2-08.決着の時です 後編
本日二度目の更新です。
前編、中編からお読みください。
「向き合うってそんな、どうやって――」
先輩が私の言葉を吟味し、そして未だ戸惑いの気配を色濃く漂わせている中――私はとっくに効力を失った首飾りを外して――あっ髪に引っ掛かった、いたた――ってモタモタしてたらさりげなくディガンが手伝ってくれました。くっ、やりおる。
そんなこんなで地味なアクシデントはあったものの、私はしゃらしゃらと鳴る飾りの中でひときわ大きな銀色の塊を差し出します。先輩は私の意図に最初は気が付いていませんでしたが、小さな鏡に映し出された自分と目が合うと――それまでの無気力で倦怠感溢れる風情から一転、目を剥いてのけぞり、悲痛な吠え声を上げました。
「嫌だ、やめろ――見たくない、それをこっちに向けるなあっ!」
巨体が当たったせいかミシミシと近くの木が鳴り、ディガンが庇うようにさっと私の前に立とうとしました。
「ありがとう……大丈夫。私に任せて下さい」
私はディガンに小さく一声かけてから、しっかりと掌大の鏡をかざし、狼に迫ります。パラパラと上から小枝が降ってくるので、目に入らないように少し払って避ける必要がありました。暴れる彼に間違って流れ弾を当てられないよう、目を凝らして間合いを見定めながらも、逃げていこうと一歩一歩下がる彼に合わせ、私も着実に足を踏み出します。
「望まなくても、大嫌いでも。これがあなたです――あなたなんです。そのことから逃げてはいけない。背を向けた瞬間から、魔性は侵食を開始する。この場における何よりも大きいあなたの過ちは、あなた自身とちゃんと向き合ってこなかったことです。だから暴走が起きた。たとえ私が大魔術の使い手で今ここであなたの獣性を無理矢理抑えこんでも、あなた自身で問題を解決しなければ必ず再び暴走は起きる」
確かに今回の強制イベントはさすがに相当無理のある発生の仕方でしたが、キルル先輩には元からいつこのイベントが起きてもおかしくない条件がそろっていたのです。今の彼は、まるで表面張力限界まで注いだグラスのように、ほんの些細な刺激一つで人間の側から魔獣の側に行ってしまう危うさを持っている。
元のイベントでは、とりあえず恋人パワーでやや強引に引き戻してから、そのあたりの根本的解決はこれから二人で向き合っていこう――って流れでエンディングに至るわけです。けれどそっちのルートは先程失敗してしまいました。まあフィレッタ本人が心を込めて言うならともかく、冷めた心の私が言ってもそりゃあ効果は薄目だぜって話ですね。
だったら、恋の不思議パワーとやらが通用しないのなら。私の前世と現世、双方の知識を動員して得られた、彼を人間に戻す方法は一つ。
自力で自分自身と向き合って、そして勝ってもらうしか、ない!
けれどそれはキルル先輩にはとてつもない苦行のようでした。今や泡まで吹きながら血走った目で狼が吠えます。
「もういい、もうたくさんだ。だから、終わらせてくれって言ってるんだ――」
「そうやっていつまで逃げているんです、キルルシュタイナー!」
私の轟くような腹からの全力の低音に、びくっと狼が身を震わせました。怯えた目で小さな鏡の中の自分をちらちらと窺う様子を見つめながら、私はぎゅっと唇を噛みしめ、ゆっくりと厳しく言葉を紡ぎます。
「これがあなたの本性。けれどあなたは自分でそれを口にしながら、心の底ではそれを拒絶している――ほら、そうやって、直視しようとすらしない! 獣だ獣だと口では言っておきながら、本当はそうではないと思っている。――その矛盾こそ、暴走の原因なんです」
嫌々、とでもいいたげに狼が唸りながら首を振る。それに何かを思わないわけではない。私だって絶対に嫌だ。……大嫌いな自分を、いきなり突きつけられたりしたら。
それでも私がこうしなければいけない。彼は向き合わなければいけない。
歯軋りの音が鳴りそうなほど強く、奥歯を合わせる顎が痛い。私も先輩も般若の顔立ちになっていることでしょう。
「あるがままの自分をちゃんと受け止めれば――あなたの魔性はあなた自身を超えることはない。あなたに従い、あなたの影となる。逃げないで下さい、先輩。これがあなたです。紛れもないあなたなんです。ちゃんと見てください」
先輩の顔が悲痛そうに歪みます――私はそっと、その瞳から何かが零れ落ちそうになっていくのを見据えながら、今度は少し雰囲気をゆるめ、優しく聞こえるように声音を変えます。
「でも私は知っている。逞しくて、かっこよくて、優しい人間のあなた。ヘタレでどうしようもなく天然で救いようがないほど愚かなあなた。お人好しで人懐っこくて、いい先輩で、ちょっと頼りない後輩で、家族に甘くて、友人に親切で、恋人に夢中なあなた……それすらも、あなたのもの。先輩――そちらも紛れもない本物のあなた自身なんです。獣の自分と一緒に、人間の自分まで否定しなくていいんですよ」
彼の目が大きく見開かれ、その身体が一際大きく震えました。狼の姿でもわかるほどに彼は青ざめ――喉から絞り出したような嗄れた声を上げる。
「――違う。俺は嘘つきだ。俺は、人間じゃない――人間じゃないんだ――でも、狼にもなりたくない――もう嫌だ――やめてくれよぉ――」
私は目に入りそうになった汗を拭い、深く息を吸い込みました。
ようやく本音が出てきましたか。大嫌いな自分を認めることもできなければ、上っ面の顔を本物と思い込むこともできない。それが今の獣にも人にもなれない、あなたの真実。あなたが制御できない獣になってしまう本当の理由。
――だから、私は。
「その言葉を私は否定します。あなたは人間でもあり、狼でもある。どちらでもないんじゃない――どちらでもあるんです」
あなたが否定するあなたを、肯定する。そのまま生きていいのだと!
雷に打たれたようになって動かない先輩の前にそっと首飾りを下ろすと、視線だけがゆっくりと小さな鏡を追います。彼は食い入るように、その中の自分を見つめています。
「どうぞ結論が出るまでゆっくりお考えください。諦めて死ぬのか、それとも二つの自分を受け入れて生きるのか。どちらにせよ――私はあなたの選択を尊重します」
……最後の最後で彼に選択権を譲った私は狡いのでしょうか。
でも、彼の問題ならやはり、彼が決めるべきです。そうではありませんか?
時間が過ぎるのがとても長く感じられる。何度私は呼吸したでしょう。何度心臓が鳴ったことでしょう。
汗が数度、こめかみを冷やして落ちていく。
永遠にも感じられた数分間の後、ポツリと消え入りそうな声を私の耳が拾います。
「……どう見える、アデル。率直に言ってくれ。今の俺はどう見える」
私は少し考えてから言い切りました。
「でかいワンコですね」
キルル先輩も少しの間の後、もう一度質問をしてきました。
「それじゃ――人間の姿の俺は、どう見えていた?」
今度はすぐに私は言葉を返します。
「近衛騎士、孤高の銀牙キルルシュタイナーってところでしょうか。一見するとカッコいい花形騎士ですが、実態は残念ヘタレです」
「おい――」
先輩は言いかけて一度止まりますが――その声も態度も口調も、少し前までのはりつめた切れそうな糸のようなそれから、どこかもっと柔らかな雰囲気に思えます。
彼は呟くように、そっと口を開いて。
「それでも、いいのか? アデル――魔獣でありながら騎士だなんて、本当にどっちも本当で――両立すると思うか?」
私に真っ直ぐ問いかけます。――くしゃっと自分の顔が歪む感覚が伝わってきました。
「残念ながらその程度の矛盾でしたら、余裕で許容範囲内ですね。もっと混沌とした奴らが私の知り合いにいるもので」
ほうっと大きく吐かれた息は誰のものだったのでしょう。ざわりと森に一陣の風が吹いて、明るいつきの光がそれを見上げた狼の姿を銀色に照らします。
「……完全に受け入れられたわけじゃない。まだ、納得できてない部分はある。だけど、狼の姿の俺も人間の姿の俺も――本物なのかもしれなくて――。そう思えたら――少しだけ、楽になれた気がする」
「それでいいんですよ。最初はかもしれないくらいでちょうどいいんです。……強く否定する必要はない。そう感じられるのなら、あなたはたとえ姿が人間になろうが狼になろうが、あなたのままでいられる。暴れる必要は、ないんですから」
私が言い終え、先輩が僅かに、けれどもしっかりと頷くのと同時に、ゆらっと月が揺れて――冗談みたいな満月と巨体の狼が消え、代わりにすっかり暗くなった夜空には普通の三日月が――そして、森の中には一人の銀髪の青年が立っていました。
私は一瞬迷ってから、笑って片手を差し出します。
「お帰りなさい、キルル先輩」
銀髪は月光に煌めき、ピンクの瞳もなぜかキラッと暗い光の中でも輝きを発しているのです。
「……ただいま」
けれど私たちが静かに歩み寄って握手をした段階で、なぜか横から咳払いが聞こえます。
「どうぞ。そのままでは不自由でしょう」
憮然としたディガンが先輩に向かって差し出したのは彼の上着で――ああ、そういえば狼になったとき、服が千切れとんでいた光景を見たような。
我々は状況を把握すると、先輩はディガンから服を引ったくってから、私は直ちにくるっと後ろを振り向きます。
「暗いのでなにも見えませんでした!」
「そういうことにしておいてくれ!」
背中を向けあったまま叫びあうと――無性に笑いが込み上げてきました。私が堪えきれなくなって噴き出すと、やがて向こうからも笑い声が聞こえてきます。笑って笑って、咳き込んで――。
ごぼっ。最初は何が起こったのかわかりませんでした。嫌な咳だなと口元を押さえた掌を何気なく見ると――そこには赤が広がっていました。
あれ、おかしいな。なんでだろ、咳が止まらない。溢れる赤も止まらない。
痛い。
喉が。その奥の奥の、体の奥が。
痛い。
ああ、背中が痛くて痛くて、堪らない――。
最後に聞こえたのは誰かの叫び声に、ぶちぶちと切れる肌の音。
崩れるように倒れこんだ身体よりもずっと深い下の方に、意識が落ちていくような気がしました――。




