プライド
瑞樹の携帯が鳴っている。
居間のソファーに投げ出された鞄の中だ。
学校から帰って三十分ほどの間に,同じようにコール音を七回ほど鳴らして切れるというのが三度続いた。
洗濯物を取り込み、台所でカップラーメンを作って食べていた瑞樹が飛んできて四度目の着信に出る。まだ制服のままだ。
「はい、もしもし。あ、どうも。はい。はい。駅前の喫茶『ループ』に七時ですね。わかりました。うかがいます。じゃあ」
大人びた事務的な受け答え。少なくとも友達ではないらしい。
電話が終わると鞄を持って階段を上がる音が聞こえた。
やがてブルーのサマーセーターとベージュのショートパンツに着替えて降りてきた瑞樹は、居間に隣り合った、わたしが使っている客間に顔を出した。
「藍子叔母ちゃん、わたしちょっと出てくるけど、トイレ大丈夫だよね。もうすぐお母さんも帰ってくると思うし、わたしは八時には帰るから」
わたしはOKのサインを出した。
玄関のドアが閉まると同時に、台所で炊飯器のタイマーが作動する。もう六時か。
家の前の路地を車が走り抜ける。路面にかなり凹凸があるようで、いつも同じタイミングでタイヤがきしむ。
畳の上で一日寝転んでいると、いろんな音が通り過ぎていく。普段聞いているなにげない物音。起きて普通に見える風景の中で普通に聞こえていた音が、寝ていると体の上を通り過ぎるような感じになる。その音が視覚的に見えるような気がするのだ。いろんな音が流れていくのが見える。まるで川の底に寝ているような感じだ。
この姿勢で一日の大半を過ごすようになってから半年。原因はわからない。以前は動きすぎるほど動いていた体が突然動かなくなった。声も出ない。わずかに左手の指先が動くだけだ。医者には、もともとの脳性まひの障害が重くなったのだろう、といわれた。
母が腰痛で入院してから兄の家にいる。
今年六十五になる母が、痩せているとはいえとうの昔に成人した娘の体をいきなり抱き上げたりしなければならなくなって、かなり負担だったらしく、疲労骨折寸前だったそうだ。
高校生の姪の瑞樹がわたしの介助をいやがらずにせっせとやってくれるのには、正直驚いた。トイレ介助も生理のときの処理も抵抗なくやってくれるし、内緒だが、兄嫁の祥子さんよりも手際がいい。近所のコンビニにパートに出ている祥子さんを助けて、家事もよく手伝っているようだ。
筑十年の兄の家は香がフラットなフローリングで、今流行のバリアフリーではないが、母と住んでいた古い家より車椅子の移動が楽だ。あまり長時間すわる姿勢を保てないわたしは、昼間はほとんど一人だということもあって、トイレと食事のとき以外は車椅子に乗ることはないが、それでも介助の負担を考えるとやはりうれしいことだ。
七時ごろ祥子さんがパートから帰ってくる。
「ただいま。藍子ちゃん、トイレ大丈夫?」
Okのサインを出しながら、思わず笑ってしまう。みんなわたしの顔を見るとまずトイレの心配をしてくれるのだ。でも、わたしは一日三回食事とセットで行くだけで、そのほかはめったに行かない。べつにがまんしているわけではない。体のどこかで何かが切り替わっているのだ。被介助モードとでもいうのだろうか。外出するときは、朝トイレに行って夜帰ってくるまで行かないという、外出モード、というのもある。便利な体である。
瑞樹が言葉どおり八時に帰ってきて、わたしを車椅子に乗せてくれる。
食事が終わり、トイレをすませ、部屋でパジャマに着替えさせてくれる。
「今日ね、援助交際してきたの」
瑞樹が唐突にいう。わたしは思わず顔を上げ、瑞樹を見た。
「あ、本気にした? うそうそ、じょうだん。そんなわけないでしょ」
可笑しそうに瑞樹が笑う。
からかっているような明るい笑い声の、どこか荒れたような感じがなんだか気になった。
「人がものを食べてるときの顔ってさ、見てると、なんだか悲しくならない?」
いつものようにわたしを寝かせたまま器用に袖を通してパジャマのボタンをとめながら、瑞樹がいう。
瑞樹の援助交際というショッキングな言葉に驚かされて以来、わたしたちはなんとなくうちとけて、夜、時々こんな風に話をするようになった。話をするといっても、わたしは声が出ないので瑞樹が一方的にしゃべるだけなのだが、わたしの顔の表情や目の動きといったリアクションを瑞樹は敏感に感じ取ってくれるので、わたしもしゃべっているような気になった。
「ほっぺたぷくんとふくらませて、口をもぐもぐ動かして、なんかこう一生懸命って感じでさ、かわいいっていうか、いじらしいっていうか、たまんなくいとおしくって、なんでだか鼻の奥がつんとして泣きたくなるのよ。ああ、この人はこうやって生きてくんだなってしみじみ思うの。そういうのって、へんかな」
電燈の加減か、瑞樹の顔が急に大人びて見える。
「目の前のごちそうが幻みたいに急に消えちゃったらかわいそうだな、とか思って、夢じゃないといいねって思うの」
わたしは黙って瑞樹の顔を見ていた。
「やっぱりちょっとへんかしらね」
もとのくったくのない表情に戻って、瑞樹はわたしに肌ぶとんを掛けてくれた。
やばい、と思った。
生理が始まったらしい。いつもは二、三日前から準備してもらうのだが、今月はまだ一週間あると思って油断していた。
しかも、いつもよりずっと出血の量が多い。生暖かい液体が、体の中から流れ出てくるのがわかる。濃密な血液の固まりが、脈打つようにあとからあとからあふれ出てくる。お尻から腿にかけてのぐっしょりと濡れた感じ。どうしよう。血液はもうジャージのズボンを通して下の座布団にまで染み出しているようだ。こんなときに限って瑞樹の帰りが遅い。本当にどうしよう。多量の出血と後始末の心配とで、一瞬気が遠くなった。
体の中で、毎月誰かが怪我をしている。
いつか何かの本で読んだそんな言葉が、ぼうっとした頭に、浮かんで消えた。
玄関のドアが開く音。廊下を歩く気配。
「藍子ちゃん」
部屋の入り口のところでコンビニの袋を提げたまま、祥子さんが絶句している。
すごくよくわかる、と思う。いきなりこんな光景を見せられたら、わたしだって途方に暮れる。
「お母さん、何してるのよ」
一足違いで帰ってきた瑞樹が後ろからのぞく。
「あ、わたしやるからいいよ。あっちいってて」
なんでもないように瑞樹がいった。わたしは少しほっとした。大丈夫? お願いね、という祥子さんの小さな声が聞こえて台所に行く足音がした。
「大丈夫だよ」
わたしに耳打ちして瑞樹は出て行き、新聞紙を持って戻ってきた。
新聞紙を何枚も重ねて敷き、その上でわたしを着替えさせる。いつものように瑞樹の介助は手際がいい。
「気にしなくてもいいからね。なんとかなるものは、なんとでもなるんだから」
座布団に染みとおった血はその下の畳まで汚したようで、瑞樹は雑巾で畳を拭きながらいった。
藍子ちゃん、今度から紙おむつしようか、いやでしょうけど、今日みたいになるよりはましでしょ。食事のあと祥子さんがいった。わたしは、それも仕方がないかな、と思った。左手でOKのサインを出そうとすると、いきなり瑞樹がすごい剣幕で反論した。
なぜ瑞樹がそんなに怒るのかわからず、わたしも祥子さんもしばらく黙って瑞樹の顔を見ていた。
「そうよね。藍子叔母ちゃんがいいって言うんだったら、それでいいことよね」
怒りが収まったあと、独り言のようにそういって、瑞樹はわたしの車椅子を押してトイレに向かった。
時々、思い出すことがある。
中学生になったばかりのころだろうか。学校が休みでわたしが寄宿舎から帰省しているとき、近所のおばさんが家に遊びに来た。
「藍子ちゃんも大きくなったねえ」
わたしの顔を見ながらおばさんはそういって、母のほうに顔を近づけ、
「もうそろそろ始まるわね、藍子ちゃんも」
と、少し声を落とした。
「そうね。でも、この子発育が少し遅れてるみたいで、まだよ」
母はいった。
「取るんなら早いとこ取っちゃったほうがあとあと楽だわよ」
お茶をすすりながら、おばさんはいった。
「そうねえ」
母はなぜか言葉を濁しているようだった。煎餅をほおばりながら、おばさんはなおも続けた。
「聞いた話だけどね、あれ、取っちゃうと体重も増えるし、血色もよくなって元気になるんだってよ。藍子ちゃん顔色あんまりよくないじゃない。ほら、腕だってこんなに細くて。毎月の生理の手当てだって大変だし、始まるときっとしんどいわよ。楽なほうがいいわよねえ、藍子ちゃん」
おばさんはわたしの腕を撫でながらいった。
母が心配そうにわたしの顔を見ていたが、わたしは何のことだかわからず、きょとんとしていた。
母とおばさんはお茶を飲みながら話し続けた。話題はいつの間にか隣のおねえさんが近々結婚するという話に移っていった。
とても平和な会話だった。
おくてだったわたしに、このときの話の意味がわかるのは、ずっとあとのことだった。
学校から帰ってくるなり、瑞樹がポケットから金のブレスレットを出して腕につけて見せた。友達から借りたのだという。なんだか妙にはしゃいでいるようだった。
幅のある変わった形のチェーンにつながれてアルファベットのCの文字を二つ交差させたようなヘッドがついている。腕を動かすたびに揺れて、制服のスカートの紺色の上で、交差した金色のCの文字が光った。
「シャネル。きれいでしょ。なんかいいよね、やっぱり」
うれしそうに腕を曲げたり伸ばしたり、振ったりしている。
瑞樹がブランド物に興味を持っていたなんて、意外だった。いまどきの女子高生としてはそれが普通なんだろうか。いまどきの女子高生がどういうものなのか、わたしにはわからないが、瑞樹は普通の女子高生とは違う価値観を持っていると思っていた。まわりに流されない、しっかりしたものを持っているような気がした。ただの無邪気な好奇心だろうか。そもそも友達に借りただけのものになぜこんなにはしゃぐのだろうか。
シャネルのブレスレットを眺めている瑞樹は、その向こうで何か別のものを見ているような気がした。ちっともうれしそうではなく、痛々しいほどさびしげな目で。
いつもより遅く帰宅した兄が祥子さんに瑞樹を呼べといっているのが聞こえた。いつになく不機嫌な声だった。
兄は電気関係の会社に勤めている。年相応のポストにつき、不況下ではあるが、それなりに忙しいらしく、朝早く出勤して夜は九時を回らないと帰ってこない。休日もたまに外出する以外はほとんど寝ていて、わたしと顔をあわせることはあまりなかった。
兄とは一回り近く年が離れているので、一緒に遊んだという記憶はそれほどないが、二人きりの兄妹で、子供のころはよくかわいがってくれた。
大学に進学するために都会に出たころから、なんとなく疎遠にはなったが、障害を持った妹を何かと気遣ってくれるやさしい兄であった。
父が亡くなったのは兄が二十歳のとき。兄はアルバイトをしながら大学を続けた。わたしは学校の寄宿舎に入り、母も働きに出た。兄は、大学を卒業して結婚するときもこの家を建てたときも熱心に同居を勧めたが、母は、体が元気なうちは、と断り続けていた。わたしがいることで、嫁の祥子さんに対する遠慮があったのかもしれない。
わたしは学校を卒業してから近くの共同作業所で縫製の仕事をしていた。一般企業に求職を試みたり、結婚という話もなくはなかったが、結局どの話も実らず、障害が悪化する半年前までずっと、母と二人で住む家から作業所に通い、雑巾や巾着にミシンをかけていた。
瑞樹が階段を下りてくる音。続く兄の怒りを含んだ声。わたしは明かりを消した暗い部屋で天井を見つめながら、壁の向こうから聞こえてくる声を聞くともなく聞いていた。
瑞樹が中年の男性と二人で喫茶店にいるところを見かけた人がいるという。
どうなんだ? 低い声で兄が問いただす。
瑞樹は笑って取り合わず、結局人違いだったという話に落ち着いたようだが、兄はよほど他人に言われたことが心外だったらしく、そのあともしばらく機嫌が悪かった。
瑞樹ちゃんに限ってそんなことはないと思うけど。そう言われたときの兄の顔が一瞬見えたような気がした。
瑞樹の携帯が七回目のコール音でまた切れた。
このごろは学校から帰るとすぐ鞄を自分の部屋に持っていくらしく、瑞樹の携帯の音を聞いたのは、数週間前のあのとき以来だった。
三度目の着信で、小走りに歩くスリッパの音がして四回目のコール音の途中で唐突に切れた。電源を切ったらしい。瑞樹はそのままソファーに座って、取り込んだ洗濯物をたたみ始めた。ハミングが小さく聞こえる。
少しほっとして、わたしは部屋の障子に当たるそろそろ傾きかけた日差しを眺めた。前に植木があるらしく、葉陰が揺れている。
「ちょっと図書館にいってくるね」
ワイン色のTシャツにジーンズ姿の瑞樹が顔をのぞかせた。
ばたばたとスリッパの音がして玄関のドアが閉まると、再び静かになる。
この前の妙に大人びた受け答えを思い出してしまう。そのとき感じた危うい雰囲気も。
その夜遅く瑞樹がわたしの部屋のドアをノックした。
「藍子叔母ちゃん、ちょっといい?」
小さな声がしてドアが開いた。
「ごめんね、こんな遅くに。起きてた?」
わたしは肌布団から手を出してOKのサインを出す。
「なんだか眠れないんだ」
瑞樹は、天井の大きな蛍光灯ではなく、隅に寄せた座卓の上のスタンドをつけた。部屋全体がぼうっとオレンジ色の明かりに包まれて、物に陰ができるせいか、真っ暗なときよりも夜という感じになった。
「わたし、本当は逢ってたんだ。出会い系で知り合ったおじさんと、喫茶店で」
わたしは瑞樹の顔をじっと見ていた。
「おどろかないね。そうよね、このところ相当、挙動不審だったもんね、わたし」
瑞樹はニッと笑った。
「最初はね、呼び出されて喫茶店の前までいって中をのぞいてくるだけだったの」
瑞樹は背中を壁にもたせて、膝を抱えた。
「大きなガラス越しに、わたしを待っているおじさんをじっと見てるの。おじさんは毎回違う人なのに、どのおじさんも同じように背中を丸めて同じようにコーヒー飲んでるの。同じように疲れてるみたいで少し汚れてて」
そういって瑞樹はゆっくりと髪をかきあげる。
「ずうっと見ててね、ふと考えるの。この人こんなところで何を待っているんだろうって。まるでおいしいごちそうでも待つみたいに。鼻をぷくっとふくらませて、少しおどおどしながらひたすら待っているおじさんを、おなかいっぱいにしてくれるものって、いったい何だろうって。そしてドアを開けて入ってくるのは、目も鼻も口もない、性器だけがデフォルメされた女子高生のわたし」
赤いチェックのパジャマの上から膝を両手で撫でながら、瑞樹はいった。
「電話で呼び出されて喫茶店の前にいっておじさん眺めて帰ってくるの。そのくりかえし。べつにおもしろくはなかったけれど、なんとなくそうしてた。ある日そのおじさんと目が合っちゃってね。まずいな、と思ったけど、中に入って話すことにしたの。ずっとあそこで見てたの、って、おじさんびっくりしてたわ。エッチはなしね、って最初に断っておいたからかもしれないけど、いやらしい話とか全然しなくて、学校のこととか友達のこととか聞いてきたり、自分の仕事の話とかするの。一時間ほど話してたかな。おじさんが、ありがとう、じゃこれ、ってお金出して渡そうとしたから、走って逃げてきちゃった」
あはは、と瑞樹が乾いた声で笑った。スタンドの明かりが深い影を作り、瑞樹の表情から幼さを奪う。
「援助交際とか売春がなぜいけないのか、誰も明確な理由はいえないのよ。お父さんもお母さんも学校の先生も、ただいけないっていうだけ。一方ではわたしたちをお金で買おうとする大人がいる。いけないっていうだけの大人とお金で買おうとする大人、その究極的な違いは、世間体とか責任とかが自分に振りかかって来るか来ないかってこと。みんな道徳とか愛情とかモラルとかいってるけど、つまるところ、そういうこと。でも、そういう大人の論理はどうだっていいのよ」
瑞樹は膝を抱えたまま首をうしろにそらせた。長めのボブにした髪が華奢な肩にふりかかる。そのままの姿勢でしばらくじっと天井を見ていた。やがて振り払うように髪を左右に揺すって姿勢を元に戻すと、あらためてわたしのほうを向いて続けた。
「このあいだ見せたシャネルのブレスレットね、あれ、借りたんじゃなくて、もらったの。援助交際やってた友達に」
膝を抱えていた腕から片足をのばし、少し前かがみになって、曲げたほうの膝にあごを乗せて、瑞樹はどこか宙を見ている。
「その子ちょっと前まで彼氏がいてね。その人のこと、もう本当に心底好きだったみたい。彼氏のほうもまだ若いんだけど、将来結婚とかかなり真剣に考えてたみたいでね、とってもしあわせそうで、似合いのカップルだった。はたで見ててうらやましかったよ、ほんと」
のばした足を曲げ、ふたたび抱え込む。
「でも、セックスができなかったんだって」
瑞樹はため息をつく。
「好きで愛し合って求め合っているのに、セックスができないの。彼氏のほうじゃなくて、その子のほうが受け入れられない、っていうか、要するに、入らないのよ」
瑞樹はもう一度小さくため息をついた。
「はじめは、慣れてないから仕方ないよねっていってたんだけど、何回やっても痛くて入らないの。二人で本を読んだり、薬とか塗ったり、考えつく限りのことをやってみたんだって。でも、どんなことをしてもどうしてもだめだった。裸になって二人で一生懸命セックスと格闘するのよ。なんだか滑稽よね、って、その子笑いながらいうの。聞いててたまんなかった」
ほとんど無表情だった瑞樹の顔が、少しゆがんだように見えた。
「たぶん精神的なものもあるんだろうから、あんまりあせらないほうがいい、無理しなくてもいいよ、って彼氏は口ではいうの。だけど、そういうことって大きいのよ。二人とも若いし。欲望は止められない。体の中にナイフが埋められているみたいだっていってた。お互いに気を使って、そのたびに傷ついちゃって、もう逢ってるのもつらそうだった。表には出さないんだけど、体の中から声がするんだって。おまえ本当におれのこと好きなのか、って」
前かがみになった体を少し起こして膝を抱えなおすと、瑞樹は続けた。
「二人とも苦しんで悩みぬいて、結局別れちゃったんだけど、その子全然泣かなかったし、落ち込みもしなかった。不自然なくらい普通だったの。心配はしてたけど、そういうもんかなあって、軽く思ってた。援助交際してるなんてことも、全然気づかなかった」
瑞樹がふと目をこちらに向けた。
「ある日、その子すごくにこにこしててね、何かいいことあったのって聞いたら、もう大ありよ、って笑ってた。それ以上何もいわなかったし何も聞かなかったけど、どこかのねじがゆるんじゃったみたいに明るかった。その日の夜、彼女自殺を図ったの。薬をたくさん飲んで手首を切って」
膝を抱きしめるようにして、瑞樹は目を閉じた。まつ毛の影が頬に落ちる。
「発見が早かったから、命に別状はなかったけど。なんで今なの? って思った」
静かに目を開け、上体を少し起こして瑞樹がいった。
「一番苦しいとき平気な顔しててさ、なんで今なの? って」
薄暗がりの中に浮かぶ瑞樹の顔が、さらに無表情になる。
「援助でホテル行ってウリやったらできちゃった。そういって、その子、仮面みたいに笑うの。病院の真っ白なシーツにくるまって、真っ白な顔で。うそみたいにスルッと、入っちゃってね、とっても簡単だったわ、って笑うの。血がいっぱい出て、おじさんビビってさ、お金いっぱいくれるの、おっかしいよね、って。まるで笑うことしか知らないみたいに、その子ずっと笑ってるの」
何なんだろうね。瑞樹がつぶやく。夜が一段濃くなる。何なんだろうね。
「その子、今精神科のカウンセリングに通ってるの」
少し明るい声で瑞樹がいう。
「一時は自律神経系までおかしくなっちゃって、学校も一年休学するらしい。今はだいぶ落ち着いているみたいだけど」
膝を抱いていた手が少しゆるむ。
「精神科のカウンセリングっていっても、特別な治療とか指導とかそういう仰々しいのじゃ全然なくて、ただ話を聞いてくれるだけなんだって。一時間とか二時間とか決めて話したいことを話すの。何を聞いても驚かないし、否定しないし、他言しないっていう約束で。そんなの、石に話してるのと同じだって最初は思ったけど、違うのよ、って、その子いうの。人間がいるのって、不思議ね、って」
脚をのばして前屈運動を二、三回したあと、元の姿勢に戻って瑞樹が続けた。
「いろんなことを話しているとね、自分の心が少しずつ見えてくるんだって。その子の担当は三十歳くらいのちょっときれいな女の先生で、セックスのこととかも話すんだけど、その先生、黙って聞いているだけなんだって。わたしはあなたより長く生きているし、あなたよりたくさんのことを知っているかもしれないけど、でもわたしの人生はあなたの人生じゃないのよ、わたしにできることはせいぜい一生懸命話を聞くことくらい、考えて答えを出すのはあなたよ、っていって。ちょっと突き放した感じだけど、親でも教師でも友達でもない第三者に話を聞いてもらうのって、結構心地いいみたい」
にわかに明るい表情で話していた瑞樹が、不意に黙りこむ。
「人の性って、いったい何なのかしらね」
ひとりごとのように、瑞樹がいう。
「わたしたちってセックスに幻想を持ちすぎていたのかもしれないって、その子いってた。人を好きになって、その人とつながりたいと切実に思うからセックスする。セックスは素敵だと思いたい。好きな人とつながることは気持ちいいはず。なのに、違ってしまった。普通はそういうのってなんとなく通り過ぎてしまうものなんだろうけど、わたしと彼の場合はたぶん思い入れがあまりにも強すぎたのね、って」
瑞樹は壁に背中をもたせて、肩の力をふっと抜く。
「考えてみれば、みんな幻想なのかもしれないね。おじさんが女子高生に求めているのも幻想だし、女子高生がもらったお金で買うブランド品も幻想。親たちが気にする将来や世間体もみーんな幻想。人を好きになることも生きていることも、みんな幻に思えてくる。実感がほしいのよ。何でもいいから手でさわれるような具体的な実感がほしくて、幻想の中を泳いで、いつか取り返しがつかないくらい傷ついている。自分が傷ついているなんて気づかないの。気づかないでずっと幻想の中を泳ぎ続けるの。痛みも何も感じないまま確実に壊れていくのよ。自分という存在の中の、どこか、人とつながる場所が」
人とつながる場所。
「人間って、どんなに拒否してもみんなどこかでつながっているんだと思う。そこが壊れるっていうのは、もう自分ひとりの問題じゃないと思う」
人とつながる場所。わたしは瑞樹の言葉をもう一度反芻した。
「あのブレスレットね、記念に持ってて、って、その子がくれたの。何の記念? って聞いたら、手首切った記念、だって」
瑞樹の声が再び明るくなる。
「その子、たぶんもう大丈夫だよ」
柔らかい声で、瑞樹がいう。
「傷ついても、それを痛みとして感じることができれば、きっと少しは救われるのかもしれない」
瑞樹は腕を上にあげて、大きく伸びをした。
「あーあ、生きるって大変だね」
瑞樹は頭の上で両手を組み合わせて、それを静かに下ろした。
「わたしは、大丈夫かな」
組んだ両手でそのまま再び膝を抱え込む。そして、抱えた膝をぐっと引き寄せ、胎児のように丸くなって、ゆっくりと体を前後に揺らし始めた。
「わっ、もうこんな時間」
気がつくと、枕もとの時計は午前三時を過ぎていた。
「ごめんね、遅くまでつき合わせちゃって。なんだか、すっきりしたわ。これが瑞樹ちゃんの不審な行動のすべてです」
瑞樹は立ち上がって、もう一度大きく伸びをした。
「よかった。藍子叔母ちゃんがいてくれて。こんなこと、お父さんやお母さんには絶対話せないもんね」
ありがとう、と瑞樹は笑って、わたしの肌布団をなおしてくれた。
「じゃあ、おやすみ」
小さな声でいって、瑞樹は明かりを消し、部屋を出て行った。
兄の家には結局四ヶ月あまりいた。ずっと寝ていたわりには荷物は意外と多かった。
着替えを入れた大きなバッグが一つと、本やCDなどが入ったそれより小さめのバッグ。CDラジカセ。それに、兄から譲り受けてこの間から練習を始めたノートパソコン。
母が退院したので、いったん家に戻ることにした。一ヶ月ほど家にいて、十月からは施設に入ることになっている。
「お父さんまだみたいだから、そのへん、ひとまわりしてこようか」
荷物を兄の車に乗せ、わたしの車椅子を後ろ向きに玄関からおろしながら、瑞樹がいった。久しぶりに外の空気を吸う。
「藍子叔母ちゃんがいっちゃうと、さびしくなるなあ」
車椅子を押しながら瑞樹がいった。
「でも叔母ちゃんが決めたことだもんね。ねえ、本当に遠慮してるんじゃないんだよね」
後ろから覗き込むようにして、瑞樹がいう。わたしは指でしっかりOKのサインを作った。
車椅子の車輪がアスファルトの上の砂粒を踏んでいく。
日差しはまだ十分強いが、その向こうにひんやりした秋の気配が透けて見える。生い茂る木々の緑も、ほっと力を抜いてているような感じだった。
「わたし、藍子叔母ちゃんの気持ちなんとなくわかるよ」
少し考えてから、瑞樹がいった。
施設行きが決まるまでのひと悶着を、わたしは思い出した。兄と祥子さんはこのままこの家で一緒に暮らさないかといってくれた。母は母で家に帰って前のように二人でやっていこうといった。施設に入るというわたしに、いいとか悪いとか、かわいそうだとか、いろんな人がいろんな色をつけようとしているみたいだった。それが正しいのかどうか、今のところわたしにもわからないが、とりあえずはそれが、自分で出した無色透明の答えだった。
「とにかく生きてくのは自分だからね」
道はいつの間にかゆるい下り坂になっていた。坂の下から吹き上げる風に、瑞樹の声がほんの少しかすれた。