03.涼州人の入朝
186年冬(10-12月)、辺章が病死したのを期に、韓遂は北宮伯玉と李文候を殺し、反乱軍の指導者の地位を獲得する。義従の宋建は殺害対象にされなかったから、多分もう帰郷して反乱に与していなかった。
隴西人だか漢陽人だか良く判らない王国も少なくともこの頃には最高指導者に祭り上げられている。ちょうど敦煌太守を任されて襄武に行く途中だった宦官趙岐も大将になるよう脅しをかけられていたが、彼は断っている。彼らの率いる兵は10万余りと、以前の規模を維持していた。
このとき金城郡に割拠していた反乱軍は、南進して隴西太守李参の居る狄道県を包囲する。李参は反乱軍に降り、また酒泉太守黄衍も反乱軍についた。
187年4月、新たに任命されたばかりの涼州刺史耿鄙は六郡の兵士を集める。169年に羌族との戦争が終わってから、涼州における着服や賄賂の当事者は軍人将校から官僚に移っていた。彼らは反乱が起きれば、慣例通りに討伐のための膨大な軍事費を懐に入れた。耿鄙も例外ではなく、しかし地方豪族から信頼を得るための賄賂は多分不十分だった。
5月、狄道県への行軍中、彼は随行していた別駕によって殺された。司馬の馬騰はそのまま反乱軍に与する。漢陽包囲戦の際に太守傅燮が戦死すると、その部下も反乱軍に組み込まれた。
こうして反乱軍の指導者層は漢人中心に代わる。軍兵たちはどうだったのか。名士や豪族の指導する反乱組織には既に漢人が多く居ただろう。むしろ西羌伝で触れられてないことから、羌族がこの反乱に加わっていたのか疑わしい。
188年9月、反乱軍は三輔に入り、11月には陳倉城を包囲する。陳倉城は魏晋代に改築されるまで一里四方の小規模な城で、5mから10m程度の土壁に囲われていた。春秋戦国時代から在る城で、数万人が駐留できたという。
朝廷側は12月になってから皇甫嵩を右扶風に駐屯させる。それまで右扶風に駐屯していた董卓に対しては皇甫嵩に任せて朝廷を詣でるように、少府の地位をダシにして命令が下された。董卓は皇甫嵩の傘下に入ることを望んで許される。陳倉城の解囲に際しては合わせて兵士4万となった戦力を背景に積極策を訴える董卓に対して、皇甫嵩は陳倉城が険阻な地にあるから抜ける筈が無いと踏んで、反乱軍の疲弊を待つことを主張した。
189年2月、春になっても反乱軍は陳倉城を落とせなかった。皇甫嵩は疲弊した反乱軍に対して攻め込むことを主張する。董卓は窮地に追い詰められた敵は危険だといって反対したが、容れられなかった。
羌族との戦いを良く知る董卓の作戦は功を為さず、黄巾党と良く戦った皇甫嵩の作戦が勝利を導いた。反乱軍は壊走し、1万人余りが死んだ。王國は廃され、代わって漢陽出身で元の信都県令閻忠が指導者に祭り上げられる。
その閻忠が病死すると、韓遂と馬騰は互いに軍権を巡って対立する。それぞれに軍兵を持ち互いに争った。魏書ホウ悳伝にいう初平年間に羌族と戦ったのもこの時期になる。
董卓には再び帰還命令が出て、今度は并州牧の地位が遣された。董卓はこれに同意するも、牧となるときに命じられた於夫羅討伐を理由に軍隊は手放さない。その途上にあった頃に袁紹による宦官誅殺が起き、董卓は逃亡中の少帝らを拾って長安へと入った。
馬騰も韓遂も190年の反董卓の蜂起には加わらなかった。この蜂起は袁紹の主催であり、その袁紹は董卓と少帝廃位の件で袂を分かっていた。そして少帝が189年9月に廃位されるに及んで、190年1月、袁紹は橋瑁の呼びかけに応じて山東の反乱軍の首領となった。
これを受けて董卓は長安への遷都を行う。魏書董卓伝に引く漢書に拠れば、この遷都は馬騰と韓遂が強く求めたことであり、後漢書董卓伝に拠れば、函谷関を抜けた後、董卓は韓遂と馬騰に対して山東を共に謀ることを求めたという。
蜀書馬超伝に引く典略において馬騰は偏将軍を経て征西将軍になっている。馬騰が征西将軍になるのは正式に来朝した193年のことだから、袁紹や孫堅に行ったように、この初平年間に懐柔を狙って偏将軍にさせたのかもしれない。
反乱軍のうち洛陽の最も近くに駐屯した王匡が、袁紹の指示で董卓からの使者団を殺し、戦いの幕が開いた。董卓は兵を送って黄河対岸の王匡を撃破すると、洛陽南の梁県に駐屯している袁術に向けて徐栄と李蒙の部隊を出撃させる。袁術の武将孫堅を敗北させると、また徐栄は曹操をも打ち破る。董卓が長安への遷都を行うに至って、劉虞の擁立がままならない袁紹は反乱軍を解散させた。
191年になると、陽人でまだ駐屯を続ける孫堅に対して董卓は胡軫と呂布または華雄を派遣する。しかし呂布は勝てずに撤退し、孫堅は洛陽へと迫った。洛陽近くの陵墓の前で董卓は自ら出るが勝てず、洛陽の城門で再び呂布を破って孫堅は洛陽の宗廟に至った。董卓は洛陽に朱儁を留めると、軍勢を引き上げて長安へと撤退する。袁術が劉虞擁立について袁紹と対立し、彼らの同盟に対抗する為に孫堅が呼び戻されて、戦いは終わった。
反乱軍が退去した後、董卓は郿塢を建造して、そこに左将軍董旻を置いた。郿塢は万歳塢とも言う。董卓塢も多分同一だろう。郿塢は長安と陳倉のちょうど半ばに建てられた160m四方の方形堡塁で、周囲には長安城の宮城と同じ高さの─12mの城壁が在り、そしてまた長安城と同じく深さ3m幅8mの堀が掘られていた。ただ城門は一つしかなかったというが、こちらの先例は無い。建築資材は河を利用して涼州から運ばれ、労働力には流民と奴隷が用いられる。そして宮城や砦ではなく、むしろ魏晋代になって流行る共同体の自治自衛自活拠点としての塢の走りとして見られた。
ここには董卓の一族だけでなく後漢の刺史や都尉、中郎将も居住していた。三輔黄図には、ここに右輔都尉が置かれたとある。中郎将は遠征軍を率いる高い地位だが、澠池の守りを任された董越が東中郎将に就いている。虎賁は宮廷だろうし、他の方角の宛てられた中郎将だろう。刺史は判らない。
敷地内には宮殿があり、牢獄があった。その気になれば宮城とすることも、小さな砦として利用することも可能だった。しかしこの規模では勿論五桁を超える軍兵を置くことは出来ないし、門が一つしかない以上、ただ多くの糧食を以って備えることしか出来なかった。陳倉城は多分先の戦いの後には荒廃していた。だからこそ228年に諸葛亮が郿を狙おうとしたとき陳倉城の修復工事をしたのだろう。
いずれにせよ西方からの危機は無かった。懐柔は恐らくある程度成功し、また朝廷側も少なくとも記録上は董卓の死後に涼州から雍州を切り分けるまで、西方の人事に介入することは無かった。
董卓は人事において党錮の士を多く招聘したことが評価されている。彼らは地方の太守や相に任用されるか、またはそれを経て手早く要職へと遷された。何進も似たようなことをしてるから踏襲したのだろう。士人が任官を拒否する例は少なからずあった。山東の反乱の後、周珌と伍瓊が処刑されると、賈詡が尚書になるまで空いたポストを埋める人事以外は滞る。
武官には前述の弟董旻を左将軍にしたのをはじめ、何人かの血縁を中軍校尉や中郎将として任用する。そして彼の配下も都督や校尉となった。董卓の傘下にある校尉と兵士の大半は涼州出身で、多分陳倉に駐屯していたときに募兵されていた。長安遷都後、彼らは函谷関周辺の郡県に配置され、山東の反乱軍に備えられる。実態としては朱儁や陶謙と戦っていたようである。朱儁は洛陽にいたとき山東の反乱軍と内通し、寝返って中牟に駐屯していた。
張遼の率いていた并州人の部隊は、董卓暗殺の後呂布に付くことができたのだから、長安かその付近に屯していたのだろう。これに対して函谷関の陝県に駐屯していたという李傕・郭汜配下の并州人数百人は虐殺されている。
ほかの業績としては貨幣の鋳造をしたこともある。質の悪い貨幣への改鋳することによって得られた差額利益は、国庫もしくは懐に入った。 王允は董卓の下で政治を取り仕切っていたというが、董卓の意が絡むときは言いなりになるしかなかった。しかし後に蔡邕の処刑を強行したように当人は非常に厳格だったから、この時期の厳正な法の適用は彼に拠るものだろう。勿論、厳正というより身勝手な物は董卓に拠るのだろうが。
192年4月、董卓は呂布に殺された。口添えをした王允は呂布と同郷で、彼も一般的な并州人と同様に騎射を嗜んでいた。同州出身は方言と文化を共有するものだが、同郡出身にありがちな豪族コミュニティや山東のような士人のコミュニティの繋がりは無く、両者は軍内の涼州人の始末と、董卓の遺産処理において対立することもあった。
ほんの短い期間だけ許された王允の親政において、まず記念に大赦を行う。この年に三輔の民衆は大豊作で歓喜したというが、董卓時代に多くの民衆を洛陽から移住させていたから、その成果が今更出たのだろう。
また皇甫嵩が左将軍董旻らを討伐するために郿塢へと派遣された。彼は董卓が洛陽にいた頃に来朝して傘下に入っていたが、このときには王允に付いていた。しかし郿塢内で官吏の内乱があって、ここは攻城戦をする必要も無く陥落する。他方、呂布の武将李粛は董卓の娘婿である牛輔の誅罰に派遣されたが、迎撃を受けて敗走し、後に呂布によって処刑された。
こうして長安で政変が起き、涼州人が誅戮されたという噂は函谷関にも、そしてその先の山東諸郡にも伝わった。
このとき函谷関に駐屯する実質的な董卓軍司令官の牛輔は、軍団内の不安と混乱を抑えることが出来ずに逃亡し、代わって李傕が軍団を取り仕切ることになる。賈詡の献策を受けてそれぞれに軍兵を集めつつ長安へと向かう李傕らに対して、王允は徐栄と胡軫、楊定を派遣して迎撃するが、涼州出身だった胡軫と楊定は率先して寝返り、徐栄は戦死した。
そして李傕率いる10万以上の軍勢によって長安が包囲されたのは、董卓が殺されてから40日余り経った頃だった。