01.遊牧民の并州
并州は司隷の真北に位置し、呂布の出身地五原郡はその最北、遊牧民の領域と接する所にある。丁原に連れられて都に来た189年まで、呂布ら并州人は遊牧民と混住していた。
并州の遊牧民は後漢初期に朝貢しにきて北部辺境へと移住した烏丸(太原、朔方郡)と南匈奴、そして1世紀から180年代まで中国に侵入を繰り返していた鮮卑がある。
匈奴は新代から後漢初期には精強だったが、1世紀中頃、南北に分裂して弱体化し、そのうち南匈奴は後漢に服属して北匈奴を駆逐した。後漢に従った南匈奴の諸氏族は、2世紀初頭には遼東から西進してきた鮮卑の圧力に晒される。鮮卑集団の中には北匈奴の氏族集団も多く混ざっていたが、彼らはみな鮮卑と称した。鮮卑は2世紀中頃の最盛期には匈奴の故地を全て占拠したが、以降は部族内での分裂によって弱体化した。
烏丸も北匈奴の撃退に貢献してきたが、鮮卑の来寇以降は、鮮卑に属して近隣地域を襲撃するようになる。また南匈奴の中にも性質の漢化や北辺の防備任務を嫌って鮮卑に従う氏族が現れ、度々反乱を起こした。鮮卑の襲撃は秋から冬に集中しているから、所謂遊牧民の季節ごとに決められた放牧地を移動するものと見ることは出来るだろうか。
188年3月、南単于羌渠が匈奴の休著王及び左部(西河郡辺り)の氏族らによって殺されると、次の単于には子の於夫羅が立ったが、彼に従わない者も多かった。
遊牧民の習俗は、東シベリアから中央アジアにかけて殆ど類似している。広大な地域の多様な人種が似通った習俗を保有していて、互いに混血することもあった。
しかし近隣地域の傾向や伝播時期のずれから来るような文化的・技術的差異は有った。これは例えば匈奴の軍事的指導者が遅くとも紀元前3世紀から世襲制だったのに対して、鮮卑と烏丸の指導者は2世紀中頃まで部族内での推薦によって選ばれていた。
匈奴の鉄器使用は中国よりも少し遅れる。中国の製鉄は紀元前9-10世紀頃にシルクロードのオアシスルートを通って伝わるが(隕鉄はそれよりずっと前だが)、北アジアではステップルートを通って紀元前7-8世紀頃に伝わった。初期の出土品の傾向を見ると、後者は中国からの伝播ではなくスキタイの鉄器文明の影響を受ける。そして中国は紀元前5-6世紀頃に武器よりも農耕具の生産に向いた鋳鉄に移ったけれども、匈奴は原始的な製法で錬鉄を使い続けていた。装飾の意匠については動物装飾が無くなるなど、漢の影響を大きく受けていたが。
鮮卑や烏丸の住んでいた北東部での製鉄は紀元前4世紀頃から始まる。老河深遺跡の鋳鉄器から中国の鋳鉄を継承したものと見られているが、武器についてはより強度の有る錬鉄製を使ったという。彼らの故地では鉄が豊富に採取できたようだし、燕国の長城も商取引を遮らなかったようだ。後漢時代には鍛鋳鉄も製造されていた。
東胡や燕国が鋳鉄を用いたにも拘らず、その先にある朝鮮半島や日本では同様の傾向は余り見られない。もっと北から来たのだろうか。
多くの青銅器は馬具や祭祀、生活用具として用いられたようだ。
北方遊牧民は、武芸教練として騎乗と弓術を習う。彼らの扱う弓は牛の骨を削り、木材と合わせて作る複合弓である。牛骨と木材の複合弓は中国でも後漢代から存在する。三国時代の弩の発達にも拘わらず、弓は主要な遠距離武器の一つだった。野獣の消費は家畜の消費の一割程度といい、狩猟は彼らにとって生活の糧といえるほどの重要性は無かったようだから、子供の頃から弓術の訓練として狩りをしたのだろう。
匈奴による弩の使用は、出土品から時折示唆される。とはいえ匈奴が製造したというよりは、その形状からして中国から渡ったものに見える。
また鏃を青銅や骨にするのは少数の鳴鏑であり、戦闘用の物は鉄製の鏃を使う。
近接戦では60-80cm程度の両刃の銅柄鉄剣を用いる。湾曲のない直刀で、その意匠は中国のものに近く見える。その他に中国から伝わった矛も使われていた。どちらも騎乗して使ったようだが、はっきりしない。
騎乗のために用いられる馬は中央アジアが原産で、家畜化も乗馬もチャリオットも騎乗も中央アジアで始まった。東アジアの馬がポニーを超えないのに対して、中央アジアはフェルガナの汗血馬が体高160cm程度だという。中国が漢代になってからシルクロード交易や西域朝貢の結果フェルガナの汗血馬を入手したのに対して、匈奴はそれ以前から汗血馬を飼育していた。所有する家畜は彼らの主要な資本で、戦士は一人につき複数の馬を持つ。そんな類型に反して、彼らは時々中国との交易や掠奪で馬を獲得し、飢餓や戦争によって浪費した。
重装備の馬は秦漢時代から有ったが、これは騎乗向けではないようだ。兵馬俑の騎馬はどれも武装していない。鞍の伝来は漢代で、手綱だけでバランスを取った。
重装備の騎兵を指す鉄騎は後漢の頃から現れる。鉄騎を率いるのは主に胡だから、彼ら北方の遊牧民が先に導入していたのだろう。
史記匈奴伝には彼らの戦術として通説にあるパルティアンショットよりむしろ弓騎兵による機動包囲が多く見られる。包囲は常に迅速で、深入りした相手や油断した相手、孤立した相手を狙って行われる。多数の騎兵によって包囲した後、敵方が降伏しないときは周囲から矢を放って敵を殲滅した。包囲は長期間に渡ることもあるから、常に騎射していたわけではないだろう。
逃亡中、敵方に追撃されている最中での反撃は行われない。しかし追撃が無ければ素早く陣形を建て直して相手を逆包囲することは度々見られる。
ほかに三国志袁紹伝に引く英雄記では公孫サンに従う貪至王ら烏丸の部族が騎兵突撃を実践している。指揮権を保有する諸部族の王の軍勢が各々戦陣を作っていたから、彼らは波状攻撃を仕掛けることが出来た。この損害を多く出すかもしれない戦い方も彼らの戦術の一つだが、騎馬の重装備化は多分馬の浪費を減らしただろう。
戦地では掠奪ばかりしているように見えるが、彼らにも輜重と補給はあり、掠奪品は代替わり毎に単于の権威を確立するために用いられた。
補給物資は軍事拠点から運ばれる。史記衛青伝に拠れば匈奴は輜重車を所有していたという。戦闘中に大量に消費されただろう弓矢を考えれば当然だろう。車を曳くのは牛か駱駝になるだろうか。
また釜を使って煮て食べていた家畜の肉だけでなく、穀物も輸送したかもしれない。匈奴の穀物は黍で、粥にして食べたらしい。黍は匈奴内の奴隷によって生産されたほか、中国国境に置かれた市場での取引で得られた。
中国と周辺民族間の市場は関市と呼ばれていて、匈奴や鮮卑の場合は胡市とも呼ばれる。関市は官吏の監視下に置かれた市場を示すという。とはいえ発布されていた弩や馬の輸出禁止令は機能していなかった。
胡市は北辺国境付近の都城、例えば幽州の懐柔や寧城、涼州の姑臧に置かれていた。并州にあったかどうかは分からない。
取引される物品はシルクロードを経由した品物ではなく、匈奴産の物品──馬や胡豆、乳酪、毛皮などである。物々交換ではなくて貨幣で取引をする。匈奴は斉国から燕国を経由して伝わった金・銅の刀貨を用いていたようだ。中国からの各種物産についてはノイン・ウラの匈奴単于墓に見ることが出来る錦や漆器が知られる。とはいえこれは朝貢の返礼だろうが。
互いに言語が異なる上に匈奴や鮮卑には文字が無いから仲介が必要だった。相互の取引は物産の豊富さゆえに漢文化の受容に繋がる。対して匈奴の文化は彼らの移住によって吸収され得た。
匈奴の移住地について後漢書南匈奴伝は、単于が西河郡、単于の氏族がなる右賢王は、単于の長子がなる左賢王に次ぐナンバー3で、并州朔方郡に置かれた。そして南匈奴に五人居た骨都侯(貴種=単于の婚姻氏族)の氏族がそれぞれ涼州の北地、并州の五原、雲中、定襄、代郡に配されていたとある。
後漢末期における北方遊牧民の文化について、前述の定住に伴う漢化が大きな影響を与えた。定住生活に移った彼らは農耕とそれに伴う所在地の固定や徴税、賦役を受容しつつも、氏族としてのまとまりを持っていたから、牧畜など匈奴の文化を維持していたという。
匈奴と混住する漢人が匈奴の文化に倣うというのは特別なことではないし、その逆も然りである。
その違いはどちらが各地域において主要な人口だったか、だろう。
霊帝の末年、并州刺吏丁原は、袁紹に派遣された騎都尉鮑信の要請で并州を離れて河内に赴く。呂布の他に従事の張楊と張遼らが同行した。并州刺吏の治所は太原の晋陽で、そこから上党郡を経由するルートを採った。彼らの目的地は疑いなく洛陽である。
丁原が并州刺吏になっていたのは前任の張懿が休著王に殺された188年3月から189年の5-8月の間だが、当時は匈奴で単于羌渠が殺された後、内部抗争のあった時期である。
このとき匈奴人約10万が骨都侯の一人須卜氏を支持したため、手勢数千騎程度という南匈奴の新しい単于於夫羅は并州に帰ることが出来なくなる。
188年9月、漢朝廷の力を借りることに失敗した於夫羅は楊奉・韓暹ら并州西河郡白波谷の黄巾残党の反乱に与して、太原郡を侵して司隷の河東郡へと入った。
彼ら黄巾残党は10万余り、匈奴の内訌より前の188年2月に蜂起していた。
同時期の青州黄巾や184年の黄巾反乱における黒山賊が100万だというから、小規模ではあるが、元々并州の人口はそれほど多くない。後漢書地理志に頼れば黒山賊の居た冀州の人口は600万人、青州は370万人、それに対して并州は68万人となる(140年頃)。
その少し前の188年1月、西河郡の郡守邢紀が休屠王らによって殺されている。郡守は黄巾反乱のとき真っ先に殺される役だが、人材推薦や取り締まりの際に大土地所有者の名家を優遇したり官吏や民衆に無茶な命令を強要する役割もある。
これについて魏書梁習伝には、并州の逃亡民は官吏の手の届かない南匈奴の領域に逃れることが多く、逃亡民を巡って匈奴の有力者と漢人の豪族が互いに侵入し合っていたとある。休著王の反乱はこの類だろう。
黄巾党は逃亡民の集成であるが、180年代前半に度々発生した鮮卑の侵入を受けて、当時の彼らは多分南へ移ることを選んだ。元より并州の漢人は匈奴と共存していたから、連帯は比較的容易だっただろう。
黄巾と組んで勢力を増した於夫羅だが、并州に割拠する須卜氏に対抗する様子は無く、河東郡周辺に割拠し続けていた。白波賊の故郷は并州だから、彼らからしてみれば戻った所でどうしようもない。189年10月には討伐にやってきた牛輔を打ち破り、もしかしたらその後に洛陽を掠奪して、責任は後世董卓に押し付けられたかもしれない。
彼らの反乱は190年正月の東郡襲撃以降記録に無い。ちょうど東郡太守の橋瑁が反董卓連合として蜂起していたから、影響はあったかもしれない。2月には反董卓連合10余万が東郡近くの陳留郡酸棗に集結している。それから5年ほど経って白波の楊奉・韓暹らは李カクの部下として現れる。賊自体は解体されたようで、元白波の頭目として書かれる。勿論、楊奉の軍団として取り込まれたのだろうが。
於夫羅の動向については190年2月に袁紹と組もうとしたが破談となり、争って敗北すると、魏郡・陳留郡辺りに割拠する。武帝紀によれば黒山賊と組んで袁術に一時期味方して曹操と戦った。於夫羅は并州に戻ることなく195年に没して、弟の呼廚泉が継いだ。勢力としては白波賊と同様、天子に仕えていたようである。并州は須卜氏の死後南匈奴の老王が代理統治していたが、196年の右賢王去卑帰国に伴い呼廚泉が単于として認められたようで、南匈奴の内乱は終結する。
丁原はひとまず黄河を挟んで洛陽北にある河内郡に留まった。西の河東郡にいる黄巾や於夫羅と交戦したようには見えないが、洛陽を守る抑えにはなっただろうか。
丁原が河内に駐屯していたとき、呂布は主簿に任じられる。主簿は文書の草案作りやその管理を担当する役職で、文字の殆ど読めない丁原の補佐をした。また張楊と張遼を霊帝への使者として送った。
ちょうど霊帝が西園軍を構築しようとしていたときで、張楊は宦官蹇碩の司馬に宛がわれる。それから間もなくの189年5月に霊帝が死去し、何進によって蹇碩が投獄されたのを受けて、丁原は呂布らを引き連れて洛陽に赴いた。
武猛都尉となった丁原は、宦官誅殺の強硬論を唱える袁紹の指示で孟津に火を放つ。孟津は洛陽の北にある黄河の渡し場である。袁紹の計画では洛陽四方を猛将で取り囲むということだから、丁原は北を塞ぐ役割を得たのだろう。呂布は彼に同行した。他に後漢書何進伝に拠れば、袁紹は董卓、王匡、橋瑁へ使者を送っている。
また丁原とは別に命令が下され、張楊は并州で、張遼は河北(冀州または并州)でそれぞれ兵を1000人ほど集める。張楊は帰路で上党の盗賊討伐のために足止めされたが、張遼の方は洛陽へと帰還出来た。上党の盗賊といえば黒山賊で、彼らはこのとき朝廷から官位を受けていたものの、完全に従属しているわけでもなかった。
189年8月、董卓は洛陽に到着する。丁原は殺され、張楊を除く并州人は董卓の軍団に組み込まれた。