幕間 手負いの獣 後編
ふわり、ふわりと彼女の周りを光の群れが漂っている。何もない空間にぽつんとひとり。と言う事は、夢であると彼女は確信した。
光の正体は、人間には精霊だとか魔物だとか、まあそう言った類の言葉で呼ばれている種類のものだ。もちろん普通の人間なら見えることはない。見える人間にはその時点で素養がある。魔物の道を歩む素養が。
彼女は昔から、見ようと思えばいつでも彼らを見ることができた。視界を切り替える、とでも言おうか。少し見る目の調子を変えれば、造作もない事だった。
彼女に魔術の師は特にいない。強いて言うなら、書物と、そしてふと目を上げた時に周囲に漂っている光の群れたちこそが、彼女の魔の師だった。
彼らは彼女を見つけると親しげに寄ってきて、優しく手招きをする。
かえっておいで。
もどっておいで。
耳を澄ませば、いつもその声は聞こえる。
甘い言葉に全く惹かれないと言えば、嘘になる。狂おしいほどそのことを願っていた時だってあったのだ。帰りたい、帰らせてくれと“父親”に縋り付いて泣いたことだってあった。
――もう随分と昔の話だ。
幻想の空間にぼんやりと立っている――浮かんでいると、温かな光たちが次々に彼女のそばに寄ってくる。触れようとして、光たちは彼女をすり抜けていく。肌に触れた瞬間も、通り抜けていく最中も、感覚はない。違う世界の住人なのだ。触ることまではできない。
彼女の肉体は人間の世界の物。重く、苦しい箱。雁字搦めの鎖。20年近く付き合っていれば扱いにはもう慣れたものだ。瞬きをしたい、と思うとその通りに動く。
作り物の人形。偽物の人間。
少し前に触れた箱のことを思う。あれと一緒だ。外見ばかりが見目良く、中身はぐしゃぐしゃなのだ。
そっと、胸に手を当てる。夢の世界でも、そこを触ると馴染んだ答えが返ってきた。
鼓動。心臓の動く音。偽りの魂なのに、身体はいつも懸命に最期まで生きようとする。それがなんとも滑稽で、果てしなく醜くて……ほんのわずかに、哀しい。
この世界のどこにも彼女の居場所なんて存在しない。
わかっている。間違えているのは自分だ。始まりの時を覚えている。
しばしの猶予は与えられても、断罪の時はいつか訪れるだろう。証拠に囁き声は消えない。
そこはお前の居場所じゃない。戻って来いと仲間は言う。
それでも、もう少し。あと少し待ってほしい。
親しき囁きたちを拒むように目を閉じ、耳をふさぐように意識を彼らから遠ざける。そうして彼らを拒んでいると、声は遠くなり、夢が変化する。
自分の身体がどんどん小さくなっていく。良く知った夢が始まろうとしていた。心の一番奥にある扉が開かれ、幼い頃の思い出がよみがえるのだ。
何もなかった空間に、やわらかな光に包まれた緑の景色が現れた。
小さな彼女が見覚えのある庭に降り立つと、すぐに近くから笑い声が聞こえてくる。
それはぽんぽんと栗毛の髪を跳ねさせ、お姉さまお姉さま、と後ろをよちよち一生懸命ついてきた。と思っていると、派手に顔面から転ぶ。べしゃっと行ってからしばし沈黙していたかと思うと、びいびいやかましく泣き出した。けれどすぐに別の物に興味がうつったようで、キャーキャー騒ぎながら飛び起きて駆けていく。
くるくる、くるくる。動きも表情も常に変わって予測できない。見ていて飽きない。
生きているという事、それそのものの体現者だった。その眩しさに目を細める。
少しだけ目を離した間にどこに行ったかと見回していると、お姉さまお姉さま、と今度は上から声が降ってきた。素早く庭の木にかけ上っていったらしい。たぶんこの後、降りられずに泣き出す。彼女は笑って呆れながら、両手を広げてここに降りておいでと誘導してやるのだ――。
大事な、大事な、宝物。
あなたのためなら、何だってしよう。何度だって、この身を削ろう。
見返り? いらない。心も言葉も涙も笑顔も――愛も。全部いらない。何も求めない。
もうすでに十分貰っている。
幼い娘たちは走り回る。回想は続く。青い瞳がきらっと陽の光に輝いた。
昔、この庭で約束をした。
あなたが忘れてしまっても、ずっと覚えている。忘れられてしまっていい。……むしろ全部終わったら、自分のことなどすっぱり全部忘れ去ってほしいと思う。
どうせ最初から死んでいる人間だから。
走り回っていた彼女が駆け寄ってくる。姉が手遊びに作っていた花輪に興味を示し、被せてくれとねだった。
小さな彼らは手と手を合わせ、額をこすりつけて囁き交わす。
――永遠に続く、真実の愛に誓って――。
子どもの戯れ。いつか卒業する、幼き日のごっこ遊び。幾多の他愛ない思い出の一つ。
ただの夢だ。いずれ覚める夢。理想。現実には、どうあがいたってできない。
それでも、忘れたことはない。
あなたがくれた言葉を、つないだその手の小さな温もりを、あの時結んだ約束を。
それがあったから、“生きよう”と思った。
それがなければ、“生きて”などこられなかった。
あと少し。きっとほんの少しの間。
――あなたの王子様が現れるその日まで。
小さな頃の彼女はくすりと一つ笑うと瞼を閉じて、名残惜しさを感じつつ、秘密の花園に再び鍵をかけた――。
そこで、現実世界に戻ってきた。
うっすら開いているらしい瞼から見える景色はぼやけていてはっきりしないが、明るくはない。夜だと思う。
身体全体がだるく、重たい。どこもかしこも痛い。吐き気がする。
現実の彼女はぼろ雑巾のように酷い状態だった。場所が特定できていないが、人の気配がしないのは有難い。こんな無様なところを見られたらなんと言われることやら。
どうやら無事に、あのふざけたイベントとやらを終わらせて戻ってこられたらしい。しかもアデラリードたちと一緒の場所に戻ってきたくないと思ったら、その通りになったらしかった。
ひょっとしたら、現実世界に帰ってきてしばらくの間気絶していたようだ。身体がすっかり芯まで冷え切っている。うめき声も上がらなければ、寝返りすら打てない。本当に、全部絞り出してしまった。
最後の空間に到達するまで、迷宮の道のりは長く、貧弱な同行者があっては地味にだが確実に魔力は消費しなければならなかった。それでも計算してやりくりしながらゴールまでやってきたものの、終点間際であの戦闘である。不意打ちだったせいで対応が遅れ、保険にと取っておいた最後の魔具であった髪飾りまで散らしてしまった。
怪物を“安全に”倒すためには、戦いが終わった時点でほとんど身体の中がすっからかんになるほど魔力を有した。自分だけならともかく、妹が飛び込んできた段階で、もう出し惜しみできる余裕はどこにもないと切り替えた。ただ同時に、湯水のように振りまく余裕もまったくなかったのだけど。
それにしても、妹は以前までと違ってやられっぱなしになってくれない。あまり喜ばしい事ではない。せっかくちょっとした幻術をかけて足止めをしていたのに、短時間で破られてしまった。……まあ、あれは優秀なようないまいち頼りないような、お犬様のおかげだったのかもしれないが。
攻撃が三段階目に突入し、怪物の中身が外に出てきた段階で、ここが使いどころだとスフェリアーダは動いた。
しかし普通の人間や動物とは違って、あの混沌とした精神を解析して侵入・掌握するのはひどく骨が折れた。何しろ精神毒の塊みたいなものである。可能なら全ての動きを止めたかったが、なんとか三つめの攻撃が撃てないようにするのと、若干動作を鈍くさせるだけで精一杯だった。おまけに並列で氷の魔術を操っていたのだ。正直、魔具の助けもなしにこんなことをして魔力切れが起きない方がおかしい。
あのタイミングでモナモリスとの契約を打ち切ったのは、別に特に彼に対して何か思ったからではない。
傷ついた妹を治すために、絶対的に魔力量が足りなかったから、契約維持に回す分も惜しかった。そんな切実な事情からだった。
もともとモナモリスとの契約は、結べていればいざと言う時何かの役に立つかもしれないぐらいの気持ち、要は保険だった。だから別に、あってもなくてもどうとでもなるようなものだったのだし。
……しかし、アデラリードの治療で今度こそ全部残らずすっからかんになってしまった。集まってきた精霊たちが気を利かせて助けてくれなければ、とても箱の所まで走っていくことはできなかっただろう。
問題は、魔力が底をつきたせいで、普段自然と自分を隠すために使っている覆いが剥がれてしまい、しかもそれを目撃した者がいたと言う事だ。
素養のない文官にさえ彼女の周りに浮かぶ光の群れは見えただろうし、騎士に至ってはあれでも魔性を飼っている人狼だ。表情からして……たぶん、何かしら悟られただろう。
まあいい。あの男は知った秘密をあちこちに言いふらすような性格ではなかったはずだ。しばらくは一人でくよくよ悩むだろう。その間になんとかさっさと回復して、余計な口を叩かれる前に記憶を消させてもらえば問題ない。
モナモリスの方は……どうだろう。一方的に契約させて一方的に破棄したのだ。結構振り回したから、最終的にどう彼が結論を出すのかまではわからない。
まあでも、あちらに関しては大して心配していることはない。天使の羽の持ち主の自分が誘惑しても既に意思は固まっていたぐらいだ。こっぴどくフラれない限りもう彼の相手は決定してるだろうし、彼女の方だってまんざらでないはずだ。
それに幸運な事に、妹はあの男の趣味ではなかった。補正をかけようがないくらいに正反対だ。良好な友人関係になってもそれ以上には発展しないだろう。
変なところで予測と違う行動を取ったりするので、自分に対してはこれからどう出てくるか微妙に読めない所だが、まあ、そっちはどうとでもなるだろう……。
そんなことを思いながら、ぼんやりと地面の固い感触を感じ、力なく目を閉じてじっと身体の感覚がマシになる時を待っていると――どれほど時間が過ぎただろうか。さく、さく、と誰かが近づいてくる足音がする。
すぐ脇にまでやってきてから、かがみこんだようだ。仕方なくだるい瞼を上げる。視界に映り込んだ情報に、思わず反射的にああ、と嘆息が漏れてしまう。
――よりによって、このタイミングで、この男が来たのか。
見上げた先には、よく知っているオレンジ色の鬣と、冷たい二つのエメラルドグリーンが、どこかから漏れているわずかな照明を受けて輝いていた。




