幕間 手負いの獣 前編
瞳を刺し貫かれた怪物の輪郭が歪み、一際甲高い最期の叫びとともに文字通り溶けていく。目玉がぐにゃんと溶けたのが見えた瞬間、うえっと思わずキルルは声を上げた。
水面から浮かび上がってきた時以上に、ごぼりと内側から粘液のようなものを吹き出しながら、ゆっくりゆっくり水の中に不気味な泡を立てて沈んでいくその様はどこまでもおぞましい。
なんとなく、昔「しんとーあつのじっけん」の餌食になったナメクジの様子が思い浮かんだ。もちろんそんなことをキルルに教えるのは悪くて容赦のない先輩である。
粘液系の奴って燃やすまでもなく結構簡単に殺れるんだぜ、条件が揃えばだけど、と溶けていくナメクジを下に彼は言った。こんなの残酷だ、と言った後輩に、当時まだ10代前半だったはずの先輩殿はつと口元を歪めたものだ。
どうせいつか死ぬ。遅いか早いか。それだけだ。
でも命を奪うまでのことはなかったんじゃ、と思わず反論してしまった幼きキルルに、相手は面白くなさそうな顔をした。
お前さ。命は重いとか、思っちゃってる?
背筋が震えたのは、きっと本能で悟ったからだろう。少年の瞳は、幼くして既に死に慣れきっていた。
たぶん、自分でも何度か手を下したことがある程度に。
知ってるか。人間の生まれ方は一つだ。……まあ、例外もあるけど一応、な。お前ももうちょい年いったらわかるよ。悪いもんじゃない。
だけどな。死ぬ方法は、星の数ほどあるんだぜ。……馬鹿みたいで、笑っちゃうよな。
冷たい冷たいエメラルド。飄々としたそれが冷ややかに、そしてどこか物寂しげに変化する時はいつも、何も言葉が出なかった――。
しかしそんな回想はほどほどに打ち切って、今のことである。そういえば件の「しんとーあつ」って結局何なのか未だにわかってないんだよな、とかさらに流れていきそうになる意識を、頭を振って打ち止める。
自分に手を伸ばそうとしていた触手の群れが力を失って落ちていくと、彼の注意は怪物よりもむしろ別のことに向く。無意識のうちに最後の悪あがきのようなものが飛んでこないかの警戒はしているが、死が決定した相手よりもはるかに気がかりなことがあった。
「アデル!」
幸いにも先ほど彼女が登って行く時に利用した氷の柱がまだあった。素早く手足を駆使して最短距離で駆け上がり、自分と対象の軌道を予測して先回りする。右手を目を付けた氷の柱に五指を突き立てるようにして固定し、空いている左手で落っこちていきそうになる小さな身体を、身体の下に腕を突っ込んで捕まえる。案の定、うつ伏せの形で受け止められたチビ助の頭は重力に従ってがくんと垂れた。下の方で怪物の残骸と一緒に、水の中に彼女の手からさっき滑り落ちた剣がぼしゃんと音を立てて消えていく。
「チビ、チビ。しっかりしろ!」
常ならば罵声と、さらには拳も飛んでくるかもしれないキーワードを混ぜて、片腕に収まっている小さな塊を少しだけゆすりながら声をかける。反応はまったくない。そもそも意識があれば受け止めた瞬間に、咄嗟に向こうもしがみつこうとするはずだ。彼らが一度既に経験したように。
嫌な予感、と言うよりは経験則だ。彼がここまで素早く対応できたのは、一度その姿を見ているからである。
笑い声が咳に変わり、そして。
――あの光景は目に焼き付いて離れない。元気な知り合いがいきなり血を吐いて倒れるというのは、結構くるものがある。というか軽くトラウマだ。
とりあえず、腹部に体重がかかるこの姿勢は負担が大きかろう。緑色の物体がぶすぶす煙を立てながら広がっていく水面に万が一にも落っこちないように注意しながら、氷の柱を降りていく。一番近くの足場に到達して、ええとあの時は確か、だから今しなくちゃいけないことはと必死に過去を思い出しながらそっと彼女を横たえた瞬間だった。
『主が下僕に命ずる』
凛とした声に咄嗟に顔を上げると同時に、おチビを庇うように手をかざし、片膝を立てて構える。視線の先には隣の足場――つまりは知らない間にぎょっとするほど近くに移動していて、自分の心臓に左手を、右手を宙に掲げてこちらをひたと見据える女性があった。
『我が意に応えよ』
言っていることはわからないが、やっていることの心当たりなら十分にある。呪文だ。ざわざわと首の後ろの辺りが逆立っている。
唱えているのはスフェリアーダ。チビ助の実の姉にして、伝説のシスコンの崇拝対象。
キルルは彼女がやや苦手だった。おそらく多くの人がそうであるように。
外見なら正しく女神、天使、そのように言ってもいいだろう。
だが、それは同時に――率直に言ってしまえば、あまり人間じみていない、どこか不気味な印象を抱かせる特徴でもあった。
浮世離れしていると言えばキルルの恋人のフィレッタもその部類にあたるのだろうが(何せ一時のあだ名が妖精姫、だったぐらいである)、フィレッタにある隙や温かみのようなものが、極端に薄い気がする。
というか、ない。あっても見せようとしない。ちらりと覗こうとでもしようものなら、あの目と笑顔が飛んでくるのだ。
深い深い、光のない黒の瞳。お手本のような、けれどまるで温度のない笑顔。
スフェリは怖い。……割と、怖い。
大事な事だから二回言った。なんかこう、つい反射的にハイかイエスを言ってしまいそうになる。
だってこの人の笑顔、どう考えても陛下と同じ種類の奴なんだよ! 笑顔と言う名の威圧なんだよ! 逆らったらどうなるかわかってるだろうな、ああん? って、陛下と違って絶対口にしないけど、やっぱり顔には書いてあるんだよ! 目は口以上に物を語るんだよ!
キルルシュタイナーの、同意を得られそうで意外に愚痴る相手の少ない本音である。
本人はあまり覚えていないが、一度本気で殺意を向けられたことも潜在意識で響いてますます思いを強固にしているのだろう。
しかしそんな彼女が唯一態度を軟化させる瞬間がある。
妹といる時のスフェリアーダは、時折ふっとため息を漏らすように、打ち解けた柔らかな雰囲気の飾らぬ笑顔に変わる。姉妹の仲の睦まじさは、誰だってわかるし知っていることである。
……であった、と表現した方が正しいのだろうか。何せ今現在、かつてない姉妹喧嘩の真っ最中らしいから。
詳しいことは誰も知らない。
が、今まで機会があれば自然と一緒にいた姉妹がことごとく別行動を取るようになり、妹の方に至っては干物の様になって、お姉さまが足りない、と虚ろに呟きながらひくひく手を伸ばして震えていたりしたのだから、まあ推して知るべし、である。
キルルは最近できた人脈上もうちょい詳しい経緯を聞いていたが、ともあれ。
ちなみに近衛騎士たちはその辺の汚点は大体見なかったことにしている。約一年で色々奇行に慣れた、と言うのもあるのだろう。仔馬は本人の好きなように跳ねさせておく分には無害だが、意外とあれで蹴りが鋭く強い。野生動物を舐めてかかると痛い目に遭う。大体もうみんな実感済だ。だから騎士の情けと言うよりかは、下手につついて踏まれたくない、と言う本音なのだろう。
あと女性陣は、フィレッタ曰くだが、おおむね仔馬に同情的らしい。主に姉の方の藪蛇が怖いので静観している者がおおむね、もう一部は修羅場をキャーキャー無責任に野次馬している。後半に関してはちょっと言っている意味が情緒のない駄犬には理解できなかったが。
こうやって周囲の反応を改めて並べてみると、随分お騒がせな姉妹である。
総合すると、とにかく今のスフェリアーダはアデルにとってもキルルにとってもあまり気を許していい相手ではない、それは確かな事なのだろう。
さっきまでちょっと緊急事態につき忘れていたが、彼らはしかも競走中だったのである。化け物は倒したが、迷宮探索のゴールはまだ終わっていない。
相手は余力を残していて、どう見ても何かしかけてくる気満々だ。おチビは無事かもしれないが、自分は何をされるかわからない。いや、おチビの方も今の彼女の態度ではどうなるか全く読めない。
緊張したキルルを冷ややかに見つめながら、スフェリアーダは静かに結んだ。
『――モナモリス。主は下僕の自由を認める。ここに契約を破棄する』
キルルには何が起きたかわからなかった。だが、驚くような声が上がったので咄嗟にそっちに目が行く。
そういえば、スフェリアーダと一緒にいた気がしないでもない地味な眼鏡をした文官が――ええと、確か見覚えがある。あれは書庫担当のガールシード卿――胸を押さえ、遠くからでもわかる驚きの表情でスフェリアーダを見つめていた。
が、彼女はそっちには大して興味を払っていないらしい。彼女の足場から、キルルのいるところまで音を立てながら氷の道ができる。
「どきなさい――そこをどいて!」
立ち上がってきりりとした顔で何かしようとしたキルルだったが、渡ってきた彼女に一喝されると情けなくしょんぼり小さくなって、ハイ、と言いながら気が付けば足場を降りている。悲しい訓練された犬のサガだった。




