幕間 揺れる水面 後編
そうこうしているうちに、長いような短いような道のりは終わり、彼女の自室まで戻ってきた。優しく丁寧にベッドの上に下ろしてからすぐその脇に腰かけ、王は一度周囲を見渡す。
――侍女長の部屋の割には、殺風景だな。
そんな印象を抱いた。もちろん、彼女に割り当てられた部屋が貧相だとか調度品がないとか、そんなことはない。ちゃんとそれなりのものは置いてあるし、おそらくどこかの庭園から摘んできたのであろう青い花が活けてある花瓶だとか、若干模様替えされた敷物だとか、そういったものだって目につく範囲にある。
ただ――何と言うか、無駄なく整いすぎているのが実にツンと澄ましている横顔のようで可愛くない。逆に不愛想だ。まあ普段の彼女そのものがここにも表れていると言うか。
自分の私室だろう。安らぎの空間だろう。引きこもりの最後の砦だろう。それをこんなにキツキツにして息苦しくないのか、との印象を受けるのである。
確かにここは王城だ。
私室と言う名でありながら実質どこも公共の場みたいな部分はあるし、壁に耳あり戸に目あり、偉くなればなるほど人に見られる機会は増す。貴族クラスが私事? 何それ美味しいの? な生活をしていることだって、ある種当たり前だろう。気が抜けない気持ちもわからないでもない。
まあ、当代の王は例外と言うかかなりの不良なので、それなりにプライベートも持っている方だと思う。むしろ王がその昔――と本人はすぐに言いたがるが、四半世紀程度の人生の持ち主にとって10代後半やら20代前半の出来事は、割と最近のことであるはずだ――若気の至りをかましまくったせいで、彼を抑圧すると碌でもないことしか起こらないと言う事は、王宮住まいの人間にはもう十分染み渡っている。今では訓練された臣下たちは心得たもの、王がどこか行きたいですオーラを出すと、どうぞ羽を伸ばしていらっしゃい、というか伸ばして来いください、お願いします、間違っても溜めこんだ欲求をこっちにぶつけるんじゃない、と言った態度を取る。
大人しくしていると心配されて不良行為を薦められる王様なんて自分くらいなんじゃないかな、とリオスは考える。どう考えてもよろしくない前例なので、次代の王様には臣下の胃の健康のためにぜひとも見習わないで頂きたいものだ。
よくよく冷静に考えれば、それっていくらなんでも放置され過ぎではないか、この国そんなことで本当に大丈夫なのか、と思わないこともないが、まあ国だの王だのはどう頑張っても倒れる時は倒れる。彼は彼のできる範囲で適当にやっているが、これでダメだと言う時が来るならそれはそれで仕方ないと思う。大体有能でなければならないのは、頭そのものよりむしろそれを支える補佐官たちの方であるべきだ。頭だけ先行するやり方は、非常事態なら有効かもしれないが、どうせすぐにガタが来る――。
と、言うわけで、朕が多少不良であっても大丈夫だ。リオスは気楽に構え、自分の数々の所業を肯定していた。
そんな風に、すぐに自分を甘やかし逃げ道を作っているような性格の彼がこの部屋を見ると、無性に引っ掻き回したくなってくるのである。一見が小奇麗なだけに見えるおかげか、よく見た時に余計に歪さが増して見えると言うか。
数度視線を往復させて改めて確信した。ちょっとこの整い方はおかしい。生活している部屋らしくない。不動産の見本のインテリアのような……。
そのあたりで唐突に、はたっと病人の存在を思いだした。
そうだ、こんなことしてる場合じゃなかった。
慌てて傍らを覗き込むと、具合悪そうに青ざめたまま彼女が目覚める様子はない。リオスは一度自分を落ち着かせるために作り笑顔でふう、と息をつき、沈黙し――それからおもむろに腕を組んで真顔になった。
彼はあらゆる魔術の達人だが、どうしたことか癒しの術だけは昔から素養が皆無、これだけは師匠お墨付きのド下手くそである。たぶん弟弟子にも余裕で負けるだろう。他人を癒そうとすると、その時だけ絶対に失敗する。以前忍者もどきの侍従にも指摘された通りだ。傷つける方ばかりやたら得意で、一度病人やけが人を前にした彼は一般人と大差ない役立たずっぷりを晒すことになるのである。
まあ、薬草の調合とかは普通にできるので、間接的でいいのなら必ずしも本当にできない、とは言い切れないのかもしれないが。
チラッと傍らの彼女を見る。どうしろと言うのだ。癒し系はいろんな意味で専門外なのに。
いやしかし、朕一人でなんとかなるから! と捨て台詞を吐いて飛び出してきたのは紛れもなく彼自身である。
脳内に腹立たしい師匠とのやりとりが思い起こされた。
「――やだよ、こっちは弟弟子だけで手一杯だ。あっちは放っておいてもどうせ大丈夫だと思うな」
「――ふむ、隠さず本音を言おう。そうとも、別に不可能ではない。だが、やりたくない。そう、気持ちの問題なのだよ。吾輩はね、どうしても、と言うような事態にでもならない限り、彼女に触りたくないんだ。今はその、どうしてもの時じゃない。彼女は少々苦しむかもしれないが、まだなんとか自力で治る範囲だろうからね」
「――ん? 弟子はいいんだよ、可愛いんだから。え? こっちの方こそこのまま寝かせておいて問題ないって? だから気持ちの問題だって言ってるじゃないか。あっちは吾輩にとって完全な他人だろう。なぜ不快な思い、危険を冒してまで助ける必要が? ないね。ないだろう。……まさかとは思うけど、吾輩に博愛や人情なんて期待してるんじゃないだろうね、リオス」
「――うるさいなあ。と言うかさっきから面倒だね。そんなに気になるならここで管巻いてないで、君が自分で行ってくればいいじゃないか。ただし、吾輩の所に連れてくるならこの部屋には絶対入れないからね。別の所に行きたまえ。まあ君は感動的に癒すのが下手だから、行って何ができるとも思えないけど――」
「あーもーわかった、行ってくりゃいいんだろ、朕一人でどうにかしちゃいますから!」
そこまで回想して顔を覆う。
誰だこの、最後の煽り耐性ゼロの恥ずかしい野郎は。アデルかよ。だがしかし残念、朕なのだ。頭が痛い。完全に売り言葉に買い言葉である。ちょっと久しぶりにカッと来てしまった。
あと、どうせなら出てくる前にあのマイペースジジィに一発ぐらい殴っておくんだった。その辺を特に今、猛烈に後悔している。今度会う時に出会い頭にデコピンすればいいか。ふははあやつめ、どこまで吹っ飛ぶか見ものだな。
いつの間にか黒い笑顔に額に青筋が立ちかかっている賢者の弟子は不孝で物騒な計画を練っているが、半分現実逃避だった。一方でチラチラ横目に彼女を窺って、そのうち起きてくれないかと心の隅で思っちゃっている。
じーっと見ていると、願いが通じたのか一度彼女が呻いた。しかし、苦しそうな声を上げただけで起きない。
少しの間真っ白になっていたリオスは気が付き、自問する。
なぜ朕は今、素早く立ち上がると同時に後ずさった。しかも両手を上げて棒立ちでどうする。何すればいいんだっけ。あれだよほらそう、熱出してるんだから風邪ひいてるようなもの、師匠も確かそんな事言ってた。要するに魔力切れでぶっ倒れてるんだけど、風邪引いてんのと大差ない、安静にしてればそのうち自然に治るって。
そう、安静。安静にさせればいい。安静って何だっけ。大人しく寝てればいいんだよ。おい国王兼賢者の弟子、しっかりしろ。なんでこんなキョドってんだ、朕?
ええと、だから発熱してる奴の看病は、と彼はようやく頭を働かせ、ぎくしゃくと動き始める。
一度動き出すと早かった。部屋の中やら周辺やらを動き回って盥と適当なタオルを探し出してくると、ひとまず見えている部分の汗を拭い始める。額にじんわり浮かんでいる大粒を拭きとるついでに、改めて触った額が熱い。氷枕、は無理ならタオルにくるめばいいのか、と作業しようとしたら彼女の唇が動いた。どうやら言葉、と言うか単語を喋っているらしいので気になって束の間耳を澄ませてみる。
「あ、でぃ」
すぐにわかった。アディ。そう言っている。何度も、切れ切れに呼んでいる。
わかってみるとなんとも不愉快な気分になった。ちょっと真剣になって聞き取ったことを後悔しそうに――違う、もう既に後悔している。
こんな時まで妹の心配か。まず先に自分の心配をするべきだろ、馬鹿か。
言ってやりたくても寝ていては仕方ない。アデルとか野郎相手だったら引っぱたいてやるところだが、そうもいかない。モヤモヤは発散する場所がなく、行き場を失って彼の中でとぐろを巻く。
――不思議なもので、怒るとなんだか落ち着くし、いつもの自分が戻ってくる。あと、なんか無性に、俄然看病にやる気が湧いてきた。
腕まくりをすると、まるで何かの鬱憤を晴らすかのごとく、雑念を振り切って黙々と作業することにしたリオスだった。
はずだが、割とすぐに別の雑念が湧く事態になった。
と言うのも、俄然やる気になって様々なアイディアを浮かべているうちに気が付いてしまったのである。このまま彼女を安静に寝かせておくには一つ、多大な妨害事項が存在すると言う事を。そして彼は今この場で彼女の面倒を見ている以上、たぶんその安静の邪魔を排除する義務と権利が存在するはずであると。いやむしろ自分がこの障害を滅さねばならぬと。
思いついてから決定して行動に移るまで、時間にして3秒程度。ほとんど悩まなかったと言うのに等しい。リオスと言う男はそう、煩悩の塊だった。
――なあ、シスコンよ。わかってくれ。他に適切な人員がいないんだ。
あ? 今すぐその部屋に張ってるバリア解除してメイドさんとか他の侍女とか呼べばいい? いやいやそんな、はっはっは。まあその何、こっちも色々事情があるんだ。けして、けっしてその、やましい思いだけではない。たぶんきっとおそらく。
わかってくれ、朕だって不本意なんだ、悲しい。本当はこんなことをしたいわけじゃないんだうわー身体が勝手にー、これはきっと誰かの陰謀だーそうに違いないー、お許しください妹様ー。
突っ込み不在の恐怖と言うべきか、ゲスには必ず見張りをつけないといけないことの教訓と言うべきか。
脳内懺悔と謝罪(棒読み)が済むと、いっそ不気味なくらい爽やかな笑顔でリオスは両手を合わせ、目の前でわざとらしく十字を切ってから事を始めた。
今までの看病はぎこちなかったろうし、繰り返しになるが彼は医術系のみピンポイントに賢者公認で素養がない。
が、女性を脱衣させるのは胸を張って言えるが(そしてほぼ確実に言った相手からそんなことに胸を張るなと罵倒されるが)、彼の得意分野なのである。ひょっとしたら自分で服を脱ぐ以上に、それはもう、手慣れている。ゲスの本領発揮である。
もし本人が起きていたのならそれはもう抵抗されただろうが、生憎この部屋にいるのはやる気に満ちている屑と意識のない哀れな犠牲者のみ。それ以前に、一体誰が何が、このノリノリになった朕王を止められると言うのか。いや、止められるものなど存在しない。今日も月が綺麗だ。曇り空だが。
そう言ったわけで、鼻歌交じりに手際よくコルセットは外された。コルセットが外れたと言う事は、その前のドレスも当然のごとく速やかにかっぱがれていた。
結局、気絶している彼女の服を剥ぎ、代わりに探してきた寝巻を着せると言う、ある方面から見れば何ら後ろ暗いことはない正当な医療(?)行為、またある方面から見ればまず間違いなく断罪の理由になるべき暴挙は完遂されてしまったのである。
一応リオスの――いやそっちはどうでもいいのでスフェリの名誉のために言い訳をしておくと、汗だくだし身体を圧迫する、そんな病人には不適切(とリオスに判断された)服をもっとふさわしいものに着替えさせただけで、それ以上は何もしていない。せいぜい、作業の合間に汗を拭ったりしたぐらいだ。
また、あえて上半身のあれこれを目に入れようとはしなかったが、目に入っちゃったものは不可抗力、仕方ないので美味しく長期記憶に保存させていただいた。寿命が延びる視力が回復するとはこのこと、まさに眼福だった。どこぞの某山猿とこっそり脳内で比較して、やだ、姉妹なのにこの才能の差って一体、と涙を禁じ得ないぐらい、素晴らしかった。自他ともに認めるおっぱい星人なので、たぶん一生忘れないだろう。
あとは、確かにコルセットは剥いたが、さすがに下半身は自重して弄ってないし見てもない。あくまで寝巻に着替えさせることが目的で、そのためにお邪魔だった一部拘束具に空気を読んでログアウトしていただいただけなのである。朕は悪くない。などと本人は供述している。
そんなわけで、いい仕事をしたぜ、ときらきら輝きながら汗を拭っていたリオスだったが、ふと一通り作業を終えてから我に返る。
身体を締め付ける矯正具から解放され、絞られた濡れタオルを額に当てられている彼女の顔色は、こちらの願望、僻目なだけかもしれないが、少しだけ良くなったように見える。ゆっくり上下するシーツを見守ってから、ふと目を細めた。
チャンネルを切り替えると、途端に視界いっぱいに光の群れたちが出現する。探そうと思えば彼らは大体どこにでもふわふわ漂っているが、スフェリアーダの近くには特に多い。と言うよりも、周辺の精霊たちが進んで寄ってくるのだ。そこにいたい、そこが居心地がいいとでも言わんばかりに。
今も苦しげに息を漏らす彼女の周りをいくつも飛び交っている。擬人化するのなら、心配しているようだった。ごく近くを漂っているものが時折彼女に触れ、溶けるように浸透する。信じがたい事だが、スフェリには精霊たちが自ら糧となってでも力を貸しているのだ。
フラメリオが彼女の事を心配ないと断言する理由の一つはこれなのだろう――。
瞬きして、通常の視界に戻す。ベッドのそばに持ってきた椅子の背もたれを跨ぐように、本来の向きとは逆方向に座ってベッドの上を眺めた。
弱っているからだろうか、それとも寝顔だからなのか。無防備な顔は妙に若く、と言うか幼く見える。
……冷静に考えたら、そう言えばまだ二十歳も越えてなかった。アデルと二つ違い。こっちが大人びててあっちがアレだから、もっと開いているように感じるが。
改めて、普段から相当無理してるよなあコイツ、と思う。いきなり侍女長を投げた自分が言うのもなんだが、よくやっている。だけど――。
スフェリがまた呻いたかと思うと、寝返りを打った。くしゃっと黒髪が目元の辺りにかかり、顔を覆ってしまう。なんとなく椅子をさらにベッドに寄せて手を伸ばし、邪魔な髪をどけてみた。
現れた表情は意外にも柔らかかった。堪えるような苦悶の表情が緩み、ほっとしたように彼女は薄く笑っている。
「……ん」
血の気の失せた唇から洩れる吐息に一瞬動きが止まった。苦しげだったさっきまでと雰囲気が違う。幸せな夢でも見ているのだろうか。
「――アディ」
また、名前を呼んだ。先ほどまでのような切迫したものではなく――おそらく彼女が本当に愛しいものにだけかけるのであろう、甘くやわらかな声音で。
どれほどその横顔を眺めていたことだろう。窓から見える外が、徐々にだが明るくなってきている。
彼女は大分汗をかいた。起きたら水分を必要とするはずだ。ついでに煎じ薬でもくれてやろうか。飲まないかもしれないが、まあダメ元だ。消化にいい食べ物とかも、用意するといいかもしれない。
だからその時のために、水差しやらコップやらを近くに持ってきてやろう。さらに言うのなら、それらを用意したら自分は彼女が目を覚ます前に去るべきだ、と理解はしている、頭ではわかっている。それなのになんだか動く気になれない。
もう少しこのまま見ていたかった。普段の自分には絶対に見せないであろう、もう一つの彼女の顔を。
「……起きろよ」
囁きながら指でこしょこしょと顎の辺りをくすぐるようにすると、くすぐったそうに彼女が身じろぎした。伸ばしていた手を引っ込めて、椅子の背もたれを抱え込む。行儀悪く揺らしながら、背もたれの上部をつかむ両手に顔を埋めるようにして、リオスはもう一度低く呟く。
「起きてくれよ、スフェリ。元気に罵ってくんないと、調子狂うんだってば」
夢うつつな彼女の漏らす声は、溜息か、押し殺した苦痛の声か、でなければ妹の名前だ。――いつもいつも、妹ばかり。
「お前が良くても、朕は困るよ。お前が嫌いでも、朕は……」
寝室に深いため息が一つ落ちる。男が動きを止めて押し黙ると、安らかな寝息だけが響く。
濡れタオル用に用意されていた盥の中に、一つ小さな波紋が広がり、かすかに水面が揺れて動いた。




