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05.呂布の一騎討ち

 三国志及びその引用において一騎討ちは四度存在し、呂布と郭汜の一騎討ちはその一つである。

 一対一の対決は、ただ楚漢戦争のとき項羽が劉邦に挑戦してすげなく断られたのを除くと、春秋時代以来絶えて無かった。それが貴族性社会への移行が進むと共に蘇った。


 まず他の一騎打ちの類例を挙げるに、後漢末より三国時代までで、関羽と顔良の戦い、閻行と馬超と戦い、孫策と太史慈の戦いがある。

 また晋代より南北朝までに、晋書に平先と陳安の戦いがあり、南史に薛安都と魯爽の戦いがあり、北斉書に綦連猛と突厥の武将(姓名不詳)、隋書に史万歳と突厥の武将(姓名不詳)の戦いがある。他にもあるかもしれないが確認し切れない。引き分けに終わった孫策と太史慈の戦いを除くと、いずれも前者が実質的に勝利している。

 この少ない例から戦いの傾向を見る。



 史書の記述に基づけば平先は三合で、綦連猛は一合で勝利しているから、決着は早々とつく傾向があったように見える。多くの敵が居るときは何十回も振り回すようだが、一対一のときは一度武器を交えるだけでどちらかが刺されるか武器を落とすか落馬した。

 使用者が屈強だからと言うのもあるだろうが馬上矛は強力で、劉宋の龍符は槊(騎兵用の長矛)の一合で五、六人を切り、朱超石は矟(槊の異字体)で三、四人を一度に貫き、後周の王思は矛の一撃で数人を倒したとある。晋書劉曜載記によれば長さは丈八尺で、即ち4.6m。梁書蔡道恭伝には二丈五尺といい、6.4m。その重量は多分3-6kg程度。やたらと長い上に柄が木造だから頻繁に折れた。


 一騎討ちに用いる武器は大体矛であり、戟を使っていたという話は項羽以外に見当たらない。確かに呂布は戟を所有していて、袁術と劉備を和解させるときに射撃の的として利用していたのだが、一騎討ちの時には他の武将たち同様、矛を使っている。

 戟は「ト」の字をしている簡素な武器で、まだ派手な装飾は無く、晋代に入ってから複雑なデザインになる。出土戟の長さは2-3m程度で、重量は推定2-3kgほど。典韋伝には双戟80斤即ち18kgとあるが、持つだけならともかく振り回すには重すぎる。典韋の持つ戟が特別で、本来はそれほど重量のある武器ではなかったのだろう。

 漢代画像石には戟を持つ騎兵が描かれているし、合肥の戦いで張遼は戟を手にしていた。となると三国時代に戟と矛は併用されていたが、一騎打ちに限れば射程の関係で長矛の方が優位だった。


 ところで二刀流の描写は幾つかあり、三国魏の典韋は矛と戟を持ち、冉魏の冉閔は右手に戟を持ち左手に矛を持った。前述の陳安は右手に矛を持ち左手に長刀(薙刀ではない)を持っていたとある。また後周の耿豪はその逆に右手に刀を持ち左手に矛を持ったという。

 刀は宮廷内の騒乱でよく用いられるが、戦場では下馬したときのサブウェポン扱いのようで、晋書段匹磾伝では槊を折られた文鴦が刀を抜いて奮戦している。


 全身を守る筒袖甲や魚鱗甲が魏晋の頃に導入される以前、防具には玄甲が用いられていた。それは布か皮革を下地にして、鉄製の鱗を繋ぎ合わせたスケイルアーマーであり、胴と肩のみを守っていた。鱗の一つ一つは数cm程度の大きさで、形状や大きさに数ミリ程度の誤差があった。

 兜も鎧同様、鉄鱗を繋ぎ合わせたもので、頭部と両耳を覆っていた。鎧の重量は10kg前後で、兜の重量は3kg程度。名のある武将であればこれに加えて目立つ装飾を付けていた。

 孫策と太史慈の戦いでは、互いに手戟と兜を奪っている。戟には、柄の短い手戟という種類があり、董卓が呂布に対して振るい、孫策は厳輿に対して投擲した。また晋書には男子の生まれなかった賈后が妊婦の妾に対して戟を投げつけたという話がある。これも手戟だろう。宮殿で用いられているから、兵器と言うより護身具かまたは装飾的なもののように見える。となると、孫策と太史慈は互いに象徴(シンボル)を奪い合ったということになる。


 騎兵の武装には他に弓矢がある。武芸が達者ならば慌てずに敵の接近を待ち、乗馬中にも左右に矢を射る。しかし矛を持ちながら弓矢を扱うのは無理だから随伴する騎兵が必要で、彼らはそれほど遠くない後方に侍っていた。



 呂布は彼に従って門を出てきた数百程度の騎兵を後ろに残し、城門北で布陣する郭汜に対して、兵を退かせて一対一で決着を付けようと語り掛けた。

 互いに約束して一騎討ちをするのは、呂布と郭汜の戦いの他に史万歳の一騎討ちだけがある。両者の後方で見守る涼州・并州の将兵たちが、この戦いの立会人だった。

 ほかは戦場で起きた偶発的なもので、彼らは乱戦の中で敵将と遭遇して勝負を挑んだ。攻撃者は、混戦の中で郭援を斬った龐悳のようにたまたま敵将に巡り合えば良いが、そうでなければ敵陣に特攻するようなものだった。にも拘らず敵陣への単独特攻も魏晋南北朝時代を通じて何度と無くあり、攻撃者は必ずしも戦死するわけではなかった。例には遼西の公孫瓚、梁の韋洵、北魏の傅永、唐の薛萬徹らがいる。

 少数で敵陣に突撃する例もあり、また大人数で騎兵突撃を行うこともあった。


 呂布と郭汜は騎乗して矛を構える。呂布の駆る馬は高名な赤菟(赤兎)であり、城を駆け堀を飛び越えるといわれた。この馬が千里をかける中央アジア産の馬かどうかは分からず、ただ名前から想像するほか無い。

 馬の名前は大体外見をそのまま名にする。項羽の騅、劉備の的顱、慕容廆の赭白、また唐の太宗の六駿それぞれも馬の容貌を示唆するが、曹操の絶影は当てはまらない。しかし例外はあれど、赤菟も同様だろう。ただ菟の方は顔立ちなのか、全体の外貌なのかは判らない。

 堀を跳躍したといわれる以上、速度や跳躍力の面で秀逸とされる西域の馬か、持久力に富み険阻な地を得意とする小柄な中国の馬かといえば、それが汗血馬だったかどうかは兎も角として、結局前者になるかもしれない。

 あと演技では一日で千里を走ったが、正史には無い。


 呂布と郭汜は互いに距離をとった状態からの突撃で、まず一合打ち合う。

 しかし歴史上の通例に倣って二合、三合以降も同様の突撃を繰り返したのか、それともよく創作物に描かれるように一合の後は接敵して突き合ったのか、はっきりしない。ただ長大な矛を以って突き落とすことが主目的ならば、ランスチャージを繰り返えせざるを得ないだろう。


 騎馬戦の優劣は、経験と武器の射程と体格の壮健さに依る。

 郭汜は涼州張掖郡の出身で、この郡では義從胡の分派が漢人と雑居していて、たびたび羌族の侵入を許していたから、辺境の住民が皆そうであるように騎乗と弓の訓練は行っていただろう。また大将の李傕が自らの策謀に自信を持っていたのに対して、郭汜は勇猛さでは李傕を凌いだという。そのために一騎討ちでは李傕ではなく郭汜が相対した。

 武器の射程だが、郭汜の武器は記述されていないので比較できない。公正に勝敗を決めるといっても、同じ武器を用いるべき理由は無い。むしろ互いに扱い慣れた武器を使う方が公平だろう。

 呂布や郭汜の体格は史書に明示されてないから平均的だったと考える。後漢書馮勤伝で身長が七尺に満たないとして馮偃が恥じていたとあり、また三国志において七尺強から八尺以上ある者はみな容貌を強調されているので、呂布と郭汜は共に当時の中国の平均的な身長である七尺弱即ち160cm台後半になる。ただ呂布の優れた運動神経は史伝の逸話から見て取れる。



 間もなく決着がつく。

 お互い盾が無く、西洋中世のランスにあるような保護機能が無いため、敗者は負傷を免れない。

 歩兵は盾を持っていたが、騎兵は盾を持たなかった。漢代の画像石や壁画によれば、近接戦闘のときには騎兵は両手で矛を掲げるようにして構えていたようである。となると必然的に突き刺すよう矛を振るうことになる。

 記録上はどの一騎討ちにおいても刺突攻撃によって相手を撃破している。ただし刺し殺すのではなく、まず相手を刺して落馬させ、然る後に刀で斬り殺すのである。


 呂布が先んじて矛で郭汜を突くも、郭汜は何とか落馬を免れる。

 一騎討ちのとき負傷したり武器を失った敗者は、戦いを継続させずに逃亡する。将校が逃亡するとき大体は単騎で逃亡するが、郭汜は随伴騎兵に助けられて陣営に撤収した。



 包囲戦が始まって八日が過ぎた。一騎討ちの勝利者は明らかに呂布だったが、口約束は有耶無耶になる。しかし不満の声は見えないから、むしろ実質的な勝利が誇られて驕慢になっていただろう。


 そんな折、呂布配下のとある徴募兵が長安南宮の掖門を開き、涼州の軍勢を長安城内に引き入れた。南宮掖門──北宮の南にある宮だとすれば、その場所は未央宮の南に面する西安門に付属する小門になる。

 李傕らは西安門を占拠して橋頭堡とし、呂布の軍勢がこれを迎撃に赴くと、城内は混乱に陥った。市街戦は二日間続き、吏民1万人余りの死傷者が出た。

 呂布は撤退することを決め、未央宮にある青瑣門の近くに繋いでいた赤兎馬に乗り、董卓の首を鞍につないだ。青瑣門の詳しい位置は判らない。ただ三輔黄図によれば未央宮内には未央廄があり、車と馬が置かれていた。

 宮殿は城壁に囲まれていて、周辺には第四部分で紹介したように屯所がある。長安城の城壁が抜かれたので呂布の軍勢や漢の官吏たちはこちらを頼りにしていた。しかし宮殿周りに堀は無く、攻め込む余地は幾らでもあった。

 呂布は彼の配下数百騎を引き連れて撤退を始める。そして同郷の王允を気にかけて共に逃げるよう勧めるが、王允はその剛毅さゆえに拒否した。


 呂布の軍勢はその後、長安の城を抜け出て東南遥か150km先の武関へと奔り、王允は長安北東にある宣平門の櫓に登って最後の抵抗を行った。



 氏族制社会では牛族の名誉と一騎討ちが結び付けられていたが、中原では春秋時代の終わりと共に失われていた。そして項羽がそうであったように、戦国時代の楚では最後まで残っていたのだが、漢代に入るとこちらでも見られなくなった。しかし遊牧民はその習慣を保っていて、辺境の人々は、彼らに与えられた義務と共に自然とその価値観を受け入れて行った。

 郷選を経て地方豪族たちが中央へと力を伸ばすと、辺境における名誉は中央に受容される。南北朝の頃には軍閥貴族に力が移り、隋唐の科挙制度が導入されるも、それは存続した。

 しかし宋代になって中央集権化が進んで辺境が中央に従属し、また科挙制度が徹底されて彼らが貴族化すると、辺境由来の名誉は潰えた。

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