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04.後漢代長安の歴史と景観

 長安城は36km^2の規模の都城である。前述のとおり四方を囲う土塁は12mで、外堀は深さ3m幅8m。人口は前漢末のときに24.6万人で戸数は8.8万戸。三輔黄図によれば160の居住区があったというから、1つの地区につき550戸があった。人口の割りに戸数が少なく、住民は1人暮らしか核家族のように見える。これは都市部の特徴だから彼らは都市経済に依存する市民だろう。


 長安城には主要な五、六の宮殿があり、それぞれ未央宮、長楽宮、明光宮、北宮、桂宮という。未央宮は皇帝の住処で、長楽宮が皇后の住処、その他は後宮の宮殿になる。ただ劉邦は長楽宮に滞在していて、政務のときに未央宮へ赴いた。

 これらの宮殿区画は都城南側にあり、長安城の大半の領域を占めていた。

 宮の内部には幾つもの御殿がある。例えば温室殿は暖を取るための御殿で、漢の武帝のとき築いた。漢書によると武帝の頃には大雪が降った年が二回在るから、どちらかのときだろうか。

 他にも宮殿の内部について三輔黄図には、皇帝の部屋と皇后の部屋と太子の部屋、蔵書珍品の保管庫、春と夏の休憩所、朝議のための庭、祭祀場、厩、祭礼のための盛土台、氷の貯蔵庫、樹木観賞の部屋、皇帝の学習室、儀礼用の服や歩帳のための機織部屋、皇帝が田植えをする田んぼなどが紹介されている。長安志にはもう少し詳しくあり、七夕に針仕事をする部屋や、家畜の飼育場などが見える。

 ほか長安の城壁外西方に広がる庭園上林苑の中に建章宮がある。これも祭祀と行楽が主目的の宮殿だった。このうち明光宮と建章宮は武帝が建てたもので、特に祭祀台は当時から批判に晒されていた。


 前漢代の官僚たちは未央宮内部に在る少府を除くと未央宮の近くに職場を持つ。北西には市場や鋳造施設があり、南中央の辺りに武庫、そして庶民の居住地区は都城北東部に有った。市場には東市と西市がある。東市には三品目の市場、西市には六品目の市場があったという。

 西都賦によれば、豪族や金持ちや名臣の屋敷は長安城より北、長陵・安陵などにある皇帝の陵墓群に続く街道沿いに並んでいた。長陵辺りに豪族が住んでいたのは確かなようだ。

 しかし西京賦では未央宮に向かい合うようにして高級住宅区があり、これを北闕甲第と呼ぶ。漢代の武将霍去病もここに邸宅を持った。そして防塁に囲まれた小さな城邑が長安城の周辺に幾つもあり、こちらも庶民の居住地だったという。或いは漢代の人口増によって都城外縁にまで居住地が広がったのだろう。


 武庫と呼ばれる長安の武器庫には、長さ300m幅700-800mの防塁に囲まれた敷地の中に十数棟の建物があった。そこに鉄器や銅器の多用な武具が納められていたのだが、どうも出土武具の傾向からして、赤眉の乱のときに焼かれてから放置されていたようである。

 資料によれば前漢から後漢に至って戟の刃渡りが1.7倍に増したというが、出土した武庫の戟の刃渡りはどれも短い。



 長安の都としての役割は、後漢代になると洛陽に移った。文選にある西都賦や西京賦では、長安の繁栄が過去のものとして述べられる。秦代に築かれた関中の灌漑による沃地は赤眉の略奪を受けて飢饉を引き起こし、東西の流通の要としての立場は王莽のとき周辺国を挑発したため失われた。

 しかし長安が完全全に放棄されたというわけではなかった。


 光武帝が洛陽に都を置いたのは25年、長安を占領したのが30年。このとき都を長安に戻す議論が行われた。結局、光武帝の権力地盤に配慮して遷都は行われなかったが、長安の復興作業は進められた。

 先の王莽討伐のときに未央宮が火災に遭い、建武年間の始め頃、赤眉軍は長安の宮殿を焼いて園陵(皇帝の陵墓)を掘り起こし、略奪を行った。

 園陵は建武5年(29年)に修復せよとの命令が出されているし、後漢の皇帝が代々即位の際に訪れることになる高廟は建武10年(34年)に修復されている。建武18年(42年)になると、長安に大駕宮、六王邸、高車廄が建造され、さらに建武19年(43年)になって漸く未央宮が修復された。

 また大駕宮は皇帝が長安に来たときの宿舎で、高車廄は多分そのときの皇帝の乗り物を置いたのだろう。六王邸は、六人の王を光武帝の皇子だとすると皇子は11人居るから数が合わない。皇子たちの王号は建武18年になってから皇太子及び早世した1人を除いて全員一斉に与えられている。当時は明帝もまだ東海王で、劉強が太子だった。ならば単なる命数だろうか。分からない。


 都市の様子として、後漢書第五倫伝には、後漢初期の長安では秩序が失われていて、貨幣の偽造が流行っていたことが記される。

 王莽時代の二度に渡って変更された複雑な貨幣制度によって貨幣経済は大いに混乱を来たし、民衆は貨幣を偽造して使うようになった。王莽は偽造に対して厳罰を以って応じたため、王莽亡き後は偽造貨幣を放任することになった。

 そして建武16年(40年)になると後漢王朝は前漢代の貨幣制度への復帰を行った。偽造貨幣が罷り通っていたので反対もあったが結局実施され、京兆尹の主簿第五倫は秤と升を正確にして偽造を廃絶させたという。

 京兆郡の人々が不正に走る例はこれに留まらない。しかし鋳造に際して銅の生産(銅山の占有)と加工(労働力と工場)が必要なのだから、市民というより豪族や金持ちたちの勝手気ままな振る舞いだっただろう。



 107年に起きた羌族反乱以降、長安は北地・安定方面に対する軍勢の駐屯地の一つとして扱われるようになる。班雄、翟酺、陳龜、馮緄と京兆尹には武勇のある者が選ばれるようになり、防衛の拠点としての役目は140年代まで続いた。

 班雄は羌族の攻撃があったとき五営の兵(近衛兵)を率いて長安に駐屯したという。西京賦によれば、前漢の時には未央宮周辺の八つの屯所に近衛兵が配されていた。また長安城にある十二個の城門にも駐屯所がある。

 その軍勢は護羌校尉の傘下に加わって羌族討伐の遠征にも向かった。


 皇帝による未央宮への訪問は137年より順帝により行われ、158年には桓帝も実施している。前者には戦災の中で酷使されている庶民を慰撫する意図があり、後者には梁冀誅殺によって天子が実権を回復したことを知らしめる意図が有った。順帝は老齢の独身者や孤児、子を失った母で、一人で生きていけない貧しい者たちに五斗の粟を配布し、桓帝は長安の住民に十斗の粟を配布したという。

 しかし行幸はそこで途絶え、霊帝は長安へと足を運ばなかった。


 140年代以降、羌族との主な戦場が三輔近辺から涼州に移ると、京兆尹の任務は長安の復興に向けられる。軍人は京兆尹に選ばれなくなり、地元の富豪が政務に関与するようになる。前漢以来これまで厳粛な統制を行っていた京兆尹が、寛容な傾向を見せ始めた。

 庶民を戦災から救済することは必要だった。しかしその一方で豪族・金持ちに対しての統制は取れなくなってきていた。

 また20年近くの戦争と混乱によって、長安の人口は再び減少したかもしれない。2年と140年に行われた統計において、京兆郡は19.5万戸・人口68.2万から5.3万戸・人口28.5万へと大体1/3に減少した。



 宦官唐衡の兄唐玹が京兆尹になったのは158年のことである。唐衡といえば、外戚梁冀を誅殺した五人の宦官の一人で、貪欲な人間だったという。後漢書趙岐伝によれば、唐玹は長安北の長陵に住んでいた趙岐の一族を罪に陥れて悉く殺した。長陵は富豪の土地だから、宦官と豪族の対立の一つの形だろう。

 その後、郷選の時代を迎えて京兆尹にも名門出身者の名士が現れるようになる。汝南袁氏の袁逢、北海滕氏の滕延、弘農楊氏の楊彪である。同じく名門の韋著は任官を断っている。名士にとって京兆尹は通過点だったようで、特筆すべきことは行わなかったようにみえる。


 長安経済は悪化の一途を辿っていた。前述の人口減のほか、西域の権益は辺境に集まるも長安までは届かず、三輔ではこの後も時折羌族の侵入や螟害が発生していた。

 180年代半ばには宮殿を修理するために京兆尹劉陶が1000万銭を供出している。この頃、京兆郡で地震があったことは関係するだろうか。

 多くの災害の結果、180年代における長安の戸数は4000を下っていたという。単純計算すると11000人程度の人口しか残っていなかった。


 190年2月、董卓が遷都を敢行しようとしたとき、まだ宮殿が壊れていた。修復に涼州の木材を用いるというから、先の修復の時期にはちょうど涼州が動乱の最中にあったため、果たせなかったのだろう。

 董卓は長安の復興のために、洛陽の百姓を移住させた。未央宮は3月までに復興し、急激な人口増に伴う貨幣の流通不足のためか、私服を肥やす為に小さな貨幣を用いる新たな貨幣制度を導入した。未央宮または長楽宮大夏殿に並んでいた十二体の金人のうち十体を溶かして銅銭にし、金馬門にある武帝期の財物銅馬も溶かされた。長安にはもう一つ上林苑の飛廉観に銅馬があったが、こちらは後漢の明帝のとき洛陽に移設されている。

 貨幣価値の暴落というより人口急増による穀物不足が物価の高騰を招き、流通ルートの壊滅からこれを矯正できず、長安の経済状況はより悪化した。



 董卓が長安入りのときに行ったパフォーマンスは、四方の門から軍勢を出入りさせて、軍勢の規模を何倍にも誇張するものだった。

 長安の十二個の門は、東西南北に三つずつあり、それぞれに名前が付けられていた。南側の東と西、西側の南と東側の南にある四つの門は未央宮及び長楽宮の出入り口だから、それ以外の八つの門が一般的に用いられた。

 各方角の中央の門は皇帝のための施設に繋がっている。即ち北の陵墓、南の霊廟、西の建章宮、東の籍田倉である。

 パフォーマンスをするとすればこの中央四つの門のようにも思えるが、西側北及び北側西の門は市場や鋳造所の在る区画に面する門であり、東側北及び北側東の門は庶民の住宅地だから、これらも捨てがたい。

 門幅は8m程度で、宮殿からの出入り口四門以外は幅4mの道路が三路並んでいた。


 192年5月末、李傕は10万の軍勢を率いて長安を包囲する。都城の北と西には渭水が流れていて、都城の四方には渭水から引いた渠が築かれているのだが、創作物では滅多に描写されない。各門前の渠や川には橋が架かっていたようで、一部に遺構が残っている。少なくとも北西部の川橋は後に献帝が長安を脱出したときにも利用されたから、当時も架かっていた。李傕と郭汜の他に元董卓配下の張済、樊稠、李蒙、王方らがそれぞれに陣営を築く。

 呂布と并州兵が守備に就いていて、元々防衛の為に築かれた城でないにも拘らず、都城の守りは堅かった。というより急遽長安侵攻が決まったから攻城兵器は用意されていなかった。故に呂布による一騎討ちの提案は手早く決着をつけるのに都合が良かった。


 郭汜の手勢は渠に隔てられた北側の門前に布陣していた。三つの門の内いずれかは分からないが、準備無く力押しをするとして、破城槌は樹木や木材をまとめて作るものだから用意出来そうである。

 郭汜の軍勢の後方には渭水が流れ、その先に漢の陵墓群が見えただろう。この年は豊作で、周囲に広がっていたであろう田地では粟が花を咲かせ始めていた。

 呂布は未央宮より街道を進み、廃れつつあった長安の市場或いは庶民の住宅地を抜けて北西或いは北東の門を開く。そして橋を渡り、郭汜に挑戦した。

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