幕間 手負いの獣 中編
足場から降りる、とはつまり得体のしれないものが溶けていった水の中に入ることである。
実際濡れてからキルルはそのことに気が付いたが、そう言えば戦っている最中に散々絡まれたんだしいまさらだったか、と思いなおす。豪快に突っ込んでいって蹴散らす戦法は、頭に血が上っている状態ならば何も気にならないが、後で冷静になったときに後悔することもある。
少しだけ泳いでから一番近くの足場、と言う事は今スフェリアーダが渡ってくる前にいた場所に上がり、振り返る。
ぎょっとした。
ついさっき威圧の顔でキルルを退けた女性は、妹の横にかがみこんでその頬を撫でている。どこか緊張を帯びながらも、キルルに向けていたのよりは明らかに柔らかな雰囲気である。アディ、と唇が動いたらしい。倒れている方もだが、そうでない方も同じくらい顔色が悪い気がする。普段ほのかに薔薇色を帯びている頬が文字通り白い。と言う事は、血の気がすっかりひけている、つまりは貧血状態なのではなかろうか。
が、それ以上に彼が何に驚いたのかと言うと。
猛然と目をこすり、頭を左右にぶんぶんと振ってからもう一度見たところ、異常は消えうせた。間違いなくさっきのは錯覚だったと思えるほどに。
夢見心地のまま頬をつねる。普通に痛い。よし、現実だ。ダメ押しに両頬を叩いてみる。やっぱり痛い。一人で大騒ぎしているが、幸いスフェリアーダがこっちを睨みつけてくることはなかったのでキルルは引き続きぐるぐると考え込んでいる。
だってそんな。あり得ない、はずだろう。
怖い人の代名詞みたいな彼女。作り笑顔か、でなければ無表情を顔に張り付けている彼女。何が起ころうと大して動じず、何事もないように片付けてしまう。
キルルシュタイナーの知っているスフェリアーダとはそう言う人間である。
なのに一瞬だけ、その横顔がなんとも脆く儚く弱々しく――まるで途方に暮れて泣いている少女のように見えてしまった、なんて。
いや。冷静に落ち着いて計算してみれば、アデラリードが自分の5個下なんだから現在確か16……もう17歳、と言う事は、チビの二つ年上のスフェリアーダはまだ19歳のはず。そうだった、彼女はあのウルルより年下でさえあったのだ。16歳で大人の仲間入りが認められるとは言え、19歳はまだまだ若造扱い、場合によっては子ども扱いされることもある。少女呼びもギリギリできないことはないかもだし、その意味では正しい――いやでもやっぱりあれは幻だろう、あり得な過ぎる――。
とまあ、一生懸命両手を広げて指を折りながら首を捻っている、もともと頭脳派でないくせに頭を使おうとして大混乱中のキルルである。
ついでにその年下に貫録で負けたり視線で脅されて威圧されている自分の情けなさには気が付かないあたりが、らしいといえば彼らしい。
そんなこんなで動揺しまくりの役に立たない駄犬騎士をよそに、スフェリはゆっくりと何事かを唱え始めた。先ほど氷を操っていたのと似ているが、よりゆっくりしている。
瞬間、彼女たちの周囲に突如ぽつぽつと光が浮かび上がって思わずキルルは腰を浮かしかける。
それに特に敵意や害意がないことを感じると、中腰からお座りの待機状態に戻った。邪魔なんてしようものなら、容赦なくしばかれる。勘とちょっぴりの経験則がそう彼に伝えている。
現れた無数の光の群れたちが、ゆっくりと動き出す。かがみこむように妹を覗き込んでいる姉と、仰向けのままぴったり目を閉じている妹。彼らを中心にして動きだし、回転を始めた。ごくごく穏やかで緩い、渦の動き。
スフェリが歌うように小さく何かの旋律を口ずさんでいると、いくつかの光が渦の中からすうっと降りていく。光の粒はアデラリードに触れると水滴のように広がり、淡い橙色の燐光となってまもなく包みこんだ。周囲を漂う残りの光は何をすることもなく、ふわりふわりと二人を取り巻いている。
アデラリードが起きていれば、それらを蛍のようだと言ったかもしれない。キルルが連想したのは綿毛だ。ちょうどそんな感じの軽さ、どこかに風に流されて飛んで行ってしまうような感覚を覚えた。こんな風に球状に規則正しく動く綿毛は見たことがないが。
不意に光のいくつかが自分のほうにやって来たので思わずのけ反りそうになるが、途中で動作が停止する。光が近づいた瞬間、ぴりりと自分の中で反応があったのを感じた。同時に、闘いが終わって微睡んでいたはずの狼が、はっきり目を覚ます。
キルルは自分を押さえるかのように手をみぞおちの辺りに持ってきて、深呼吸をしている。彼の内声とでも言おうか、本能とでも言おうか。以前はただただ疎ましく嫌悪の対象であったそれは、抵抗を緩めて自由に振る舞わせてみれば、案外彼に何もしてこないし、何かしたとしてもそう悪くない働きをする。
たとえば、まさに今のような場合に。
狼が起きたと言う事は、放っておけない危機か、あるいは同類の気配が近くにあるサインだ。前者ではないと思う。自分も狼も、あれから敵意の類は感じていない。イカには彼と一緒に問答無用で毛を逆立てた狼だが、今は様子が違う。
キルルは少し力を抜いて、彼の中の隣人にしばし任せることにした。こんな時、自分よりも奴の方が正しい対応を知っている。銀狼はピンと注意深く両耳を立て、瞬きもせずに光の群れたちを、キルルの身体を通して見つめている。すんすん、と近づいてきた奴らの匂いを嗅いだ。花のような、何か少し甘い感じの香りが漂ってくる。
わふん。
狼はそれを確認すると、挨拶のように一つ吠えた。大体の興味を示した相手には気に入らないと唸る奴にしては、驚くほど友好的な態度だ。
ふわりふわり。顔の周りを応えるように光が回った。そこから聞こえてくる笑い声のようなものがさっきよりも少し強く感じることができる。
キルルがそれに注意を向けてもっと情報を得たいと思ったからだろうか。狼がぴりりと耳を動かすと、ざわめきのようなささやき声のような音が聞こえてきた。
おいで。
おいで。
いっしょにおいで。
かえっておいで。
ぼんやり浮かぶ光たちは、人間風に翻訳するのなら、そんなことを言っているらしい。
戸惑いを隠せないキルルだったが、ふと気が付く。その言葉は自分に向けられているものと言うよりも、むしろ。
視線を上げると、スフェリはアデラリードの額の髪をかき上げるように撫でていた。光の群れたちは、彼女たちを中心に回っているのではない。両方でなく、よく見れば片方を中心にしていた。そして、ずっと彼女に向かって囁いているのだ。
かわいそうに。
そのからはせまかろう。
そのからはくるしかろう。
おいで。
おいで。
かえっておいで。
こちらにきてしまえばらくになれるのに。
そこはおまえのばしょじゃない。
おまえのいるべきところじゃないのよ……。
――ふっと、ろうそくを吹き消したかのようだった。
一斉に光の群れが消え、ざわめきも失せる。スフェリの歌のような呪文もぴたりと止んでいた。
呆けたようになっているキルルをよそに、彼女が立ち上がる。慌てて動こうとするキルルに向き直ると、少しだけ妹の方を見てから、こちら側に視線を移動させる。
「……連れて行ってあげて。一日程寝ていれば、大丈夫だと思うわ」
確かにアデラリードの顔は、前と違ってすっかり血色よくなっており、表情も強張って苦痛に耐えているような感じのものでなくすっかり緩んでいる。こちらの気も知らずのんきにぐーすか寝こけているように見えた。
だから問題はスフェリの方だ。
ほっそりしている身体は今やげっそりの域に達している。もともと白い顔立ちが、すっかり青い。微かに震える唇が紫色になっていることにも気が付いた。今の声だって少しかすれている。
キルルは動けない。何かしよう、何か言おうと思うのだが、出てこない。
ちょうど狼に主導権を渡したままだったからだろうか。同時に彼には、とても不思議なものが見えている。それに何と言うか――圧倒されているのだ。
彼女と重なって見えるのは黒い鳥。すらりと長い首と尾羽が美しく、凛とした顔立ちで、これまた折れそうなほど細長い二つの脚で澄まして立っている。銀狼と違ってキルルの膝のあたりまでしかない小さな身体だったが、なんだか妙な覇気と言うか威圧感があった。
だが、よく見ればその羽はボロボロだった。もとが美しかったのだろうと容易に想像できるがゆえに、より一層痛々しい気持ちになる。酷いありさまだ。ところどころむしられたように薄くなっていて、全体的にも嵐の中を通ってきたように毛並が荒れ果てている。極めつけは胸の辺りに一本入っている醜い線だ。そこから赤いものが零れ落ちては、ぽたりぽたりと滴っていく。
――はっとした。狼の方から人間の方に意識が引き戻される。両手を胸元に置いた彼女は、まるで今見た物を咎めるようにこちらを睨みつけていた。
それよりも、ひょっとしたら怪我をしているのかもしれない。駆け寄ろうとしたキルルに、突如風が押し寄せた。
「――っ!」
両手で顔を庇って踏ん張る。風は一瞬だったが、彼を怯ませるのには十分だった。
再び目を開けると、彼女の姿は消えている。慌ててアデラリードに駆け寄ってから、はっと振り返った。
一体今度は何の魔法を使っているのか、水面を彼女は軽やかに駆けていく。けれどその足取りが幻想で、実態はほとんど気力だけで振り絞られた覚束ないものなのだとわかった。倒れるように歩いている。止めなければいけない。一人で行かせてはいけない。そうは思うが、足が固定されたように動かない。
「待ってくれ、スフェリアーダ!」
もたついているキルルより先に、彼女を呼び止めた者がいる。普段はぼそぼそと聞き取りにくい発声しかしていないのに、意思の力だろうか、意外にもよく響いた。
ともに迷宮を進んできたとは言え、彼らの力関係は歴然である。それでも、彼女は一度足を止めて振り返った。
文官は呼び止めはしたものの、次の言葉が出てこないらしい。何度か口を開け閉めしているうちに、スフェリアーダは心得たとでも言うような微笑を浮かべた。
「――アデラリードを」
それだけ二人の男に言い残すと、もう未練はないとでも言うように身を翻して去っていく。
邪魔者はもう誰もいなかった。彼女は足を引きずりながら水から石の上へ、そして階段のようになっている場所を一気に駆け上がる。
光の当たる場所にまっすぐ最短距離でやってきたスフェリアーダは、見目良くも禍々しい箱に倒れこむように到達すると、臆することなく撫で上げた。
瞬間、あたりの景色は歪み、輪郭が歪んで溶けて、全員が暗闇の中に吸い込まれていった。




