2-05.お願い、力を貸して
しばらく森はざわざわと木々が風に揺れる音だけに支配されていました。
状態を確認してから、私はディガンを見て何度か口を開こうとしますが――えっと、どこから話せばいいんですかね、この場合。
「アデラリード、様?」
沈黙を先に破ったのはディガンの方でした。私を見て一瞬表情を緩め、周りを見て困惑するような顔をして、再び私を見た時には何とも形容しがたい顔になっていました。……うん、なんとなくだけど気持ちはわかる。むしろすごい落ち着いてる方だと思う、彼。
「これは一体――」
彼が言葉を続けようとした瞬間、森の中に獣の咆哮が響き渡ります。私がはっとするのと同時に、ディガンがさっと私の前に庇うように立って辺りを見回しました。というか、引っ張って彼と木の間に押し込まれたって言うか。広い背中が私の前に広がります。
……な、なんだこれ。いやいやいや、別にそんな、ど、動揺なんて? してないですよよよ。そんな暇ないからねアディさん、えーっとそうそう、話を、とにかく話をしよう――。
「ディガン、森に獣化した人狼が」
彼は一度夜空に浮かぶ冗談みたいな満月を見上げてから、私に渋い顔で頷きます。ワンコの吠え声が再び聞こえました。……けして遠くはないけど、さっきまでみたいな接近戦をかませる距離でもないな。そっと探知魔術を作動させてチェックすると、彼は私達のいるあたりを中心に、森の中を大きな輪を描くようにぐるぐる回っているようでした。……近づいてこない?
ひょっとして迂闊に攻撃してこないのは、さっきの光を――閃光手榴弾を警戒しているのか。最初は食らっても食らっても怒り狂って突撃してくるから、あまり効いてないものだと思ってたのだけど。時間差でだんだん怖くなってきたとか、ちょっと冷静になってきたらヤバいもんだって気が付いたとか? 何にせよ、今のうちがチャンスであることには違いない。ディガンに話をしないと。
私は再び頭をフル回転させながら口を開きます。
「聞いて、ディガン。ここは閉鎖空間で、彼からは逃げられないんです。脱出するには彼を倒さなければいけない」
「……彼?」
振り返ったディガンが私の言葉に不審そうに眉を顰めますが、それどころではないので急いで話します。
「あなたを巻き込むつもりはなかった。でも、こうなってしまった以上、私は――いいえ、私たちはあの狼を止める必要があります」
聡い彼は私の言葉のニュアンスをすぐに正確に察したらしく、少しだけ表情を硬くしていました。
「止めるとは? それはあなたがあの獣を――先ほど走り去っていく後ろ姿が見えましたが、あれを彼と呼んだことと関わっているのですか。人狼が獣化したとか、仰っていましたが」
「あのさっきから吠えてる人、本物の魔獣じゃないんです。キルル先輩なんです。ああ、じゃなくて――あの狼、ディザーリオ卿なの。今は暴走しているだけで――」
やはり賢い彼は、驚いたように眉を上げてから、さっと――いつもの憂いを含んだ伏し目になります。
「アデラリード様、差し出がましいことを申し上げますが――魔に飲まれ、人の則を越えて人外になった者を戻す方法は存在しません。あり得るとしたら、それはもはや禁術の類です。人の身で手を出していい代物ではない。……先ほどのあれがディザーリオ卿のなれの果てなのだとしたら――彼はもはや、人とは呼べない物になっている」
私は控えめながらしっかりこちらに向けられた言葉に、ぎゅ、と唇を噛みました。
ディガンはお姉さまと全く同じことを言う。
けれどそれは私達にとっての常識であり、賢者である師匠からも――そして一度でも魔に携わったことのあるものなら、だれしもが繰り返すフレーズでした。
私が生まれ変わったこの世界には魔法や魔術の概念が存在します。ですがそれは一般に忌み嫌われ、秘すべきものと認識されているものでもあるのです。
なぜならば――魔は奇跡を、ありえないことを起こす力。本来あってはいけない法則を、通常の法則をゆがめて起こす邪法。その歪みは、邪法を用いた者に巡り巡って還ってくる。
かみ砕いてわかりやすく言うなら、魔法や魔術に長けていれば長けているほど、私たちは人間でいられなくなるってことです。理性や常識、人間としての感性を失うって感じでしょうか。今のキルル先輩の様にわかりやすく獣のように――まあキルル先輩の場合、ようにってか、もはや獣そのものですけど――なったり、師匠のように一見すると普通の人と大差ないのに、致命的なところでネジがぶっ飛んでたりとか――いや、師匠は一見してもおかしいか。あれ、なんで例示がすごい極端な奴ばっかなんだろう。ま、まあいいや。
一度そのラインを越えたら、もう二度とは人に戻れない。ゆえに、大抵の魔の素養を持つ人間は主に自分の中の魔性を制御する、そのことだけを学んだらそれ以上の領域には下手に手を出しませんし、出させません。賢者とか王家とか教会とか、そういった限られた人たちだけが、魔法にそれ以上携わることを許されているのです。……お姉さまとか私とか、例外ばっかり出ているのでそのあたり説得力薄いかもしれませんが。
私もいつかは――だからそのまま力を求める道を選ぶのか、力を捨ててでも人間であることを選ぶのか。求められる時が、来る。
ふとそこで思いました。先輩はどうだったんだろ。
魔法使いに頭のおかしくない奴はいない。
何度か本人がそう公言してますし、あいつの調子からしてもうすでにいくつかの線は越えているのでしょう。けれど、原作の王とは違う彼は――一体どこまで行ったのだろう。足を止めたのだろうか。それとも突っ走ったのだろうか。……そのことについて何を考えたのか。
ゆるゆるとそのあたりのことを思ってから、それでも私は首を振り、いつの間にかひたりとこちらを見据えるディガンを見つめ返しました。
「でも、まだ遅くないかもしれない。彼は人間に戻ることができる。まだ人を食べていない今だったら、人間の則を越えていない今だったら――人の姿を取り戻させれば、あるいは」
私は途中で言葉を区切り、唾を飲み込んで乾いた唇を舐めます。ディガンはじっと、瞬きもせずに私を見ています。あの曇り空の瞳で、じっと。
「もちろん、失敗したら私は――覚悟を決めて彼を殺さなければいけない。私が彼に殺されれば、彼は獣のまま世に解き放たれてしまうから。ただ、その前に――試したいんです。私の作戦で、彼を人間に戻せないかと。私がそれを、しなくちゃいけないんだ」
後半は喉が潤ってないせいでしょうか、ちょっと擦れた声音になってしまいました。ディガンは私が黙って一度目をそらすと、同時にふっと目を伏せたようでした。
「私はあなたとスフェリアーダ様に忠誠を誓いました。私の命はお二人の物。ご命令とあれば、いかなることにも従いましょう」
私が喉まで出かかった突っ込みをぐっと抑えてじゃあ、と言いかけると、彼は目を伏せたまま続けます。
「ただし、御身に危険が迫る場合は、私はあなたに背いてでも、この命を削ってでも、お守りすることを優先いたします。――それだけは譲れません、アデラリード様。そしてそのことに、あなたが何かを感じる必要はない。私はもともと死んでいる人間です。8年前の、あの時に」
それは前に私が彼に言い放った言葉への返事だったのかもしれません。
気のせいでしょうか、彼の静かな曇り空が――今はまるで、燃えているよう。くすぶる炎を覆う灰に似た――けれどそんな錯覚はすぐに消えて、いつも通りの伏し目が戻ってきました。
「ですから――あなたを見捨てろ、とのご命令でなければ――私はあなたに従います。けして嘘もつきませんし、裏切りません」
「偽名は嘘には入らないんですか?」
ふと思いついたことは、内容を吟味する前に口からするりと出ていました。はっとディガンは目を上げて、それからみるみるうちに蒼白になってしまいます。いかんいかん、これじゃこの間の喧嘩別れの二の舞に――いや別に、喧嘩したとかそういうわけじゃなくてなんかその微妙な主義主張の違いがあったというか――って、言い訳してる場合ですか私は。
「いじわるが過ぎましたね、冗談ですよ。誰にだって語れない、語りたくないことの一つや二つ、ありますものね。……話さなくていいんです。あなたが話したくないことなら、私だって聞きたくなんかない」
私は一度深く息を吸って、ゆっくり吐き出しました。
……大丈夫、キルル先輩はまだ近づいてこないでこちらの出方を窺っている。話す時間はある。それに――今は彼と話しておかなければいけない気がする。
「全然負い目に感じることじゃありませんよ。私だって誰にも言っていない秘密を持ってますから。私ね、お姉さまにだって、本当の名前は教えていないんですよ」
「……ご冗談でしょう?」
ディガンの戸惑うような声に、にこり、と笑顔だけ返します。
「ねえディガン。私はあなたのことを知らない。でもきっと同じくらい、あなたも私のことを知らない。だけどそんなことは、今はどうだっていいことです。生きていればそのうちわかることなのかもしれませんし」
そう――生きていれば、時間はある。今は生き抜くことが、このゲームを乗り切ることが大事なわけで。
私は彼に手を差し出します。
「まだやりたいこと、やり残したことがあるんです。死にたくないし、できれば死なせたくだってない。……お願い、それにはあなたの協力が必要なんです。力を貸して、ディガン」
彼は少しだけ困ったように私の手と顔に視線を彷徨わせていましたが――やがて、そっと手を重ねてきました。こつっと指と指が触れた後、緊張があってから――一度離れた手と手が重なり、ディガンはしっかりと私の手を包んでくれました。彼の手は大きくて硬くて、ほんのりと指先が冷えて冷たく感じます。
ディガンは手を重ねたまま、そっと聞いてきます。
「私は何をすれば?」
「キルル先輩――狼は、左前脚に人間だった時につけていたお守りをまだ残しているんです。その力を増幅させます。さっきからやろうとしているんですが、うまく当たらなくて」
「……それだけでよろしいのですか?」
少し意外そうな声に私は頷きます。
意外と言えば、私も微妙に不思議に思っていることがあるんですけど。彼、私が普通に魔術使ってることに突っ込みいれきませんね。……あれか、表情から推測するに、非常事態につき見逃してるけど終わったらしっかりお説教コースってところかな。ともあれ。
「仮説が正しければ、それだけで彼は正気を取り戻します。ただ、そこから先は――説得しなければ、いけないんですけど」
「説得ですか?」
「説得……です。失敗したら、彼は超級の魔獣。心臓を抉り出して燃やさなければ死にません。……もしも失敗したら、そうします」
私は自分の視線が大きく揺れるのを感じました。原作ではフラグを立てたアデラリード本人が行う説得。はたして、キルル先輩にとってただの後輩である私がしたところで効果があるのだろうか。天使の羽を、ヒロインの資格すら持っていない私が。
その時、私は思わぬ感触に目を開けました。ディガンが私の手を――ぎゅっとしっかり、握りしめてきたのです。
「左前脚、ですね」
大丈夫、とでもいうように彼は微笑みます。私の不安を悟って、励ましてくれるように。……そう、さっきまでと違う。一人じゃない。
私が頷いてそっと目を閉じた瞬間――残り一つの魔石の光が消えました。それを合図にするかのように、私たちの手は離れ、ディガンがそっと言います。
「私が囮になって、引きつけます」
――ええ、あなたならそう言うと思った。私は考えながら唾を飲み、唇を一舐めしました。
どうか今彼にかけた魔法が、うまく行きますように。




