確に答える事はできない。

まるで、長い映画の断片のみを切り取ったかのようなその夢は、科学的に言うならば脳が記憶の整理を行っている際の幻想でしかない。

だから、目覚めと共にすぐさま記憶の中から消えていくその夢の内容を、私には振り返る事が出来ない――そんな状態でありながら、また同じ夢を見たと言い切る事が出来るのには理由があった。


「……もう、朝か。」


布団より上半身だけを起こしながら、私は涙で濡れた頬を拭った。

その夢を見た日は、いつもこうだった。

望郷や哀愁や、恐らくはそういったものに近い、記憶から消えていく夢の残光が、感情だけを俺の心の中で消し忘れていく。

由来は夢にあり、原因の思い出せぬその涙にはすっかり慣れているので、泣いていた事に、もういちいち驚いたりはしない。

ただ、今日もあの夢を見たんだ、と、漠然とそう思うだけ。

瞳に溜まった涙を拭いきり、それでもまだ呆けた頭のままで直ぐ隣の布団へと目をやると、そこには、もう一式の布団が丁寧に畳まれて置かれていた。

どうやら美亜は起きているようだった。

そういえば、先程から耳に飛び込んでくるテンポ良く繰り返されるリズム。木を叩く様な音は、彼女が朝食の味噌汁に入れる具を刻んでいるのだろう。

そう判断すると、次に目覚まし時計へと目をやった――と、そこで、ようやく活動を始めたのか私の脳が、微妙な違和感を訴えた。

その違和感が何なのか確かめるべく私は二度瞬きをし、視界に映る景色を眺めた。

代わり映えのしない私と美亜の寝室の風景が目の前に広がる。

窓にはカーテンがかかり、その隙間からは朝日が差し込み、光の伸びる先にあるのは美亜が嫁入り道具にと実家より持ってきた木製のタンス。

いつものように枕元に置かれた目覚まし時計のスイッチはオンで、私と違って朝に強い美亜は目覚ましなんてものは必要ないらしい。だからこの目覚ましは私が仕事に遅刻しないようにと毎日使っているもので、


「ああ、今日はそうか――」


そして、今日は日曜日。

本来なら休日の今日、オフに設定されているはずの目覚まし時計が今日に限りオンになっている理由に、ようやく私は思い至った。

今日は、娘のさやかの10才の誕生日だ。

それのお祝いも兼ねて、私と美亜とさやかと今年で7歳になる一也の4人連れで、遊園地に行く予定の日だったのだ。

改めてもう一度、時計の針を確認する。

時間は午前六時を少し回ったところ。

さやかと一也の声が聞こえないのは、まだ早朝過ぎるからだ。けれど、それも後少しの間だけだろう。

日曜の7時からは、たしか二人の好きなアニメの放送があったはずである。

『平日は起こしても中々起きて来ない癖に――』と、そんな美亜の愚痴を思い出す。それと同時に、私は別の事を考えて少し噴出してしまった。

それでは、今日という日に、こんなにも早く目が覚めた私が、まるで遊園地に行くのを楽しみにしていたみたいではないか。

今年で36才にもなる、この私――早島大吾が。

 噴出し笑いに、少しばかりの苦笑いが篭る。

私は、それを噛み殺すと、たまには美亜の手伝いでもしようと、布団から這い出した。

五月序旬、暖房が不要な春の朝は、それでもまだ少し肌寒かった。






  ■ 二日と、一時間程前――



「僕、アレに乗りたいー」

「だから、カズちゃんはまだしんちょーが小さいからダメなのー」

「いやだー、僕、アレがいい~」


身長制限のある遊具、ジェットコースターを指差し、駄々を捏ねる一也を諫めるのは、最近すっかりとお姉さん然として来たさやかだ。

だが、そのお姉さんの姿を目にしながら、私の目には一つの重なる景色が見えた。

その景色の中、我侭を言っているのはさやかで、そして、――私達は中々に諌める事も憚られて、困り果てた表情浮かべている私と美亜。

少し前までは我侭を言うのはさやかの仕事で、一也は美亜の腕の中で可愛らしい寝息を立てていたもんだが。

今は私の隣、同じように腰掛けて二人を見守る美亜へと目をやると、どうやら彼女も私と同じ事を考えていたらしい。互いに笑い声を殺しながら零れる苦笑を交わしあった。


「パパ~」

「次ぃ次ぃ~」


そうこうしていると、どうやら次の目的地の折り合いが付いたらしい。

身長制限などという一也には納得のいかない理由で、半ば涙目になりながら抵抗していた瞳に、今は再び輝きを戻し、一也が私に早く立てと急かす。

結局何処にしたんだ? と、その隣に立つさやかへと目をやると、今朝見たアニメの影響か。歳不相応な肩を竦めるという動作の後、彼女が指差したのは――


「なるほど、アニマル戦隊のヒーローショウね?」

「うん、アニマルレッド見るー」


遊園地中央にある広い目のイベント会場だった。

私は、さやかが同時に差し出した遊園地のパンフレットを見て、今日ヒーローショウが開催されている事をようやく知ったのだが、どうやら、美亜は随分前からそれを知っていたらしい。

そういえば、この遊園地を選んだのは美亜だったのを思い出す。

なるほど、計画通りという事か。

そんな視線を美亜へと送ると、彼女はウィンクで返事を寄越してくれた。

確かに、今日ここに来てからというもの、一也やさやか達にあっちこっちと連れ回され、私や美亜のもう若くない体はそろそろ体力的に根をあげ始めていた。

だから、今も少しの空いている時間を惜しみ、こうやって二人ベンチに腰掛けているわけだし。正直、体力を使う系の遊具を選ばれたなら、僅かばかりの気合を搾り出す必要があるなと思っていた所だ。

その点、ヒーローショウならば、私達は側に座っているだけで子供達は喜んでくれる事だろう。

しかし、今日の本来の目的はあくまでさやかの誕生日祝いである。


「さやかはそれでいいのか?」

「おねーちゃんだからいーの。」


しっかりしてきた反面、日々娘から可愛げが無くなっていくのを憂うのは贅沢と言うやつなんだろうか。

こんな日くらい以前の我が侭な彼女に戻っても私も美亜も咎めやしないのに、と思いながらも、本人が納得しているならそれでいいのかもしれない。

私と美亜は互いに一瞥くれ合うと、よいしょ、と危うく言いそうになるのを堪えながら立ち上がった。

二人が立ち上がったのを見て、子供達が我先にと中央のイベント会場目指して走り始めた。


「あんまり走ると危ないぞー」


なんて言葉は既に届かない。


「言っても無駄、ね。」


どんな大人びた態度を覚えようと、子供は子供である。

先ほどまでのクールな態度のさやかは何処へやら。先を駆けて行く一也を追いかけ後を走る彼女の顔には慢心の笑顔。

そんな二人を流石に走って追ってまで止める気力はなく、それは苦笑交じりに言葉を返してきた美亜にしても同じ事なのだろう。

私達は一也とさやかに先導されるかの如く、イベント会場へと繋がるまっすぐの道をゆっくりと歩き始めた。

歩きながら見上げた空は深く澄んだ蒼。

浮かぶ雲は一つとしてなく、燦々と輝く太陽と、沈み損ねた薄い月だけが私達を眺めていた。






  ■ ...



「――、」


不意に名が呼ばれたような気がして、僕は背後を振り返った。

しかし、そこに広がるのは長い長い一本道で、これがホームシックという奴なんだろうか、と覚えて新しい言葉を自分の頭の中で繰り返してみる。

実際のところ、その時の僕の中にあったのは、張り裂けそうな程の好奇心であった為に、それは全然の的外れな言葉であるのだが、なんだか難しい言葉で自分を表現しようとしている自分が格好良くて、思わず頬が緩んだ。

と、


「……なにニヤニヤしてんのよ、気持ち悪い。」


問答無用の切り捨て御免。

何時の間に回り込んでいたのか、僕の肩越し側面から顔を覗きこませた少女が、冷ややかな眼差しを向けつつそう言った。


「なっ?! おま――っ!」


突然の、しかも、ここに居るはずのない少女の登場に僕は口にすべき言葉を見失う。

その間に、正面へと回りこんだ少女は、その顔を慢心の笑顔――というには、可愛らしすぎる――もとい、してやったり顔へと変え、


「逃げてきちゃった。」


僕の目の前にでかでかとブイサインを突き出して見せた。

しかし――


「逃げ出したって、……いいのかよ?」


良いわけが無い。

ちょっとした関わりで、少女と過ごした数日の間に、僕はこの子の立場と言うものを幼いながらも少しだけだが理解していたからだ。

その少しばかりの理解をかき集めて考えて、やっぱりどう考えても彼女がこの場に居て良い理由が見当たらない。

強引に考えれば、旅立つ僕をわざわざ見送りに来てくれた、とも考える事も出来たが――


(それこそあり得ない。)


恐らくもう二度と会う事は筈の別れ。

別れる日の前夜――即ち昨晩の事、僕達は些細なすれ違いから大喧嘩をしたばかりだったはずだ。

だから、今朝、城を発つ時にも、街の城門をくぐる時にも、この少女は見送りに来てくれてなくて――


「……まさか、最初から逃げ出すつもりだった、とか?」

「ぴんぽ~ん♪」


僕の正解を祝うように盛大に両手を広げジャンプを繰り返す少女。

なんだか、あの街を去る時に、昨晩の喧嘩をあんなにも後悔した自分が馬鹿にされてるようでで、こめかみに井形マークが浮かぶのを僕は隠せない。

だが、その感情をストレートにぶつけるのは何故か恥ずかしくて、1歳だけ大人な僕。

ここは理性的に少女を諭そうと口を開いた。


「あのなぁ、そもそも君が一人で外を出歩いて良いワケが――」

「――一人じゃないよ。」


最後まで僕の言葉を聞き切らずに少女が笑顔で反論した。

しかし、一人じゃない、という割には周囲には相変らず付き添いの人達の姿を見つけ出すことは出来なかった。

と言う事は結論は一つだ。


「嘘じゃないか、周りに誰も居な――」

「嘘じゃないよ。」


やっぱり最後まで言わせて貰えなかった。

相変らずの笑顔のまま、少女はそう言うと僕の手を胸元へと抱き寄せ、それが少しばかり恥ずかしかったのか頬を朱色に染めながら続けた。


「ほら、これで、ふたり。ね?」


発展途上の柔らかい感覚が、小さな温もりが腕より伝わって来て、少し身を寄せれば唇が触れ合うかもしれない距離で見た少女の照れ笑いに、僕は続けるべき言葉を一瞬にして忘れてしまった。


「……。」

「な、なんでそこで黙るのよ!」


不覚にも思わず魅入ってしまった少女の表情が、その瞳に露骨な動揺が浮かび、そんな叫びと共に暖かい感触は腕から離れてしまった。

それを心の底から残念に思っていると、少女が頬を朱色に染めたまま、怒った顔に再び笑顔を戻しながら続けた。


「ね、行こう?

 貴方の冒険に、私も連れて行ってよ。」






  ■ 一日と、二十三時間程前――



 気がつくと、あんなにも青かった空は、既に朱色に染まっていた。

どうやら私はヒーローショウの最中に眠ってしまったらしい。ショウは終わったばかりなのか、周囲の雑踏に寝ぼけ眼、霞む視界を送ると、出口へと続く細い通路には多くの人だかりが出来ている。


「でね、アニマルレッドが――」


直ぐ後ろ側から声が聞こえた。元気な一也のものだった。

そちらへと目をやると、当然といえば当然だが、美亜と一也、そしてさやかがまだ席に座ったまま、どうやらさっきまでやっていたヒーローショウの話をしているようだった。

まぁ、出入り口はあの人の込み具合だ。

もう暫く待てばそれも幾分マシになるのだから、一也が話している間は素直に待っていた方が良いだろう。

私はともかく、美亜までまさか寝ていた、なんて事はあるまい。

だというのに、既に一度見て知っている筈の内容を、一也の拙い解説を笑顔で、相槌を織り交ぜながら聞く彼女。

そういう所は流石母親だな、と思ってしまう反面、じゃあそのヒーローショウの最中、居眠りをぶっこいてしまった私は、父親失格なんだろうか、等と軽く自己嫌悪。

いや、実際、失格なのかもしれない。

現に、今は美亜と話すのに夢中な一也とさやかは、私の存在など忘れてしまったかのようにただ夢中で――


「あら、おはよう。」

「あ~、ネボスケさんが起きたぁ」

「ネボスケ~」


私の軽い嫉妬の眼差しに気づいたのか、含み笑いを隠さない美亜の声。それに続き、さやかと一也の不満気な声が重なった。


「い、いや~、途中迄は起きてたんだけどなぁ、」


ようやく気付いて貰えた嬉しさと、代わりに向けられた子供達の非難の眼差しに、喜び半分、切なさ半分。

頭を掻きながら情けなく弁解する私を、美亜が「こらこら、パパはお仕事で疲れてるんだから。」と、フォローを入れてくれた。

そのフォローに、相変らず一也は納得した様子は無かったが、さやかは本日何度目かの肩を竦める動作で、挙句、「も~、パパは全く、仕方ないわねぇ~」等と言ってくれやがった。

そういった仕草をする事が彼女の中ではマイブームなのかもしれない。

アニメの影響かはたまた年齢的なものなのかまでは分からないが、『我慢をして年上ぶる』事が嬉しいのだろう。呆れ顔に忍ばされたささやかの照れに気付き、私は「仕方ないパパで申し訳御座いません。」頭を深々と下げて謝罪してみせた。

そのままの体制で中々頭を上げることが出来なかったのは、込み上げてくる笑いを押し殺すのに必死だったからで。


「で、何処までパパは起きてたの~?」


どうやら、美亜に語るだけでは物足りないらしい。

寝ていたのならこれ幸い、語り尽くしてやろうと、ようやくにして笑いを押さえ込み顔を上げた私の目の前にあったのは、光り輝く四つ二対の瞳。

どうやら、二人の標的は、美亜から私に替わったようだ。


 徐々に静けさを取り戻すイベントドーム。吹き抜けの天井を見上げれば、朱色に染まった空。

腕時計を一度横目で見てから、私は二人に気取られぬよう軽いため息を漏らした。

散々に騒がしかった今朝の車の中。

帰りの車の中では、きっと遊びつかれた二人はぐっすりと眠ってしまうのだろうと思っていたのだが、どうやらそれは読み違いに終わりそうで、まぁそれならそれで楽しそうには違いなかった。






  ■ 一日と、二十○時間程前――



 休日の高速道路。

事故渋滞のお陰ですっかり日は落ち、それでも一向に動かない車の列。

トイレ休憩にと寄ったパーキングエリアから眺める紅いテールランプの筋は、相変わらず少し流れては直ぐに停止を繰り返していた。


(こりゃ本線に戻るのも一苦労だな……、いっそ下道で帰るか?)


駐車場に止めた自分の車に寄りかかりながら、最近、めっきり本数の減った煙草をふかす。

子供が生まれた時、一度は減らしていた煙草の摂取本数は、三十五歳を越えた際に、更に減少せざるを得なくなった。

理由は二つ。一つは会社の喫煙室がいよいよ完全撤去を余儀なくされたからと、定期検診の結果に『要注意』項目が二つもあったからだ。

まぁ、今すぐ病院に行ってどうこう、というわけではなかったのだが。

特に後者は、煙草の影響というよりかは、自分の老いがもたらした結果のような気もしたが、それでも子供の為、そして妻の為に自分はまだ倒れるわけには行かない。

今はまだ完全に止め切れては居ないが、いよいよ禁煙の時期が来ているのかもしれない。

そんな事を考えながら、窓越しに覗き込んだ車の後部座席。そこにはさやかと一也が寄り添い、静かに寝息をたてているのが見えた。

二人の子供達は私の少し切ないそんな決心などお構い無し、今はようやくの安らかな寝息を立てている。

ヒーローショウの後、岐路についた私達であったが、案の定、テンションマックスの二人は、もう語る語る。

後部座席から聞こえてくるヒーローの活躍を称える二人の声は、わずか40分足らずのショウ。どこにそこまで話すネタがあるのかとというかヒーローショウ自体よりも長くないかと言いたくなるほどに長く続き、それでもこの渋滞。日も落ちあたりが暗くなるにつれ、やがて二人の声が寝息へと変わり、そして今。

渋滞疲れを理由に入ったパーキングエリアで、私は何時間ぶりかの休息をとっていたのだ。

しかし、わが子二人、その安らかな寝顔を見ていると、あんなにも無理だろうと決めつけていた禁煙も頑張れそうな気がしてくるから親っていうものは不思議だ。


「今日はお疲れ様、だいちゃん。」


と、何時の間にトイレから戻ってきていたのだろうか、気がつけば声の届く距離まで戻ってきていた美亜がそんな言葉を私に投げかけた。

だが、その声は酷く穏やかなものだったというのに、不意を付かれた事と、何よりその呼び名に、思わず動揺する。

一瞬上がった心拍数を意識しながら、それを顔に出さぬようにと苦笑で隠す。


「おいおいおい、だいちゃんは、もうないだろう、美亜?」


なるべく、平時と変わらぬ調子で言葉を紡いではみたが、まぁそんな私の水面下の努力等、毎度の事、彼女には筒抜けなのだろう。

私の隣、車の汚れを一度確認してから、同じように車へと美亜は寄りかかると、案の定、『それが精一杯?』と言わんばかりの含み笑いを向けてきた。

『だいちゃん』と『美亜』というのは、まだ私達が夫婦ではなく、彼氏彼女の間柄だった時のお互いの呼称だ。

つまり、彼女は久しぶりに私を昔の呼称で呼んだ事に対する咄嗟の切り替えしが、そっくりそのまま昔の呼称で返す等という、その程度なのかと笑っているのだ。

だが、実際、その時の私に思いついたのは精々その程度だった。


「そういえば、俺達ってすぐに、『パパ』と『ママ』だったよな。」


替わりに話を続けて誤魔化す事にした。

そんな私の態度が余程面白かったのだろう。美亜は直ぐ後ろで眠る子供達の目を覚まさぬようにと、声を殺しながら肩でひとしきり笑うと、


「名前で呼び合ってた時間が、一番短かったよね。」


小さく息を吸い、当時を懐かしむ様にそう言った。

当時――視界に動かない高速道路のテールランプを映しながら、脳裏を過ぎるのは、まださやかが産まれる前の、互いに独身だった時のもの。

あの頃は、自分にこんな幸せが掴めるだなんて思っても見なかった。

当時の私といったら、今からは想像も出来ないくらいに、ネガティブな人間で、色んなものにまだ何処か怯えを感じずには居られない。そんな――


 ――精神病患者だった。






  ■ 二十年前――



 私が狂った理由を、親戚の人達は家族を一度に失ったからだ、と今でも誤解している。

けれども、それは恐らく違う。

違うのであろう事を、私は先生から聞いて知っていた。

今も覚えている、清潔感が溢れる代償に酷く質素な私の入院していた病院の個室と、今も思い出せない、入院期間三年のうちの最初の一年間。

俺がもっとも酷く狂っていた、その一年間を。




「……まだ、旅館じゃないの?」


目を覚ました時、僕はまだ車の中に居た。

僕の膝を枕替わりに眠る妹の美香を起こさないように気をつけながら、ゆっくりと体を起こすと、窓の外に見えた電柱の街灯がすぐ後ろへと消えていった。


「ああ、大吾。起きたのか。

 すまんな、父さんちょっと道に迷っちゃってなぁ」


後部座席後方の窓から見える景色は闇。

そこに点々と続く光の小さな粒は、恐らく今しがた横を通り過ぎた街灯のものなのだろう。

他に通るもののない田舎道。

そんな道を走る僕達は、家族旅行の真っ最中だった。

午前中の間に、母方の両親の墓参りを済ませ、午後からは僕や美香にはそちらがメインだった近くの水族館で目一杯楽しんだ。

母方の両親、つまり僕の祖父母は早くにして他界していて、母の他に子供のなかった祖父母の家は既に引き払われていた。だから、僕達はその日、近くの旅館へと泊まる予定となっていた。

近く、といってもあくまで車を使ったら、の距離で、海に面した水族館から山奥の旅館への道のり、それなりの距離があった筈だ。

遅くなる事は想定上で、夕食は既に水族館からの帰りに食べてきていたので、実質その旅館では今日は眠るだけ。連泊する予定なので、今晩は海の幸。明日は山の幸、とそうなる予定だったのだ。

だから、そこまで急ぐ必要もない、と両親の二人は言っていたはずなのだが。


「間違えたのは父さんじゃなくて、母さんの方よ。

 ごめんね、大吾。入る道を一本間違えたみたいで」


父の言葉に続けるようにサイドシートから母親の柔らかい声。

携帯もナビもない時代だ。運転席の後ろに座る僕からは、サイドシートの母親が後ろで眠る僕等に気を使っての事だろう、車内灯ではなく、懐中電灯で地図を照らしている姿が見えた。

その視界の端には、カーステレオ。デジタルなアラビア数字で表示されている時間は二十二時を少し回った頃。


「一応、旅館の方には連絡は入れてあるから、大丈夫だからね?」


そんな僕の視線に気付いたのか、母親はこちらの方へと視線を向けると安心させようと微笑んでみせた。

とはいえ、余りにも遅くなってしまっては旅館の方にも迷惑が掛かるのは当然の事。

口調に焦りのような物は見られなかったが、窓の外、微かに見える流れる景色が、普段よりも幾分早く感じたのは、間違いないのだろう。


「この道で間違いないはずだから、後、三十分くらい掛かるかな。

 大吾は安心して寝てていいんだぞ?」


バックミラーに僕の心配気な顔が映っていたのか、それとも母親の言葉から読んだのか。

僕を安心させようと続けた父親の言葉に、


「ううん、それくらいなら起きておくよ。」


眠気はまだ幾分残ってはいたが、起きていられない程でもない。

僕が起きていた所で、何が出来るわけじゃないが、二人にばかり頑張らせている事からの罪悪感。せめて、二人と一緒に起きていようと決めた。


「そうか。

 今から少し山道に入るから揺れるぞ。」


聞こえた瞬間、体がドアに押し付けられるようなGが圧し掛かってきた。

普段よりスピードを出している事と、余程のカーブだったのだろう。


「あんまり飛ばさないでよ、父さん?」


身の危険、というレベルではないが、若干の不安を感じた僕がそう口にすると、一拍置いてから、父と母が同時に噴出した。

なんでも、僕が起きる直前にも母に同じ事を言われたらしい。


「今のはカーブが急だっただけだよ。

 それよりも、ほら、窓の外。今日は満月だぞ?」


ひとしきり笑ってから、話を逸らすように父親。

だが、確かに窓から見上げた月は見た事もないくらいに大きく丸く――


「おおー、すっげーっ!!」


空気が澄んでいる為か、周囲の灯りが車のライトと小さな街灯しかない為か、やけに大きく輝いて見える満月。それをもっとじっくり見ようと、僕は車の窓を開け気がつけば身を乗り出していた。


「こーら、大吾。危ないわよ?」


車内から母親の注意を促す声が聞こえたが、身を乗り出すといっても膝の上には妹の頭があるので、そこまで無茶な身の乗り出し方は出来ない。

せいぜい頭を突き出すくらいで、


「――父さん!」

「あなた!」

「な――っ?!」


次の瞬間、三つの声が重なった。

軽いカーブを曲がった先、不意に目の前に巨大なトラックが現れたからだ。

後に聞く、飲酒の末の無灯運転をしていたというそのトラックを、父はかわし切る事が出来なかった。

激しい衝撃と轟音と共に、車外へと窓より放り出された僕は宙を舞い、そして、コンクリートで舗装された道路、その脇の茂みに叩きつけられるまでの僅かの間、確かに見た。

父と母とそして妹の乗ったままの車が、トラックに弾き飛ばされ、道路脇のガードレールを超え、谷の方へと消えていく、そのシーンを。



そして僕はそれから一年間もの間。

生死を彷徨う事となったのである。






  ■ 凡そ、十七年前――



相変わらずの悪夢に、俺は苦しんでいた。

父と母と妹の死は、その頃には知っていたし、何処か諦めが付いていた。

事故の瞬間、車が車道の向こうの谷底へと消えていった場面を覚えていたのが、かえって俺に彼らの死を受け入れ易いものとしていた、といえば皮肉だろうか?

ともあれ、その頃の俺が苦しんでいた悪夢とは、非情なようだが、亡き父を母を妹を惜しんでの物ではなかった。

それよりも、そんな事よりも、と言っても良い程に、俺の中にはもっと別の想いがあったのだ。

それは今の私を持ってしても、無視するしか対応策を持ち得ない、夢の中の出来事の話。


「あああああ――っ!」


その日の朝も、目覚めは俺の悲鳴から始まった。

布団を跳ね除け、涙と鼻水を垂れ流したまま迎える起床は、自分自身慣れ始めていた光景だ。


「おはよう、今日も元気そうだね。」


と、ベッドの上、荒い呼吸を繰り返す俺に、聞き覚えのある声が掛けられた。

その声が直ぐには誰のものかは分からなかったが、声を追い向けた視線の先、あったのはやはり見知った顔。

ゆっくりと混乱する思考を落ち着かせ、深い深呼吸を一度した所で、自分の顔がまだ涙まみれだった事を思い出し、慌てて服の袖でそれを拭った。


「……おはようございます。先生。」


もっと多くの俺の醜態を見ているはずの先生に、今更そのような涙など何でもないのだろうが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。

控えめに朝の挨拶をする俺に、俺のメンタルケアの主治医、小林貞子先生は、ふむ、と相変わらずの女性味のない返事を一つ。


「最近は、朝の記憶の混乱もなくなって来たみたいだな。」


続けてそう口にした。

『記憶の混乱』とは、その時の俺が毎朝起こしていた発作の原因のようなものだった。

その時の事、期間にすると一年にも及ぶ、当時の事は一切記憶に残っていないのだが、聞くところによると、俺は夢と現実の区別が付かなくなっていたのだという。

その夢というのが、恐らく先程まで見ていたものに違いないのだろうが、


「あの……一つ聞いてもいいですか?」


と、了解を得てから、俺は気になっていた事を聞いてみる事とした。


「どうして、俺は夢の内容を覚えてないんでしょうか?」


うなされ、今だって飛び起きる程の夢を見たばかりだというのに、その内容を思い出すことが俺には出来ない。

見慣れない壮大な景色があったような気がする。だが、思い出そうとするその景色にはどこか霧がかかり、はっきりとした形を作らないでいた。

何人かの親しい友人がいたような気がする。だが、思い出そうとし彼の顔はすべて黒塗りのお面を被っているかのよう。

何か大切な約束を、彼らと交わしていた気がする。だが、その会話の内容は断片的にすら思い出すことはできなかった。

そんな夢。

普通の夢なら、起きたばかりなら少しは記憶に残っていてもおかしくはないというのに。


「医学的用語でいうとメンタルブロックとに類すると考えるのだが、」


答えは直ぐに帰ってきた。

だが、その言葉の意味が分からず、苦笑を浮かべるしかなかった俺の反応に、先生は頭を二度掻くと、


「ようするに、そのその夢は君にとっては余程ショッキングな内容だったのだろう?」


そう確認を取ってきた。

おぼろげな記憶ながら、激しく脈打つ鼓動に、流れる涙。うなされた汗でぐっしょりと濡れた寝巻き。

それに肯定を返すのは容易な事だった。頷き返す俺に、先生は続ける。


「これは外科的な事例なんだが、例えば君がとてつもない大怪我をした場合、その痛みを感じない場合がある。それは君の脳がその痛みを感じないように痛みの情報をシャットアウトしているからだと言われている。」


シャットアウト、という言葉は耳に覚えがなかったが、話の流れから大体の意味を察し、頷き続きを求める。


「恐らくはそれに似通った事柄が君の中で、夢に対して行われているのだろうな。」

「ええっと……」


やっぱり分からない。

相変わらずの困った顔を浮かべるしかない俺に、先生は再度言葉を噛み砕くと続けた。


「つまりは、その夢の内容を覚えていると、君の私生活に支障をきたすから、脳がそれを忘れた事にしている、と言えば分かるか?」


流石にそれで理解した。

だが、頭では理解しても、そのような事が自分の身に本当に起こっているのだろうか、と考えると少し気味が悪い。

気味が悪い、が、それでもそれを受け入れるしかその時の俺にはなかった。

そうする事が、彼女への、小林先生へのせめてもの侘びとなるのだから――


「……もう、あんまり気にするな。」


気がつけば、俺の視線は先生の右肩へと向いていた。

淡い黄色のセーター、その上から羽織られた白衣。その白衣に何か付いているわけではなく、寧ろその下。

衣服に覆われた彼女のその場所には、恐らくは今も俺が穿った傷跡が残っているはずである。

普段は滅多な事では笑顔すら浮かべない彼女が、無理に笑顔を作って俺に気遣うな、と言ってくれるあの時の事件を、それでも俺は一生涯忘れるなんて出来ないだろう。

なぜなら、アレが俺を夢の世界から現実へと引き戻す確かなきっかけとなったからである。

その事件の事を、俺と先生――寧ろ、先生だけだが、『勇者の剣』事件と呼んでいた。

それは、俺が今も恐らく見続けている夢に由来している名前だ。

記憶から消えてしまった、先程の先生の話が真実なら、思い出してはいけない記憶として残っている、夢の中の物語。その物語の中で、俺は『勇者』だったのだという。

剣と魔法が存在するアニメや漫画の中にしか存在しないような世界。

家族を失うきっかけとなったその事件の後、その世界へと迷い込んだ俺は、その世界で『魔王』に唯一対抗できる『勇者』という役割に在ったのだと、当時の俺から話を聞いていた先生は言う。

あの時の俺は、完全に自分というものを、そして現実というものを見失っていたのだろう。

体の傷は順調に回復し、でも、その夢の中、何か大切なものを失った俺は、元の場所に還せ、とひたすらに繰り返し、それに従わなかった先生を魔王の手先だと決め込んだ。

そしてある日の事、俺はモップの柄を折って作った『勇者の剣』で、彼女の肩を貫いたのだ。


「正体を現せ! 魔王の手先!!」

俺の叫び。

続くのは突然の惨事に看護婦さんがあげた悲鳴。

そして、かなりの痛みがあったであろうに、肩を貫かれたまま小さな呻きだけを漏らし、「どうすれば、君は私を信じてくれるの、かな?」と、俺の瞳を見つめ、気丈に問う先生の言葉。

その時の真剣な表情。

事故直後から繋がる俺の記憶は、そこから始まる。

それが、俺が俺自身の現実を取り戻した瞬間だった。






  ■ 一日と、十九時間程前――



『勇者の剣』事件より、急速な心の回復を見せた私は、事故より四年の歳月が流れる間に、中学の義務教育を病院内で終了させていた。

そして、そこからは先生と遠縁の親戚の援助の下、高校、大学と進学していく。

だが、大学生ならばさして珍しくもない歳違いの同級生も、高校では稀有な存在で、結局卒業までの間、同級生から敬語を使われるという浮いたポディションだった。

浮いたポディションであった事を改善するつもりはなかった。

それどころか逆に有り難いとすら考えていた。

『勇者の剣』を先生の体へと突きたてた時の感覚が、ずっとその手と、心の中に残っていたからだ。

もし、私が再び悪夢に囚われたなら――そう考えると、とてもじゃないが親しい友人など作る気にはなれなかった。

そして、大学生活でも、私はその浮いたポディションを維持し続けていた。

年齢差は異例ではなくなった為に、敢えて自分から距離を取る必要があったが、私は自ら望んで他人と距離を取り続けた。

けれど、常に一人で居るように心がけていた大学生活の最期の四年目。卒業論文の作成の為に所属したゼミで私は運命の出会いをする事となる。

鬱蒼とした気分で訪れた初めてのゼミ室。集まった同ゼミのメンバーとの顔見せの日。

私は、そこで美亜と出会った。

一目惚れだった。

遥か過去に失った半身にようやく出会えた、そんな気がした。

三ヶ月の期間を経て、その想いを伝えた私に、彼女は、自分もそうだった、とそんな嬉しい言葉を返してくれた。

そして、俺達は付き合うようになったのである。


「な~に、二ヤついてるのよ?」


はっと我に返ると、目の前には随分と目じりに小皺の増えた美亜の顔があった。けれども、訝しげな表情を除き、私を見上げているその仕草は、当時の彼女となんら変わりはない。


「昔の事を思い出してたんだよ、色々とね。」

「色々ぉ?」


何を疑ってるのか、尚も露骨疑心な美亜の視線から逃げるように空へと視線を送ると、そこには重なる満月が輝いていた。

それを見つけた時、咄嗟に口を突いて出た、


「――お、今日は綺麗な満月じゃな……い、か?」


その言葉は、私の父親の最期の言葉のトレースであったが、そんな事よりも、私の瞳は上空で浮かぶ月に囚われていた。


「そんな言葉じゃ誤魔化されないわよ?

 ああ、でも、本当に今日は綺麗なお月様ね」


俺の言葉を受け、見上げた美亜が夜空に浮かぶ月の感想を口にする。

だが、その声は、私の耳に伝われど、脳の奥底までは染み込んでこなかった。

微かに全身に痺れたような感覚。

今しがた思い出していたあの最期の夜の光景。

父と母と最期に見上げた満月。

そして、今見上げた空で輝く満月。

それを頭の中で比較し、私の脳裏に走る痛いがまでの違和感。

震える声で、私は呻く。


「……なんなんだ。アレは?」






  ■ ...



 ――夢を見た。


酷く青く澄んだ空の、あの世界の夢だ。


「やだ――、やだよっ、」


だが、その澄んだ空をその時の俺には見ることが出来なかった。

地に仰向けに倒れた状態で、視界の大半を占めているのは、少女の泣き顔。

俺の瞳にも、涙が目一杯溜まっているのか、視界は霞み、その少女の表情すら、まともに見ることが出来ない。

いや、俺の視界が霞んでいるのは、なにも涙を流しているからではなかった。

酷い鈍痛が、俺の腹部で脈打っていた。

痺れる指先で、そっとその場所をなぞると、流れ出る暖かい何かと、ぽっかりと開いた穴。

自分の体のはずなのに、まるでその場所だけ自分のものじゃないような感覚。

酷く痛いのに、泣きたい位に痛いはずなのに、もう、そんな事すらどうでもいいような――


 ――そうか、

  俺は……負けたんだ……


ふと、少女の泣き顔を眺めていたら、そう思った。

思った瞬間、俺の中に蘇って来くる色の無い記憶。



 それは、薄暗い森の中――

気がつけば迷い込んでいた深い森。泣き虫の妹の身を案じ、探していた俺の前に突如現れた少女。

そして、そんな少女を追いかけてきた人ならぬ怪物達と、俺は生まれて初めての本当の戦いをした。


 それは、中世を思わせる石造りの巨大な城――

助けた少女が、皇女だと知った俺は、いよいよ自分の置かれた状況の異常さを理解した。

そして、その時から俺の元の世界に帰る為の冒険が幕を開けたのである。


 それは、唐突に始まった世界の異変――

紅く輝く第三の月が夜空に浮かび、そこより産み落とされた魔王が、穏やかな少女の世界に死を撒き散らした。

元の世界に帰る為の俺の旅の目的が、少しずつ変わっていった。


 それは、自分こそが世界を救う勇者だと、勘違いした少年の物語――

世界を渡った僕には不思議な力があった。

その力を使い救ったのは魔王討伐の旅になし崩し的に同伴した少女だけではなかった。

旅の途中で出会った、知り合った多くの人達を俺はその力をもって助ける事となる。

伝説の魔王の復活も伴い、いつしかそんな力を持っていた僕を多くの人は『森の勇者』と呼ぶようになった。

幾度の冒険を経て、やがては、僕の事を勇者だと認めなかった少女までもが、僕の事を勇者だと認めるようになった。

少女は望んだ。

魔王の居ない、元の平和な世界を。

その時から、僕の旅の目的は魔王を倒す事となり、僕は俺となった。


 村を襲う小物の怪物達にはもはや負ける気がしなかった。

けれども、旅を進めるにつれ、その先々で襲い掛かってくる怪物達は徐々に狡猾さと強力さを増した。

やがてその旅の先で俺はこの世界を訪れてから初めての敗北を味わった。

それが魔王の率いる魔王軍の一員だったなら、俺の旅はもっと早くに終わりを告げ、このような最悪の結果を招くことはなかったのだろう。

俺が敗れたのは、『海の勇者』とその町で呼ばれている年が同じくらいの少年だった。

彼もまた、その界隈の街では名を馳せた魔王と戦う勇者の一人だった。


 意地の張り合いのように、それからは彼と俺達の一団は、我先にと魔王軍に侵略された街を開放して行った。

好敵手を得た俺は、魔王軍との闘いの中、多くの事を学んで行く。

目的を同じとする俺とソイツとの間に友情と呼べるものが芽生えるのには時間はかからなかった。

再戦を約束した相手と時に戦友として肩を並べ、俺達は降りかかる魔王軍の火の粉を次々と払っていく。

そんな俺達の後ろを、どこか羨ましそうに眺めている少女を、時折振り返りながら。


 やがて、辿りついた魔王の城。

少女は、そこまで来て、魔王に挑む事に何癖を示した。

伝説に曰く、魔王を穿つ唯一の剣――聖剣は、俺達の手の中にはまだなかったからだ。

けれども、俺達は――いや、俺は止まらなかった。


 少女の事が好きな海の勇者は、そうそうに少女の聖剣探しの旅に付き合うと手のひらを返したが、その事が尚更俺の神経を逆撫でした。

俺は、魔王と戦う事を決めた。

そんな俺に賛同するように、今まで力を蓄えていた国々が、俺が旅の道中出会い助け合った人々が俺の元に終結した。

いよいよ、最期の戦いが始まる。

その前夜――


 ――少女と俺は約束をした。




 じゃあさ、約束して。


 さっさとあいつを殴り飛ばして、ここに戻ってくるって。

  私達の、ううん。私の所に、あんたは帰って来るって。


 ん、指切り。

  ――信じてるからっ!




     信じてるからね――?





――その約束を、俺は護れなかったんだ、と、横たわる俺にしがみ付き流す少女の姿に俺は確認する。

脳裏に蘇る魔王との戦い。

いや、それは戦い等と呼べるものではなかった。

魔王は、あきれるほどに強かった。

俺の攻撃は魔王の体に傷一つつける事が出来ず、代わりに繰り出される魔王の攻撃は、俺の体をやすやすと引き裂いた。

魔王との闘い。俺は防戦を強いられ、そんな中、共に明日を約束した仲間達が次々と倒れていった。

そして、終には魔王の手刀が、俺の、腹部へと――


「……」


もう、声は出なかった。

ただ、最後の力を振り絞って、俺は少女の頬へと手を伸ばした。

その手に気付いた少女が、血まみれの俺の手を掴み、そっと自分の頬へと押し当てた。

もう……少女の顔も見えない。

あのすぐ怒る顔も、

あの拗ねた不機嫌な表情も、

あの笑うと意外と可愛い笑顔も、

それでも、頬に触れた温もりが、見えずともそこに少女の顔がある事を教えてくれた。


だから、俺は、いよいよ思考すら手放さなければいけなくなる、その瞬間すら恐れずに迎える事が出来たのだと思う。

最後の瞬間、青白い光が一瞬見えた気がした。






  ■ 一日と、十三時間程前――



 誰かの歌声と共に訪れる目覚め。

その歌声は、この二十年間ずっと続いていたというのに、初めて聞くかのように新鮮で――

俺は、今日も流れる涙をそっと拭った。


「あら、おはよう。

 今日は早出だったっけ?」


パジャマのままで台所に行くと、結局昨日帰って来た頃には既に日も変わっていた、そんな時刻だったというのに、眠気一つ見せない笑顔で、美亜が俺を迎え入れてくれた。


「ああ……おは――」


一瞬、その笑顔に言葉を忘れかけたが、直ぐに挨拶を返そうと口を開き、


「あ、そうだ!

 ちょっと待ってね~」


即座に、その出頭を潰された。

挨拶すらさせない彼女の思いつきに、俺は一瞬、慣れ親しんだ嫌な予感がしたが、そこはぐっと堪え、仕方がないのでリビングの椅子へと座って待つ事とした。

自然と台所で何かごそごとと慌しく動く美亜に背を向ける格好となったので、彼女が何をしているかは分からなかったが、まぁ、朝食の準備をしている所に俺が現れたのだ。

一先ず、切りの良いところの迄、済ませてしまおこうとしているのだろう。

と、


「はい、どうぞ。」


不意に、背後で聞こえていた足音が止まったかと思うと、俺の前に伸びてきた手が、テーブルの上に湯気ののぼるコーヒーカップを置いた。


「……?」


基本的に俺達は米食なので、朝からコーヒーを飲むことはない。

せいぜい仕事に行くまでの間の駅で電車を待つ間に飲む缶コーヒーが関の山で、


「モーニングコーヒー、って私達あまりした事なかったでしょ?」


そんな台詞を口にするのが少し恥ずかしかったのだろう。

右手で自分の分のコーヒーをテーブルへ、左手のお盆で少しだけ顔を隠した美亜が、思わず言葉無く見返す俺へと照れた笑顔を見せた。

良い年して、何を恥ずかしがってるんだか――等と憎まれ口を叩くつもりは無い。

何故なら、言葉を紡ぐための俺の口には、早速に手にしたコーヒーカップが押し付けられ、まともに話などする事が出来なくなっていたからだ。

淹れたてのまだまだ熱いコーヒーを音を立てながらすする様に飲むと、口の中にほろ苦い感触が広がってきた。

次いで続いた砂糖とミルクの甘い感覚が俺の舌の上に広がった時、


「うっ――!」


俺は溜まらず顔を片手で隠した。


「もぅ~、慌てて飲むから、」


覆った視界の向こう、俺に気付かず呆れたような美亜の声。

けれども、それは直ぐに疑いの篭ったものへと替わる。


「え? そ、そんなに熱かったの?

 大丈夫?」


美亜の心配げな声が俺に掛けられる。

でも、俺は大丈夫だ、という返事一つすら返せぬまま、ただ顔を隠し――肩の微かな奮えだけは隠せず――


「笑ってるの? 冗談なの?

 ねぇ、パパ。大丈夫?」


続く美亜の声に、俺はようやく顔を覆っていた手を離した。

俺の手は濡れていた。

手を濡らした俺の目から流れる涙は今も止んでは居なかった。


「ちょっと、どうしたの!?

 なんで……泣いてるの?」


美亜の声に、俺はまだ全てを伝える事は出来ないと思った。

だから、せめてのも言葉を、震える唇へと伝えた。


「いや……違うんだ。

 ただ、私は、幸せで――本当に、幸せで……」


涙の向こう、きょとんとした美亜の顔がなんだか面白くて、俺はようやくそこで笑顔を作る事が出来た。






  ■ 一日と、八時間程前――



「パパー」

「こっち見て~」


子供の声に、顔を上げると昼の近場の公園、そこにある滑り台の上で、一也とさやかが嬉しそうに手を俺の方へと振っていた。

それに手を振って返すと、昨日の遊園地が今日も続いている感覚なのだろう、嬉しそうな声を上げながら滑り台を滑っていく二人。


「……どうしたのよ?」


そんな二人を自然と零れる笑みをそのままに眺めていた私に、訝しげな視線と言葉を投げつけたのは、美亜だった。

急に取った有給休暇。子供達にしてみればそれは嬉しいだけなのだろうが、彼女にしたら俺がどうしてそのような事をしたのか、が、酷く気がかりなようだった。

確かに、俺は今まで有給はどちらかというと消費できぬままに繰り越してしまうタイプで、今までもずっとそうやって休みを取ることが殆ど無かったからだ。


「溜まっている有給消化、なんて言っても説得力ないか?」

「……納得できるわけないでしょ。」


子供達から目を離し、昨日の遊園地でのように公園のベンチ、俺の隣に座る美亜の方へと視線を送ると、そこには突然の有給休暇を決めた時からずっとそのままの、どこか不貞腐れたかのような彼女の表情があった。

恐らくは、今の彼女の頭の中では、俺の身に起こった色々な良くない可能性が渦巻いている事だろう。

リストラだなんだと、何かと世知辛い世の中である。

もしかしたら俺もその一員となったのかもしれない、と考えているのだとしたら――


「リストラとかじゃないからな?」

「じゃあ何――なのよ」


少しでも安心させようと、一つのその可能性を否定した事が、彼女の神経に逆に触れてしまったらしい。

一瞬、荒ぶりかけた声が、近くで遊ぶ子供達を気遣ってだろう、直ぐにしぼみながらも続けた。

突然の俺の有給は、子供達には何よりの贈り物になったが、どうやら大人の美亜には逆効果なようだった。

今、俺の目の前にある彼女の二つの瞳が、無言の抗議を訴えていた。

理由を話せない心苦しさが、俺の胸にこみ上げて来て、一瞬、この場で言ってしまうかと脳裏を過ぎった。

しかし、それを口にしまうと、きっと終わる。

その覚悟は、ほぼ完了していたが、だが、まだもう少し、ほんのあと少しの勇気が、今の俺には足りない。

口を開くと、余計な事を言ってしまいそうだったので、俺は美亜の体を抱き寄せた。

昼日中、こんな所をご近所さんに見られたら、なんと言われるか分かったモンじゃないが、そんな事はもうどうでもいい。

俺に足りない勇気を、ほんの少しの勇気を、彼女から貰いたかった。


「……だ、だいちゃん?」


耳の側、明らかな動揺感じる美亜の声。

構わず俺はゆっくりと口を開いた。


「明日の夜、全てを話す。

 だから、今は、少しだけ、このままで……」


抱き寄せた美亜の体は温かかった。

確かな体温、確かな鼓動。

体の中に染み込んでくる彼女から注がれる俺への偽りなき愛情。

俺は、そこから、勇気を貰う。

その愛情を振り払う為の、ちっぽけな勇気を。


「あ~、パパとママが抱き合ってるぅ~」

「……なんでパパ、泣いてるの?

 ママ、パパ、何処か痛いの?」


気が付くと側から子供達の声がした。

俺は腕の中に新たに二人を迎え入れると、無言で抱きしめた。






  ■ 二十三時間程前――



 はい、その節はお世話になりました。


 そんな事はないですよ。


 その事なんですが、一度明日お会いできないかと。


 いえ、出来れば外で。場所は――  


 はい、ええ。


 明日、急な事で本当に申し訳ないんですが、


 案外、休む口実が出来たって思ってませんか?


 ……先生が黙る時って、肯定って言うときですよね。


 いえ、はい! 有難うございます。感謝もしてますよ。


 ……会うのは、そうですね、八年ぶりです。


 はい、俺も楽しみにしています。







  ■ 二十分前――


 逆くの字型のカーブに差し掛かったところで、俺は車を減速し、外径側の路肩へと車を寄せた。

停車させた車、後方より他の車が来ていないかを確認してから、ゆっくりとドアを開ける。

すぐさま流れ込んでくる五月の冷たい夜風に、後部座席で眠る子供達が目を覚まさぬようにと、滑るように車から降りて、後ろ手にドアを閉める。

背後より続くもうひとつのドアの閉まる音に、振り返らずとも、美亜も来るから降りた事を察した。

俺に続く美亜に、背後を振り返らず、一先ず俺は正面の女性に挨拶をした。


「お久しぶりです、小林先生。」

「ああ、久しいな。早島クン。」







  ■ 十五分前――



 周囲に見える灯りは点々と、山肌に沿うように続く路灯の光。

茂る青葉に隠されて、風が吹く度に瞬くその灯りに比べれば、空に輝く月の方が余程しっかりと俺達の足元を照らしてくれる。

そんな田舎の峠道。車通りは無く、周囲は見渡す限りの山々で、空に浮かぶのは大きな丸い月。

それさえなければ、この光景は酷くあの時の景色に被る。

視線を空から再び山肌へと戻し、点々と続く路灯の灯り。その先には、二十年前、俺の家族が宿泊する予定だった旅館があるのだろう。

無論、その場所が今も潰れていなければ、なのだが、恐らくはその旅館は今も営業しているのだろう。あの時、俺が思い描いていた景色のままで。

そう確信を抱かせているのは、酷く妄想じみた思考だ。

平常な人間ならば、鼻で笑って一蹴出来てしまう程の、それどころ、そう主張する者を蔑視してもおかしくはない程の妄想。

だが、俺はその妄想に確信を抱いていた。

それに気付いて以来、俺は、自分の精神病が再発した可能性の方を寧ろ望んでいた。

けれども、そうやって考え抜いた俺の思考が、俺の淡い望みを打ち砕いていく。

何故なら、聞こえてくるのだ。

瞳を閉じて、耳を澄ませば、

記憶に残らない夢の残滓のようなものだと納得、結論付けていたあの歌声が、今も、鮮烈に。


だからもう、逃げ出す事なんか出来るわけがないのだ――と、そんな覚悟と共に、今、俺はここに居る。

全ての始まりの場所でもある、この場所に。


「さて、何から話せばいいんだろう?」


心の整理、覚悟の確認を自分に行っていた間に、再び見上げていた夜空に輝く満月。

そこより振り返り、視線を背後の二人、美亜と先生へと送りながらの俺の言葉に、一人は疑問色に染まった瞳を睨むように細め、もう一人はそっと目を逸らした。


「――じゃあ、この場所の話からしようか。」


言いたい事は山のようにあるだろうに、今は無言で居てくれる美亜に、俺は全てを話そうと、ゆっくりと口火を切った。


「俺が昔、家族を亡くした場所が、ここなんだ。」


事故後、この場を数度に渡り一緒に訪れた事のある先生はまだしも、初めてこの場に連れて来た美亜の瞳は、それだけで驚きで大きく見開かれた。

美亜には、事故の事も、その後の精神病を患っていた事も話してはいたが、この場所に連れて来るのは初めてだった。

俺にしてみても、この場所に来るのは実に十年以上ぶりの事。

実際に墓の下に仏様となった両親が居る、などと信じているわけではないが、亡き家族を思い偲び訪れるのは、やはり墓前。

美亜と共に訪れ、お参りをするのはいつも近所のお寺だった。


「飲酒運転に加え、無灯運転をしていたトラックと正面衝突。

 運良く窓より放り出された俺を除き、両親と妹は、この下へと落ちていった。

 あの瞬間の事は、今でも鮮明に思い出せるよ。」


背面の崖を指差しながら、身体を寄りかからせたカードレール。事故後訪れた時には既に修復されていたそれは、記憶の中のあの時の光景と異なる景色の一つではあったが、別段、それが俺の感じた違和感の正体でもなければ、妄想じみた俺の確信を、確信足らしめている物証でもない。

物証は、また別にあった。


「助かった、といえども、走っていた車より放り出された俺が無傷無事って事はなかった。

 知っての通り、そこから一年の間、俺は眠り続け――」

「――そして、目覚めた時、君は現実とその昏睡期間に見た夢との区別が出来なくなっていた。」


俺の言葉尻を続けたのは、小林先生だった。

更に、そこから続くように美亜が口を開く。


「……その夢というのが、パ――だいちゃんが毎朝見てるっていう『覚えていない夢』、なんだよね?」


確認するような美亜の口調に、俺は一度だけ頷いてみせた。


「先生の言葉を借りるなら、アレは覚えてない、というよりも故意に脳の方でブロック、思い出せなくしているっていう感じみたいだけど、」


続けた俺の言葉に今度は先生が頷き返す。

それを確認した俺は――


「――本当は、忘れたかったんだ。俺が。

 自分のせいで誰かが死んだ、なんて。」


――俺の続けた言葉が、場に一瞬の沈黙を投下した。

そして、


「――思い出したのか!」

「覚えてるの――?!」


二つの声が響いたのは同時だった。

そして、その二つの言葉の微妙な違いに、俺は自身の妄想の確証を得る。


「……俺、そろそろ帰ろうかと思うんだ。」


満月の夜。

あの時と同じような時間。

頬を撫でる心地良い山風。

俺が異世界へと渡ったあの日に酷似する今日、この場所こそ、そうするにはうってつけだと思えた。


「……な、何を言ってるの?」


震えた声で、僅かに焦点を失った瞳に俺を写し、美亜の声。

それに返そうとしている自分の言葉が、どれほどまでに美亜を傷つけるかを想像して、心を打った

けれども、もう決断を下した俺の心は揺らがない。自分をこれ以上甘やかすのは、許せなかった。

だから、


「俺はあの世界へ帰る。」


美亜を捨てて、子供を捨てて。

気づかねば、幸せに過ごせたであろう、この世界は、しかしながらそれに気づいてしまった以上、もうそれを黙認できなかった。


「この世界こそ――幻なんだ。」

「馬鹿っ!」


美亜の振り下ろされた右手が、俺の頬を打った。

裂けるような音が、静かな山に響き、それに気取られた次の瞬間には、胸の中に彼女の温もりがあった。


「どうして、どうしてなのよ?

 なんでそんな事言うの?

 私達、今まで上手にやってきてたじゃない!

 何か、何か不満でも――っ!」


見下ろした先、見上げる美亜の濡れた瞳が容赦なく俺を貫いた。

それでも、俺の心は――揺らがない――わけなんかない!

苦しかった!

切なかった!

泣きたかった!

今からだって遅くは無い。

全ての記憶にもう一度蓋をして、夢を夢だと笑い、過去にして――どうして、そういった生き方が自分には出来ないのだろうか?


「美亜……」


自分の中でいよいよ大きくなる感情に押されるまま、俺はそっと彼女の肩に腕を回すと、


「――君の、歌が聞こえるんだ。」


抱き寄せ、絞りだすようにつぶやいた。


「分からないよ!」


抱き寄せた腕は即座に振り払われた。首を大きく横に、髪を乱れさせながら叫ぶ美亜。

打たれた手は痛かったが、それを無視して俺は言葉を言葉を続けた。


「毎朝!毎朝聞こえてるくるんだ!

 君は歌っていないって言ってるけど、君の声で歌が!

 だってそうだろう?

 歌ってるのはこの世界の君じゃなくて、あの世界の――」


言葉なんか、通じるわけがないのだ。

俺の声が彼女に届くことはない、理解などされるわけがない。

理解など彼女に出来るわけがないのだ。この世界に生きる彼女にだけは。

だというのに、それでも彼女だけには理解して欲しいと、同じような言葉を繰り返えしてしまうのは――


「――これも俺の弱さだというのか、」


心の中で思ったことが、口を突いて出た。瞬間、致命的だと感じた。一人よがりすぎるその言葉が、俺と美亜の間の溝を、もう埋まらない、埋めるつもりがないという自身の意思表示のように思え。

気がつくと美亜は地べたへと腰を落とし声もなく泣いていた。

そんな彼女を見下ろす俺の視界も涙で歪んでいた。

互いに、それを拭おうともせず、僅かな時間の沈黙。


「……どうして、

 どうして、そんな病んだ中学生みたいな事を、今になって言うのよ……」


美亜がついに俺から目を逸らした。

それが、十年近くを共にした、俺達夫婦の最期だった。

もはや、掛ける言葉もなく、地べたに座る彼女に手を伸ばしてやる事すら、俺にはもう許されない。


「……先生。」


ようやくに、涙を拭い、視線を美亜の横。今までの会話をずっと立ったまま聞いていた小林先生へと向けた。

泣き崩れる美亜の横に佇む先生は、俺達の会話に口を挟む事無く、ただ順番を待っていたかのように、俺の視線を受け、色々と聞きたい事はあるんだがね、と前置きを入れてから続けた。


「この世界を君は『幻』だと言ったが、その理由を教えてくれないか?」


てっきり精神病が再発したと言われるのだろう、そう覚悟していた俺は、その質問に少し戸惑った。

けれど、理由を聞いてくれるのならば、と意を決して口にする。


「歌声が聞こえるんです――」

「――それは、幻聴だ。」


それは即座に否定されたが、俺は構わずに続けた。


「今も夢に見るんです。」

「人間は気がかりな事や葛藤があると、それを繰り返し夢としてみるものだ。」


「仲良くなった人に、全てデジャビューを感じるんです。」

「言葉の通りなのだろう?」


「浮かぶ景色が見た事ないような場所でも?」

「そうだ。」


――じゃあ、


「じゃぁ、アレはなんなんですか?」


そう言って、俺は空を指差した。

導かれるよう、先生と俺、更には美亜までもが俺の指差す先にあるものを確かめようと視線を送る。

だが、そこにあるのは、なんら変哲もない、二十年以上もの間、変わらず夜を照らしてくれていた月しかなく――。

視線を空より戻すと、ちょうど二人も俺の方を向き直ったところだった。

それを確認して、俺は続けた。


「俺は、先生に怪我をさせた事をずっと心苦しく思ってたし、それは今も変わらない。

 だから、先生の恩に少しでも報いれるように、精神病を再発せぬよう、

 自分の過去を振り替えらないと、そう決めた。」

「……。」

「……。」

「夢の中で見た記憶に、封をしていた事も原因なんでしょうね。

 あんなものを違和感なく受け止めてしまっていたのは、」

「早島クン、私には君が何を言っているのかが――」

「分からないですか?

 ええ、美亜には分からないかもしれない。でも、小林先生、貴女ならこう言えば分かるはずです。」


俺は再び空に浮かぶ月へと視線を送ると、そこにあったモノを見て、嗚呼――、と心の中で深い絶望を噛締めた。

そう、夜空に浮かぶ見事な満月は、今の俺にとっては絶望の象徴、この二十年が偽りだった断言するに事足りる証明。


 夜空に紅く輝く月――

  ――その影に重なるように映る蒼い月


二つの満月。

それは、幼少の頃、俺が見たものとは明らかに異なる異物。

そして、異世界で過ごした二年間の間に見慣れてしまった、夜の景色。


「俺の世界の月は、真っ白で、一つだけなんですよ。先生。」

「――っ!」


瞬時に、こわばる先生の表情に、この瞬間までまだどこかで否定される事を望んでいたのだろう、心の奥底で、何かかが微かに痛かった。

沈黙が、場に重苦しい雰囲気を戻し、俺の鋭い視線から再び逃げるように、顔を足元へと落とす先生。

ややあって彼女は弱々しく続けた。


「……どうして、その話を私に?」


それに対する答えは、全てを知ったときから決まっていた。


「美亜も、彼女だけじゃない、会社で親しくなる奴にも、友人と呼べる連中に会う度に、

 俺は幾度となくデジャビューを感じてきた。

 けれども、それはデジャビューなんかじゃなかったんだ。

 今だから分かる。

 美亜も、そういった友達連中に感じた概知感を覚えて当たり前だったんだ。」


俺は一度大きく吸い込んでから口を開く。


「俺の周囲にいる連中は、全部、あの世界で出会った人達を模しているからだ。

 似ているんじゃない、似せられているんだと、俺は知った。

 じゃあ誰に?」


一拍置き、視線は先生へから逸らす事無く、


「その答えにたどり着くのは容易でした。

 ここに辿りついてからの俺の人生に深く関わった人の中で、

 唯一貴女だけがあの世界の中に登場しなかったオリジナルのキャラクターだったから。」

「……」

「……先生。

 お願いします、教えてください。

 貴女は何者なんですか?」

「……」


俯き、ただ無言の先生の心中は今は伺えない。

だから、ここまで来たら俺は後は全ての自分の気持ちを伝えるだけだと更に続けた。


「先生!

 この二十年間、俺は貴女に支えてもらった。

 この二十年間を、俺は不幸だったとは少しも思っちゃ居ない。

 貴女が、俺をここに閉じ込めているのだとしても、悪意があっての事とは思えないんだ!」


いつぞやのように、もう彼女に勇者の剣を突き立てる事なんかはもう出来ない。


「教えてくれ、答えてくれ、先生!

 貴女は何者なんだ!

 ここは何処で、どうして俺にこんな世界に――」


続きを口にしなかったのは、先生が俯いていた顔を上げたからだ。

彼女の視線は正面の俺を取り越し、見上げたられた蒼と紅の満月。

それを瞳に写し、困ったような苦笑を浮かべながら彼女は言った。


「登場人物、に関して言うなら、君が寂しくないようにという配慮からだったんだが……

 月に関して、私の調査不足だったな。

 せめて、初期の段階に違和感を訴えてくれていれば、それも修正が効いたものを、」

「それって――」


この世界がやはり幻だったという事の肯定か、と問うより早く、俺へと向けられた先生の視線。

その物悲しげな瞳に俺は続けるべき言葉を絡める取られ、


「――、」

「ぇ? わた……」


首だけを捻り、先生はその瞳に美亜を写した。

突然視線を向けられた美亜が何かを言うよりも早く、先生の手から放たれた青白い光が彼女を包んだ。


「先生!?」


脳裏に記憶がよみがえる。先生が放った、美亜が今包まれている淡い光。あれは眠りの魔法だ。

とたん、自身での支えをなくし、地面へと倒れようとしていた美亜の体を辛うじて間に合った俺の腕が支えた。

一瞬の事、俺の腕の中に納まった美亜は、穏やかな寝息を立てていて――


 ――先生の言葉、

  彼女の行使した魔法、

  そして、その効果。


そのすべてが、俺の確信を、


「――肯定だ、早島大吾。

 この世界は、全て私が創った偽りでしかない。」


小林先生が肯定した。







  ■ 五分前――



 ――この世界は、全て私が創った偽りでしかない。


覚悟していたとはいえ、その言葉に俺の中で、改めて小さな痛みを感じた。

腕の中に眠る俺の大切な温もりを一瞥し、次いで停車させたままの車の方へと視線を泳がせてしまう。

と、不意に誰かが溜息を付いたような気配を感じ、俺の視線は先生の方へと向き直った。

その先、やはり俺の思い違いではなかったのか、肩を竦めるような仕草を行いながら先生は続けた。


「……そんな君だから、せめてここで幸せになって欲しかったんだがな。」

「――ぇ?」


その言葉の真意を問うよりも早く、先生は次の言葉を口にする。


「まず最初に言っておこう。

 君の願いは、察するところ、あの世界に再び戻る事なのだろうが――それは無理だ。」


ある意味、ここまでは全て俺の思い通りだった。

この世界が偽りだった事、それを知る俺以外の人間が先生だった事。

後は、先生に頼み、あの世界へ、遣り残した事の多くが今もそのままの、彼女の元へと帰るだけだと思っていた俺に、しかしながら返された言葉は、否定。


「なんで――っ!」


思わず声を荒げる俺に先生は視線を逸らした。

そして、弱々しく続けられた彼女の言葉は、俺の想像を遥かに上回った。


「……あの世界は、今は消去中状態にある。」

「消去?!

 どういうことなんだ!

 どうし――」


どうして、と続けようとして、脳裏に浮かぶあの時の光景。

俺の仲間達の笑顔が、一つ、また一つと消えていったあの時の、赤と黒に染まった絶望の景色。


「俺が、魔王に、負けたから、か?」

「……、」


絞りだした俺の声に、返されたのは沈黙という名の肯定。

悔やむような彼女の表情が、俺の言葉が間違って居ない事を裏付けていた。


「そ……んな、」


全身から力が抜ける。

ようやくここまでたどり着いたというのに。もう少しであの世界へと帰る事が出来る、と、先生に認められさえすれば、それも不可能じゃないと思っていただけに、彼女のその言葉は俺の中に酷く動揺をもたらした。

辛うじて最期の理性で、美亜を落とさないように気遣いながら、なんとか大地に立つ俺に先生は続けた。


「……君が気に病む事ではない。

 理解してもらえないかもしれないが、君が来た時点で、あの世界は半ば終わっていたんだ。」

「……、」

「終わりかけた世界が、最期の力で異なる世界から、君という希望を招き入れた。

 そういう言い方をするなら勝手に希望呼ばわりされた君は被害者になる。

 だから、君がそれを憂う必要などないんだ。

 むしろ、元の世界に返してやる事すら出来ない私を恨めばいい。」

「……、」

「本当ならば、強大になりすぎたあの魔王を打ち滅ぼした後には、君を元居た世界に帰すつもりだったんだ。

 魔王さえ倒す事が出来れば私は力を回復する事が出来たからね。

 しかし、それが無理だった以上、私にはこうするしかなかった。

 少しでも、君が元居た場所に似せた世界を創り、そこで君が死ぬまでの平穏の営みを――」

「……ぁ」


失意の底、先生の言葉が少しずつ中へと染み込んでくるにつれ、俺の中に、別の感情が芽生え始めるのを感じていた。


「営みを過ごしてもらおうと思っていた。

 これは私が作った幻想だが、実際に君のいた世界で起こりえた可能性の一つなんだよ。」

「……が」


その湧き上がる感情は、何故かやたら懐かしいもの。


「もう直あの世界は消えてしまい、直ぐに新しい世界が誕生する事になるだろう。

 望むなら君をもう一度そこの世界の住人にしてやる事くらいなら、私には出来る。」

「……ぃぇ」

 

感情が、俺を揺さぶった。

絶望の底に触れ、震えだす俺の体。

忘れていたのは記憶だけじゃなかった。


「どうか、今しばらく私に時間を与えてくれないか。

 この世界で一年、あの世界で言うところの二年で、全てあの世界の消去は――」


震えているのは何も体だけじゃない。

酷く滾っていた、震えているのは、俺の心だ。

絶望の淵に幾度となく立たされ、その都度、そこから不死鳥の如く蘇る。

それが、勇者なんだと、それが俺なのだと、そう言ってくれたくれた人は、あの世界にしか居ない!


「――私は、」

「俺は――っ!」


叫んでいた。

腕の中で眠る美亜にも構わず。


「俺には、元居た世界だとか、恨むだとか、世界の消去だとかは知ったこっちゃねぇんだよ!」

「……っ」

「ただ、あの世界には遣り残したことがある!

 俺にしか出来なかった事がある!

 俺が生きたのはあの世界だ!

 あの世界が滅びるというなら、俺が止めてみせる!

 俺は勇者だ!

 あいつらが――ミアが、そうある事を望んだアイツの勇者なんだ!

 だから――っ!」


 ――だから、


「気づいちまった以上、もう、この世界には居れない。」


最期だけ噛み締めるようにゆっくりと、俺は眠る美亜をそっと地面へと下ろした。

眠る穏やかな横顔に、俺の中からトレースされた彼女に対するコレは、裏切りなのか、と少しだけ考えて、結論を得るにはあまりに面倒だったので苦笑だけで流した。

続いて視線を送ったのは、俺の愛車。子供が大きくなっても狭くないようにと選んだ八人載りのワゴン。

その後部座席で今も眠る二人の子供に、すまない、と侘びを送り、最期に正面で地面へと目を落としたままの先生へと向き直った。


「……俺の昔居た世界へは戻せなくても、あの世界へなら戻せるんだろう、先生?」

「……」


彼女に於いて、沈黙は肯定だ。


「俺は戻らさせてもらうぜ。いいな?」


例え、戻った先で世界が消えようとも、再び魔王に殺される事になろうとも、構わなかった。

ただ、このままで良い訳がない、と、それだけの気持ちが背中を押す。


「……、」


先生は何も答えなかった。

ただただ無言で、じっと地面を見つめ、やがて、


「……二年だ、

 その間に魔王を止める事が出来れば、世界の消去は止める事が出来る。」


ぽつりと言った。


「だが、魔王を倒す術など最早あの世界には残されていない。

 君の勇者としての力も、もう――っ」

「――十分だ。」


手で遮って止める。

続く絶望の言葉を恐れたわけじゃない。

ただ、あの世界に再び戻れる、と、今はそれだけで十分だった。


「……ゲートは既に出した。

 好きにしろ、早島大吾。」


笑みを抑えきれない俺に対し、顔を上げた先生の顔に浮かぶのは、何故か拗ねたような表情で、


「……どこ?」


振り返り周囲を伺うがそれらしいものは見つけることが出来ず、


「……、」


無言で先生が指差す先には深い深い崖。

ガードレール越しに覗き込んだその遥か下方に、白色に光源を見つけることが出来た。


「……」

「……」


思わずジト目になって振り返ると、同じような視線で見返された。

どうやら、俺のこの選択には先生的には不満たらたららしい、が、これで道が開けた事に違いはない。

だとしたら、俺が先生に送る言葉は一つだ。

ガードレールに足を掻け、俺はそこで先生を一度振り返り


「ありがとうな、先生。」

「……。」


先生は、相変わらず拗ねたような表情で、答えは何も返ってこなかったが、思いだけは十分に伝わったと感じた。

だから俺は、再び視線を遥か眼下のゲートへと向けると、


瞳を閉じた。




     信じてるからね――?




 あの時の約束をもう一度、頭の中繰り返す。

  あの時の彼女の涙を、頭の中思い描く。


 俺は、それを思い出しながらその身を崖下へと躍らせた。


































































 歌が――


 歌が聞こえていた。


 それは、聞いた事のない、だが、心地よい子守唄。


 けれども、俺の意識はその歌の意に反し、ゆっくりと覚醒の手綱を手繰り寄せる。



 どれ程長く待たせてしまったのか。


 どれ程長く待っていてくれたのか。


 俺の側からずっと聞こえていたその歌声の主を、俺はきっと知っている。


 だから、ずっとずっと伝えたかった一言があった。


 それを口にする為に、俺はこの世界に戻ってきたのだ。



 重い体躯。


 薄い毛皮の布団を押しのけ、上半身を起こすと、直ぐ側で聞こえていた歌声が止んだ。



 息を呑むような声、向けた視線の先にあるのは、驚きに戸惑う見知った少女の顔で、



 だから、ゆっくりと俺は口を開く。








「ミア、お前、歌下手すぎ。

 おちおちと寝てることも出来なかったじゃないか。」


「――馬鹿っ、

 十年も寝たきりだったくせに」







 

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― 新着の感想 ―
[一言]  私の足りない脳ではなかなかついていくことは難しいです。
2016/10/13 14:50 退会済み
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