02.羌族の戦争
涼州は司隷の西に位置する。董卓の出身地隴西郡は西暦35年の移民以来、羌族と漢人が雑居していた。
史書には多くの羌族が書かれるが、その種は戦国時代に分岐した氏族で後漢代には150種に分類される。
羌族の領域は、チベット及び四川・青海の西部にある。少なくとも1万年前からこの地域で生活していた彼らだが、新石器時代への移行過程では黄河中流域文化と互いに影響を及ぼし合っていた。史書と考古を結びつける立場において、これは炎帝神農氏と看做される。
新石器時代末期には気候変動に伴う人口流失が起き、その一部は四川盆地や中原に進出する。元々農耕をしていて粟や黍を作っていた彼らだったが、牧畜業はこの時期に大きく発展した。また狩猟も生活資料の補充手段として行われていたようだ。四川盆地へ進出した羌族は氐もしくは氐羌となって蜀族と接触して石碉を吸収し、他方、中原の羌族は姜として、姜姓だった夏朝の禹や、斉など周代の姜姓諸国と結び付けられたかもしれないが、民族移動についてはまだはっきりしていない。
史書において羌族は殷の時代に奴隷或いは西方として初めて現れ、それ以来王朝の盛衰に応じて臣従し、王朝衰退期になると反旗を翻して新興勢力と結んだ。彼らの紅銅・青銅文化も中原のものと同質で、鏡や装飾品や刀や斧が鍛造ときには鋳造されていた。大麦の生産が始まったのは周代で、相変わらず畜産は重要な地位にあったが、主要な家畜は北方遊牧民の影響を受けて猪から羊に代わった。生前の社会的地位に応じて墓の規模に大きな格差が生じたのもこの頃だった。
春秋戦国時代、秦の領土拡大を受けて羌族の居住域は分散し、それぞれ白馬羌、參狼羌などといった風に区別されるようになる。このとき鉄器の利用が始まる。鉄は刀や剣など武器に用いられ、また金銀器が馬具や装飾品に使われるようになった。
秦代、羌族は蒙恬によって駆逐され、民族的な境界に秦の長城が築かれる。匈奴は北方に退けられ、羌族は西方や南方に移った。しかし長城にほど近い青海湖東の河湟にも多くの羌が残っていたという。また匈奴との連絡網として河西回廊があり、ここを介して北方文化は羌族や、更に南方の蜀まで伝わった。この回廊は西域にも繋がるシルクロードの入り口であり、特に赤眉の乱のときには戦災から免れて豊かだったし、河湟がやせ細った土地であるのに対して、こちらの土地は肥沃と評されていた。
漢代中頃には匈奴と組み河西を巡って漢と争うも李息らによって打ち破られ、更に西方或いは北方へと移った多くの羌族を除いて、彼らは護羌校尉の管理に置かれるようになる。漢に付いた羌族は漢の領域へ移住させられ、その代わりに漢人の移住が推奨された。
羌族の長は印綬を与えられてその部族内における権威を容認されたが、移住地の治安は太守と県令によって管理され、護羌校尉に属して軍務に就いた。
漢人の施政者でも信頼を得たときは羌族から捧げ物が贈られ、その退官や死去、連座のときに羌族の首長らがその元へと参じたのに対して、厳しい賦役が課された107年頃にはまともな武装も無いにも関わらず羌族は反乱を起こした。また漢に降った羌族に対して厳刑が処されたときにも反乱は勃発したし、逆に教化を進めようとした場合に対しても蜂起している。とにかく彼らは脳筋だから、武力と恩徳を両立させることによってのみ信頼を得ることが出来た。
169年には河湟の羌族は漢へと服属するようになり、それ以降しばらく争いは絶える。しかしその頃には西域への通用路にも鮮卑が現れていて、後漢の滅亡まで開かれることは無かった。当時の青海での漢文物の衰退は漢の影響力の減少を示す。
羌族は牧農をする。家畜も飼うが麦や粟も作る。彼らの高地向けの裸麦(チンクー麦・青稗と同義)は春頃に播種して秋に収穫する。石臼が出土しているから、多分挽いてチベットの伝統料理のように食べ、また祭礼の時にはビールにもした。
羌戈大戦では西海から羌が移ったときに先住民から農業を学んだといい、後漢書西羌伝には無弋爰劍が農耕を持ち込んだと記されるが、元々農業は有ったから、中原や蜀でのやり方──鉄鋤牛耕が漢人の移民によって伝わったのかもしれない。匈奴と違って漢人の拉致は記されていないから、羌族自身によって耕された。
牧畜の規模は遊牧民よりずっと小規模になるが、それでも人口の数倍の数を所有していた。主に羊、馬、牛、驢馬、騾馬、あと犬も飼う。中にはヤクを飼育するのもいて犛牛羌と呼ばれた。牧畜は羌族の墓に良く副葬される。また涼州において牧畜は漢人の墓だろう空心磚墓にも副葬されていた。
牛耕は行われていたようだが、主要な出土鉄器は武器だった。
羌族の鉄器は長い青銅器時代の後、紀元前4-5世紀頃に新疆若しくは中国から齎された。考古学的には鉄剣、刀、矛、鏃が発見されている。いずれも中原の影響を受けたものだというが、加工技術の相対的な低さは史書から示唆されている。
彼らの言語はチベット語系統だが、魏書にあるように大体は漢語も喋れた。とはいえ集落では現地語で話すから、漢人で好を通じるとあれば大抵の場合涼州出身で、羌の言語を知っていたと考える。
他、文化には祭礼とそれに伴う伝統的な舞踏、銅鼓や羌笛みたいな楽器類もあるが省く。
羌族の戦法は遊牧民族と同様、騎兵突撃と騎射である。しかし広大な草原の広がるステップ地域で遊牧する北方民族と違い、彼らは高原地帯に定住地を持つ。後漢書西羌伝には平地での戦いよりも山地での戦いを得意としたとあり、山頂での布陣や山谷での伏兵は頻繁に行われた。そして山頂の布陣では水を断たれて敗北することも何度かある。
騎乗の技術は、北方遊牧民の影響で鞍が現れる殷周代を起点にする。
ただし馬自体はそれよりも前からあった。彼らの馬は中原のと同じで体高が低く、比較的山岳向けであるといえる。羌族の馬術の様子は吴家川岩画などチベットから甘粛にかけての古代岩画に残っていて、その稚拙なデザインは想像を掻き立てる。
涼州で雑居する漢人はよく彼らの戦い方を模倣した。
騎兵と歩兵の混成部隊は度々描写される。また包囲による補給遮断も行うが、包囲殲滅するようなことは余り見えない。
山がちな地域での補給では牛や馬や人力で牽引する輜重車は使えず、徒歩で荷物を背負っていくか、羌族の飼育する驢馬や騾馬が利用されていた。徒歩か驢馬かについては、多分彼らの拠点の所在や進軍経路に依るのだろう。
驢馬と騾馬は平時にも輸送用として役に立つ。河西回廊を通じて主に衣類や絨毯などの毛織物に漆器や牛馬が輸出され、中国のシルクや金属器が輸入されていた。貨幣は漢のものを用いたように見える。
羌族の集落は大抵は山間中腹の川沿いに在る。川が在るので場所によっては移動のため小舟が利用されることもある。
集落の入り口や周辺にある石碉楼は、後漢書段熲伝にある谷の門や、蜀書張嶷伝に引く益部耆旧伝にある石門である。資料によると楼は20-50mの高さで、複数ある窓から石を落とすほかに見張り台や物資倉庫の役割があった。或いは羌族の持つ白石信仰の象徴的な建物で、彼らが最終的に立て篭もる場所だった。漢の武将たちが大量に掠奪した穀物の源は多分ここだろう。ただ現存するのはそれほど古くないようだ。
羌族の勢力は大規模だったが、各部族が夫々に利に釣られて結びついていた集合体だったから、指導者の求心力は弱く、離間の計略によって簡単に瓦解した。
184年12月、北地郡の先零羌は湟中の義従胡や枹罕河関の賊と共に隴右で反乱を起こす。その規模は10万余り。その推移は後漢書董卓伝に詳しい。動因としては107年の反乱に近いだろう。西羌伝によれば北地郡の先零羌は以前に降伏して漢に移住させられていた羌族だという。北地郡への移住については書かれてないが、皇甫規伝には161年に10万余りの先零羌が降伏したことが記されている。
月氏の一支である義従胡も漢に随う部族だった。しかしこちらの兵力は9000人程度だから、主力は羌族の方だろう。
これに隴西郡にある枹罕県と河関県の賊が加わる。枹罕県で民衆を集めて30年余り隴西郡を支配することになる宋建が214年に討伐されている。宋建は隴西郡出身の義従だという。義従は自主的に朝廷に属して軍務を勤める非漢人を指す。独立地の隴西郡に置ける統治機構が漢に倣ったものであることから、彼は漢人を率いて反乱に加わっていたと考える。王國の方は確かでない。隴西郡の総人口は140年代において3万人弱だし、羌族の移民にしても史書上からの推定は数千だから、どちらにせよ軍に加わったのは多分1万に満たない。
またそれ以外に段熲の元部下が加わっていた。勝手に将軍に割り当てたとあるから、李文侯がそれに当てはめられる。
先零羌は本来の軍事指揮官だった護羌校尉を殺して蜂起する。次は太守の出番だが、北地太守皇甫嵩は黄巾反乱を撃退する最中の184年10月に左車騎将軍になっているから、新たな太守は多分まだ軍事行動の準備ができてなかった。
反乱の主戦力である先零羌は、北地郡から西方へ向かう。義従胡は漢の移住政策によって各地に散らばっていて、このとき反乱に加担したのは湟中の義従胡であると書かれている。
湟中は金城郡より西に行った青海湖東岸周辺を示す。先零羌が南の涼州刺史治所ではなく西を目指したのは、彼らとの合流を目的としていたからだろうか。羌族が義従胡と組んで反乱したというのは西羌伝に幾つも前例が記されている。
その途中、北地郡から金城郡に行く途中、安定郡を通る必要がある。安定は先零羌が移住させられた土地の一つで、その記録は100年頃と169年に有る。少なくとも数千人は移住していたようだから、反乱に与したかもしれない。
続いて安定郡の北から武威郡に入り南進する。主要な道が二つに分岐して、片方は金城郡治所のある榆中県へ、もう片方は武威郡南端の祖厲県へ繋がる。
榆中県は湟中への途上に在った。金城太守陳懿は殺され、先の韓遂と辺章は部下数十人と共に降伏して反乱軍に属した。そして祖厲県では金城人が県令を殺したと張繍伝に有る。ただしこちらは張繍によって暗殺されてしまった。
さらに南進するとまた道が分かれて、一方は漢陽郡治所の平襄県、他方は阿陽県に続く。阿陽県の先には涼州刺史治所の隴県が在る。涼州刺史の左昌は漢陽長史蓋勳を漢陽郡北部の阿陽に派遣し、北から来る反乱軍に備えさせた。
反乱軍は二つの県を攻め落とすことが出来ず、迂路を採る。一旦隴西郡に入り、西方から進軍した。涼州刺史左昌は進路上の冀県で包囲され、蓋勳の救援によって辛くも危機を免れる。そこからまっすぐ進めば三輔に至る。だから彼らは多分合流してから三輔を目指して進んでいた。
羌族の反乱軍数万騎は三輔に入ると、新たに護羌校尉に赴任した夏育を右扶風にて包囲し壊滅させた。
185年3月、皇甫嵩は詔を受けて涼州反乱の鎮圧に赴く。副官として董卓を置いた。これより少し前に皇甫嵩の要請で、遼東属国都尉の公孫瓚に命じて烏丸兵3000を用意することになっていたが、薊中に至った所で糧食が尽きて故郷に帰ってしまった。彼らは後に(187年)予てより烏桓兵の派遣に反対だった中山相の張純と結んで反乱を起こすことになる。このために皇甫嵩は攻勢に出られず、宦官からの非難を受けて免官された。
8月、それに代わって司空張温が討伐の任を受ける。副官には袁滂、ほかに董卓、周慎、孫堅、陶謙、鮑鴻らを従えて州郡の歩兵と騎兵合わせて10万余りとなった。討伐軍は長安に程近い美陽県に駐屯し、反乱軍を待ち構える。
11月、美陽県での両軍の対峙において勢力としてはまだ反乱軍が優位に見えた。しかし後漢書董卓伝には流星がどうのとかあるが、ともかく反乱軍は帰郷することを望んでいた。そんなとき董卓と周慎がたまたま攻勢を掛けようとしたから、反乱軍は一斉に撤退する。
金城郡に到達すると韓遂らは郡治のある榆中県を防衛地点とし、他方羌族は漢陽から彼らの土地を目指して北へと走っていた。
討伐軍のうち周慎率いる3万は榆中県城への攻撃を行うが、城郭を崩している最中、葵園狹に駐屯していた辺章率いる分遣隊によって補給線を断たれて壊走した。董卓はまた美陽県から3万人を率い、安定郡に至り、後詰めを置いてから漢陽方面に向けて進軍する。
羌族は北進を止めて踵を返し、望垣県の辺りで董卓軍の後方を断った。だが、羌族は董卓の軍勢を陽動と判断し逆包囲を警戒して解囲したか、或いは董卓軍が借川を上手く渡河することで羌族を出し抜いて包囲を突破した。いずれにせよ損失なしに撤退して褒賞を受けた後、董卓は右扶風に駐屯した。
涼州の騒乱はその一年後、186年の冬頃に再開される。しかしそれはもう羌族の戦争ではなかった。