3-9.あなたの思い通りになんか、させない 中編
窓から見上げた夜空は急速に星や月の光が隠れ、雲行きが怪しくなってきていました。昼は晴れていたけれど、これから降るのかな。遠くで雷も鳴っている気がする。……やだな。今夜、嵐なのか。
ぼんやりとした意識は、物音で浮上します。
私は室内に人が入ってきたのを感じると、窓から身を離してその人に向き直ります。
私の着ている服は上衣とズボンがお揃いの紺色。今ではだいぶ慣れたタイの感触が身を引きしめます。
音もなく部屋に入ってきた彼女は髪や瞳と同じ黒のネグリジェ。アクセサリーは首飾りだけ。その肩を覆うショールは……暗がりの中に浮かぶ緋色。
自分の顔から早くも血の気が引いていったのを感じます。
彼女は私が立ち尽くしているのにも特に――それともあえて、でしょうか――構わずランプを机に置いてから微笑みかけました。
「急に話がしたいなんて言うから驚いたわ。どうしたの?」
お姉さまはそれだけ言って、私の反応を待っています。私は少しの間他に何か言わないのか待っていましたが、椅子にも座らず机を挟んで彼女は私と向かい合ったままでした。
荒い呼吸を繰り返し、ぎゅっと襟元を掴んで、自分を奮い立たせてから、私はようやく声を出すことができました。
「こんな時間に、急にお呼び立てしてしまい、申し訳ございません。ですがお姉さま……どうしても、聞きたいことがあるのです」
ともすれば裏返ったり擦れたりしそうになる喉を励まして、私はついにその言葉を紡ぐ。
「あなたがガールシード卿に接触したのは本当ですか」
……沈黙。彼女は本当だ、とも嘘だ、とも言わない。肯定も否定もしない。
私を見つめる二つの黒曜石は、机の上のランプと、小部屋の隅にある最低限の室内灯の光を受けてきらきらと輝いています。そこからは何も読み取ることができませんでした。
彼女が喋らないので、私が言葉をぽつぽつと絞り出します。
「そりゃ、私は馬鹿で、変人で、言っていることがわけわからないとかおかしいとか、しょっちゅう言われます。そんな私が突拍子もなくいきなり、とある方々に気を付けてくださいと言っても――到底信じられることではない、のかも、しれません。そう言われても仕方ない――ええ、仕方ないとは、思っていた。でも、あなたはここに来て、私があの話をした時――信じると。確かに、私を信じるって言ったはずだった!」
私が堪え切れずに語気を荒げても、彼女は微動だにしません。肩が上下するのを、一度深呼吸して収める。私の額にはいつの間にかうっすらと汗が浮かんできていました。
「それは、嘘だったんですか……お姉さま」
きらきらと輝くお姉さまの目に窓からの鋭い光が走り、少し間をおいてガラゴロと大きな低音が響きます。私は瞬きもせずに、彼女を見つめていました。
「……くすっ」
静寂を破ったのは、愛らしい鈴が転がるような天使の漏らした声。
「くすくすくす……ふふふ、ふ――」
けれどその笑い声は、徐々に声質を変化させていく。甘味の中に不意に見つけた苦味が沁みていくように――あるいは、一枚一枚衣を脱ぎ捨てていくように。
彼女が私の前で変わっていく。
「ふふ、ふ――まさかこんなに早くわかってしまうなんて、わたくしも詰めが甘かったこと――!」
高笑いしながら舞い降りたのは、純白の羽を纏う天使。けれどその表情は、かつてないほどの凄みを放っていました。
二つの相反する気持ちが私の中で揺れている。
その表情を、私が向けられる日はこないと、過信していた。
だってこんかいのあなたは、おとなしくてやさしくて。
その表情を、いつか向けられる日が来ると知っていた。
なにをしても、けっきょくおなじ。
「そうよ、正解。わたくしね、ガールシード卿とお付き合いを始めることにしたの。それはそんなにいけないことかしら?」
胸を握る手を、片手から両手に増やす。こんなに押さえると胸が苦しい。だけど――そうでもしなければ、一瞬で屈してしまいそうで。気力のすべてを振り絞る気で立ち向かう。彼女に――それ以上に、自分に負けてしまわないように。
今の彼女は、前までの優しく甘やかしてくれるだけのお姉さまではないのだから。
「お忘れなのでしたら、もう一度言わせていただきます、お姉さま。国王リオスドレイク、近衛騎士キルルシュタイナー、書官長モナモリス、神官タルトレット、そして大賢者フラメリオ。この五名となるべく関わらないでください。なぜなら――」
「わたくしの命に関わるから。ええ、ここに初めて来たときもあなたはそう言ったわね」
「――だったら、どうして!」
「人の心は変わるわ。信じられなくなったから、馬鹿らしくなったから。そうは思えないの?」
握りしめた拳の内側がひょっとしたら爪で切れたかもしれません。ぶちんと音だけが耳に届きます。
お姉さまは不思議そうに微笑み、小首をかしげていましたが、私が唇を噛みしめて睨みつけているとすうっと目を細めます。
「……納得できないって顔ね。それじゃあ、答えてあげる。いい加減にね、あなたの子守りに飽き飽きしていたの。だから憂さ晴らしの火遊びよ」
「嘘だ、あなたがそんなことするはずない!」
「するわよ、ネンネさん。今まではあなたに見えないようにしていただけ。お子様には刺激が強いものね」
ちくり、と胸の奥が痛む。そこから全身に寒気が広がりそうになるのを懸命に抑えつけながら、私は彼女の言葉を聞きます。
「でももうわかってしまったのだから、隠す意味もないかしら」
「火遊びだと言うのなら――なぜモナモリスでなければいけなかったのですか」
「……好きになったからよ」
「嘘です。そんなの――何とも思ってなんかない癖に――だってあなたは、彼を脅迫して関係を結ばせたんだから!」
しれっと言われた言葉に私がかっとなると、お姉さまは一瞬だけ眉をひそめてからまた不気味な笑顔に戻り、おどけるように肩を竦めます。
「あら、そうよ。嘘、嘘、全部嘘。わたくしは誰よりも嘘つき。いまさら気が付いたの? あなたったら本当にお馬鹿さんね」
「キルル先輩の時、怖い目に遭ったことを忘れたんですか――」
私はなおも言い募りかけて、不意に気が付きます。
モナモリスから彼女の事を聞いたときから、今この瞬間に至るまでずっと疑問に思っていたことに、ふと答えが落ちてきた、そんなヒヤッとした感覚。
――違う。逆だ。
「私のため、ですか? 私のせいなんですか?」
震える声に対する応答は、再び目を細めただけ。絶望的な確信がじわじわと落ちてきます。
「キルル先輩の時。何もしなかったからとペナルティが科せられた。だったら、私たちのどちらかが対象に接触していれば強制イベントは起こらない――そう言う事、なんですか?」
「……自惚れるのもいい加減にしたら。わたくしはただ、したいことをしているだけ」
崩れていきそうになる身体に喘ぐように吸った息で活を入れて、私はもはや叫ぶように彼女に訴えかけます。
「もう、やめて! やめてくださいよ、こんな……こんなことしても皆が不幸になるだけ。私より賢いあなたが、どうしてそんな簡単な事に気が付かないふりをするんですか! 私は納得できません。こんな歪な関係をあなたが続けようとするなんて、絶対に嫌だ!」
……せっかくの勝負服、一張羅なのに、握りしめた拳からどす黒い染みが広がっていく。
痛いのは、手だけじゃない。胸の奥が、何よりもじくじくと鼓動のたびに主張する。
「それに何よりも、ねえ、どうして――どうして私に本当の事を言ってくれないんです。言おうともしてくれないんです。私は、お姉さまが――」
「本当の事? 本当の事、ですって?」
私ははっと目を見開いて――思わず言葉を失いました。
大好きな黒い瞳が冷たく輝くところは、今までに何度か見たことがある。さっきまでだって、それに近い眼差しで見据えられていた。
けれど、そんなあなたは見たことがない――見たくなんかなかった。
あまりに虚ろなそのまなざし。まるで二つのくぼみが顔に空いている、そんな風に見えてしまうほどの、圧倒的、虚無――。
「わたくしの愚かな妹。ねえ、本当に本当が知りたいの? 違うわよね。あなたが知りたいのは、『あなたにとって都合のいい』本当。そうでしょう? だったらわたくしの語るべきことなんて、何もないの。……何も、ないの」
「違う! 私は、あなたが――私、は」
歌うように虚ろに紡がれるその言葉に、さっきからひっきりなしに鳴り響いている警鐘が一際大きくなる。
彼女を止めなくちゃいけない。行かせてはいけない。それはわかっている、けれど、言おうと思っていたことが、かけようと思っていた言葉が、さらさらと流れて彼女の虚ろな穴の中に飲み込まれていく――。
「ねえ、アデラリード。約束を覚えている?」
唐突なお姉さまのその声は小さすぎて、ひょっとしたら聞き逃してしまうほどのものでした。
「……はい?」
聞き届けても、私には咄嗟に答えられなかった。
約束? 約束って、なんだろう。どの約束? いつした? 私が、彼女と?
――けれど、その一瞬は、取り返しのつかない溝を産む。
「――そう。そうよね。ええ、いいの。あなたは忘れていい。……わたくしだけが覚えていればいいわ」
「お姉さま」
音が聞こえる。それは、彼女の扉が閉じてしまう音。私の身体が冷たくなっていく音。
――今、絶対に答えなければいけなかった、のに。
「真実を知ったところでどうにもならないわよ。お前にわたくしは救えない」
お姉さまは笑う――虚ろに寂しげに見える微笑みで、私に宣告する。
「――だってあなたはアデラリードですもの」
私は彼女に返す言葉を見つけられない。言葉の意味だってわからないし、どう返せば彼女が戻ってきてくれるのかわからない。
それでも、どうにかして引き止めなくちゃいけないのに。
「でもね。それゆえに……わたくしはいつだってお前を赦し、愛さずにはいられないのよ」
口を開いても何も出てこない。空っぽの彼女に、空っぽの私。
間抜けな顔で突っ立っているだけの私の前に、いつの間にかお姉さまが帰ってきていました。他人を拒絶する美しい瞳をきらめかせながら、すべてを跳ね返すように笑顔で武装したお姉さまが。その姿からはもう、虚ろな気配は感じられない。完璧な仮面の下に、覆い隠されてしまっているから。
身を引いていく彼女に咄嗟に伸ばした手がなんと力なく、その距離がなんと遠い事か。
「おわかれよ、アデラリード。姉妹ごっこはもうおしまい。わたくしはわたくし、あなたはあなたの好きに。……所詮、他人ですもの。それが正しいあり方だわ。もう、お互いに関わらないようにしましょう」
「――私、そんなこと望んでない」
「そう。でも、仕方ないことね。主義主張が違うんだもの」
彼女は迷いなく出て行く。一度だけ、扉を出る前に振り返って。
「あなたのお姉さまから、最後の忠告よ。今までのわたくしのことは忘れなさい。これからのわたくしとお前は他人。わたくしの好きの邪魔をするなら――相応の覚悟はしなさい」
一度だけ、大好きな本当の微笑みを浮かべてくれる。
「元気でね、アディ」
一つ、扉の閉まる音。痛い静寂。
――窓から雷の光が入ってきてようやく、私は私を取り戻しました。
「待って、待って、お姉さま! まだ話は終わってません――終わらせないで!」
外はいつの間にか、雷雨。私の声は再びの雷鳴にかき消される。
でも、わかってる。それは関係ない。もう、呼び止めるのは遅すぎる。
「行かないで、行っちゃやだ! 嫌だ、嫌だあっ――」
瞼を閉じればいつでも微笑んでいた女神の姿がぼやけて遠ざかっていく。
代わりに、どこまでも虚ろな目の、彼女が。
死んでしまった彼女の、目が。
「お姉さまああああ!」
机の上のランプのか細い火は、ゆらりと揺れて――消えた。




