2-04.これを混沌と呼ばずして何を混沌とするのか
右手を狼の左前脚に狙いを定め、私は叫びます。
「リベロ!」
狼の脚にそうして全力の魔術を放つ――ダメだ、よりによって不発! 手の中から飛び出しそうになった淡い光は、飛んでいくことなくそのまましゅるしゅると情けない音を立てながら消えてしまいます。それが終わると、迫るのは鋭い牙と爪!
私はなんとか攻撃が身体に届く直前、空に身を投げ出します。この体勢と向きでは――やむを得ない、地面へ! 一瞬の判断の後には、頭上でバキバキと枝が食い破られ千切られる音が聞こえてきます。たたきつけられた身体は、点でなく面を当てること、また転がることによって衝撃を逃がしますが、木の根に運悪く当たった肘がじいんと痛みを訴えます。でもそんなことに構ってる暇はない、一番嫌な展開が近づいてる!
転がりながらなるべく元の位置を離れ、起き上がっても走り、そして前方に飛びます――ドウン! 重たい物が地面を揺らす音と、獣の気配――木の上で対峙していた時よりもずっと近い! 耳の後ろの辺りがぞわぞわと逆立つのを感じつつ、私は動くのをやめません。止まったら死ぬ――冗談じゃなく!
上から飛びかかられる、もしくは押し潰されることはなんとか回避できたけど、初弾を失敗した上に地面に落とされた。なんて幸い先の悪い――弱気になるな、私!
私は頭上に一瞬感じた影に頭を低く下げ――どうやら薙ぎ払うように突き出された前足が、私の頭を捕らえきれずにそのまま真横の木に突っ込んだらしく、ワンコの声と木の悲鳴のような音が聞こえます。確認してる余裕なんてないけど!――そのまま転がって咄嗟に近くの木の影に回り込み、左手に握りしめ続けていたそれのピンを口で引っ張って開け、気配の方向に投げて耳を覆って叫びます。
「バースト!」
爆発音。そして獣の声。
でも、さっきのような断末の悲鳴じゃない。あの苛立っているような調子からして、二度目は避けられたか。三度目はひょっとしたら完全に効かないかも――。
いや、そんなことより。私は勇気を振り絞って太く大きな木から飛び出し、その場で唸りながら足踏みを繰り返す先輩の脚に引っかかっている腕飾りに――よかった、狼は暴れているけど一時的にこちらを見失っている。直撃をしなくてもやっぱりそれなりに効果はある!――両手を突き出し、再び呪文を唱え、放ちます。
続けざまに一発、二発、三発――不発弾も込めて、私は七発程度狼に向かって呪文を唱え手から魔術を打ち込みます。ああでも、相手がやたらめったら走り回ったり暴れているせいで、狙ったかのように腕輪にだけ当たらない。やはり、なんとかして動きを止めないとダメか。いやそれよりも、さっきのように飛びかかってくる瞬間を狙うか。でもまた不発だったらどうする――ええいっ、だから弱気になるな、そうしたらまた打てばいいでしょ――。
私が考え続けている間にも、もちろん相手は止まってくれません。ぶわっと何かが迫ってくるのを感じました。条件反射で身体は避けます。が、一撃目を飛んで避けた後、続けざまの二撃目をかわそうとして――ガッ、と嫌な音がして木の枝に足が引っかかったのを感じます。上体がぐらっと傾き、重心が大幅にずれる――。
あ、いけない、と私が思ったのと、衝撃がきたのが同時。ザッと音がして感触がしたのがその直後。身体はまるでボールの様に前方に投げ飛ばされ、放物線を描いてやがて地面に落ちる。
それからもう少し遅れて、背中が燃えるかと思うと――痛い痛い痛いっ! 私は訳のわからない叫び声を上げながら、無様に身体を丸めることになりました。
負傷したのはたぶん背中。呼吸がうまくできない。地面に突っ伏した顔が濡れる――。
泣くな、この程度のかすり傷!
私は何とか恐慌に飲み込まれかける自分を叱咤し、歪む涙に歯を食いしばります。目を閉じて、震えながらなんとかポケットを漁って丸薬を探り出し、根性だけで飲み込む。途端に背中から何かがこぼれていくような感触はなくなり、後にはひりひりとした感覚だけが残されました。ほっと一息ついて――でもやっぱり、ゆっくりはしていられない。懸命に霞みそうになる視界を取り戻し、状況を確認します。
少し離れたところでまだ大きな生き物が暴れているようでした。ワンコはこっちを見つけて攻撃してきたのではなく、振り回していた爪にたまたま私が引っかかった状態だったらしいです。素早い追撃がなかったことが幸いしました。
でもそう思っていられたのはほんの瞬き数度の間。ピクッと鼻が動いたかと思うと、未だ完全に視力を取り戻していないはずの狼の焦点がピッタリこっちに――そうかしまった、出血! 肉食獣は血の臭いに惹きつけれる!
私は何とか起き上がって、近くの木の陰に飛び込みます。――ドウン! 盾にした木にワンコが突進したらしく、衝撃が伝わってきました。なんとかまた登りたいところだけど、登っている間にかかってこられたら対処できない。次々と木々を盾にして逃げながら、私は隙を見て反撃しようとしますが、逃げながらこちらの攻撃をピンポイントに当てるのはますます難しいことでした。
そこで思い切って木から飛び出して狙おうとしたところを、もう一度鋭い爪が襲ってきます。それでも、一度目にやったように、あえてむかってきたところを狙う――今度ワンコが突きだしてきたのは右手の方、それじゃ左手には届かない! 飛んで避けた瞬間、私の左足に鈍い衝撃が走ります。顔を顰めながら、転がって素早く確認し――ダメだ、起き上がって体重をかけようとしたらがくんときた。このままだと満足に戦えない。丸薬を消費するしかない――これであっという間に二粒目。――残り、一粒。
そしてまた木の陰に逃げる。荒く息を吐きながら背中を木に押し当てると、びいん、とさっきの名残が身体に染みます。
――嫌な流れだ。確実に、こっちの打てる手が減っていっている。私はつうっと服の下を汗が流れていくのを感じつつ、歯ぎしりします。
先輩の左腕に唯一人間だった時の名残を示すように絡みついているあの腕輪。それに私の魔術を当てるだけなのに――こんなにうまくいかないなんて。最初のタイミングで不発だったのが何よりも痛かった。たぶん、あそこで思った以上に動揺したんだ。うまくいかないんじゃないかってイメージが付いてしまった。魔は人のイメージに強く、ダイレクトに依存する。揺らげば揺らぐほど、魔術の失敗率は上がる。
これがダメなんだ、この流れ。しっかりしろ、アディ! 落ち着いて、大丈夫だから。
首飾りをちらっと見下ろすと――最初につけた時には頼もしく輝いていた六つの宝石の輝きが、いつの間にか四つに減っていました。傷をすぐに治す丸薬もあと一つ。閃光手榴弾(強化版)もあと一つ。他にあと手持ちで残っているのは、あれと、それ……。
しんしんと湧き上がってくる不安を打消しながら、なんとか突破口を探っていた私に、どこから回り込んできたのやら、現れた狼が正面から飛びかかってきました。避けようとして――間に合わない! 私は咄嗟に、ポケットを握りながら叫びます。
「レモラ!」
ポケット内部の正八面体の塊は私の叫びに応じて起動し、速やかに魔術式を展開――そして、迫った狼の牙を弾く!
狼は吠え声を上げながら、何度も私と彼の間に築かれた見えない壁に飛びかかってきます。くそっ、本当に追い詰められた奥の手にと思ってたのに、ここで略式結界術を使ってしまうなんて。こうなったら、ここで決めるしかない。
「リベロ!」
壁越しに呪文を唱える。当たらない。爪や牙のような鋭い部分が当たるたびに、壁に固い音が走ります。
「リベロ!」
今度は当たったかと思ったら不発――また!? 焦燥と怒りで真っ赤になりかける頭は巨体が突進してきたことで一気に冷めます。迫る銀の塊に心臓が縮みかけましたが、それにもなんとか壁は耐えてくれました。
「リベロ――」
ああいけない。気をしっかり持たなきゃいけないとわかっているのに、声が震える、うまく舌が動かない。ぐわん、と狼の頭突きに一度大きく壁がたわみ、ポケットの中の石の光が弱まりかけます。私が慌ててもう一度呪文を唱えた瞬間、ふっと首元の宝石の光が消えるのを感じました。――残り、三つの光。
口を開けてももう声が出てこない。急にすべてが遠くなって、私は呆然と立ち尽くします。狼の攻撃も、それと私を隔てる壁も、景色も音も遠くなって、意識が闇に包まれる。
――嘘。まさか本当に、こんなところで終わるの? 冗談じゃないんですけど。まだ、現世に未練たっぷりなんですけど。お姉さまのリアルスチルも全然集めきれてないんですけど。脳内保存だったら枚数無限ですからね。
でも、このままじゃダメだ。良くないと思ってた消耗戦になってしまっている。決定打が、何かが足りない。どうしてここぞってタイミングでばかり不発なの。数うちゃ当たる戦法で連発してるから? それとも何、フラグ不足なんですか? 私じゃダメなんですか?
一気にやってきた想いは私を苛み、責め立てます。ずっとかけ続けていた自分への声援が遠くなり、弱虫が顔を出す。この戦いの最初に、言うもんかと決めていた言葉が私の心を覆う。
だって、一人じゃ――私一人じゃこんなの、無理に決まってるじゃない!
じわ、と溢れる気持ちは、わずかにですが再びたわみ始めた壁を前に関を破って流出します。
そう、決定打がない。火力不足、知力不足――私には役者不足。わかってますよ、そんなこと!
でも。
私はお姉さまを守るって決めて。今この時こそ、それができるって思って。ようやく空回りし続けてきた努力が報われる時だって。
なのに何でいつも――なんでこんな、うまくいかないの。
もう、嫌だ。
ついに完全に関を破った心の叫びは、胸から喉を伝い、そして口からあふれ出す。
「無力なのはもう、いや――!」
と同時に。私が全力の叫び声を上げた瞬間。
ビリビリッ、と変な音が私の背中からしました。まるでこう、袋を破くような。
え、と思うのと同時に、今度はバサバサと音がして視界の端で黒いものが揺れます。しかもなんか、揺れるのに合わせて肩甲骨の辺りがムズムズするのです。
焦点がゆっくりと合うと――それは黒い翼のようでした。揺れる先端から付け根を探して目で追いかけてみた視覚情報と、今現在も背中から伝わってくる触覚情報からなんとか察することには――本当は察したくないんだけど、察さざるをえないことには。
私の背中から、三対の漆黒の鳥の羽が出現し、ゆらゆらと揺れていました。
……なに、これ?
なにこれなにこれ、ちょっとなにこれーっ!?
いやいやいや、もう急展開はお腹いっぱいだって言いましたよね? この上一体私に何を強いてくるつもりですか。なんですかこれは。なんでこう、堕天使アデラリード降☆臨みたいな事態になってるんですか!?
そして目の前の獲物から突如漆黒の翼が生えると言う異常事態にも全然動じずに、相変わらずバリアと戯れてるワンコは馬鹿なの、それとも肝が太いの? 魔獣にとっては翼のあるなしなんて些細な問題なの?
「困っているようだね。説明しようか、アデル」
「って師匠!?」
聞こえるはずのない人の音声に思いっきり声が裏返ります。いや、確かに今まさに状況の説明はほしいと思いましたけど、なんでいなくなったはずの師匠の声がこのタイミングで届くんですか――。
「君の鼓膜を遠隔操作で揺らしてメッセージを届けてるから、そうやって周りを見回して音源を探っても無駄だよ」
はははそうですか、さようでございますか――。
駄目だ。ついに情報が飽和しすぎてて、私の許容範囲やら処理能力やらを完全に逸脱しました。端的に言うなら、突っ込みが追い付かない。こうなった以上、なすすべもなくおとなしく電波を受け入れるしか私にできることはない。
「まあいい。ようやくそれを使うんだね」
知っているのか、師匠――というよりも、ひょっとしてこの黒い羽って知らないうちに既に師匠に改造されてた結果の産物とか、そんな落ちじゃないですよね。あなた一体、私の身体に何をしたんですか!?
「吾輩は何も。時間がないだろうから詳しいことは後でね。さて、悪魔の羽は君の契約者に通じている」
だから遠隔操作でしかも心を勝手に読むな! あと電波語じゃなくてわかる言葉で喋って、もうお願いだから! 忙しすぎて咳き込みそう! 実際咳き込んでる!
いろんな意味で衝撃が大きすぎて声も出せずに棒立ちしている私――と、話を続けようとした師匠でしたが、急にガタガタと騒がしい物音が響いて、別の音が耳に飛び込んできました。
「どけ、フラー、それじゃ向こうを追い詰めるだけだ――アデル、朕だ。そっちの事は師匠から聞いた、だから朕も協力する、そのつもりで。今から師匠が横で言ってる電波語を全力で通訳する。その間、キルルにやられんなよ!」
「ええと、超絶緊急事態につき、なぜ師匠の声が私に届いてるのかとか、なぜあなたに今変わったのかとか、なぜそうすべて受け入れるとか、瞬時にあの電波語を翻訳できるのかとか等々、突っ込みを飲み込んで――ぜひお願いします、電波翻訳機様!」
あ、良かった。とりあえず口は復活した。と言うか、ここでこんな風に叫んで向こうに答えは届くものなのだろうか。
……さりげなく、ワンコと私の間の壁に補給を続けていた首飾りの宝石の光がまた一つふっと消え去りました。これでストックはあと二つ――急いでリオスさん! この何が何だかわからない状況で、今だけはあなたが頼もしい……と、思えないこともない!
ボタッボタッと今や大粒の汗が額から浮き出て顎をなぞり、落ちていく。妙に時間が長く感じる、喉が渇く。――ようやく黙っていたリオスが再び声を上げました。
「よし、大体把握した。いいかアデル。落ち着いて聞けよ。師匠はつまりこう言ってる。その悪魔の羽を使って、助っ人を呼び出せって」
「…………はあ!?」
速報、皆様。翻訳機を以てしても超展開は免れない模様です。
「よ、呼びだせってそんな――誰を、何を!?」
「あいつだよあいつ、なんか忍者っぽい奴! お前ん所の完璧でエレガントなナイスな侍従! あいつなら有効だしいけるって」
無茶言うな、なんでよりにもよって――ここでディガンの名前を出すか!? というか、あんたと師匠がオッケーでも、私がついていけてないんだってば!
あらゆる感情にわなないていると、リオスの珍しく真面目モードな声が耳にくわんと響きます。
「いいか、なんでもいい。必要だって思って名前を呼べ、助けてって念じろ。そうすりゃ必ずお前の所に羽が契約者を導く。それが悪魔の羽の力だ」
「いや、確かにディガンは優秀だしウルルの時だってひょいっと現れて助けてくれましたけど、いくらなんでもこの特殊空間でそんな都合よくホイホイ出現するわけが。大体契約者て――あの人、あなたと違って魔法系の素養は皆無に等しいんですから――」
私が動揺しながらしどろもどろに言葉を紡ぐと、盛大な舌打ちと机をたたいたらしいバン、と言う音が響き、思わず肩をすくませます。
「ガタガタ言ってねーで、なんでもいいからとりあえず信じてやってみろってのに、アンポンタンめ!」
「そのトンデモ理論を即座に受け入れて実行しろって方が無茶なんですよ、この朕王め!」
――そう言ってるうちに、また宝石の光が一つ消えた。これで残りの魔石ストックは、一つ!
いよいよ追い詰められた私に、朕王の声が追い打ちの様に響きます。
「ダメ元でやれ! この際もう嘘でも告白でもいいから叫んどけよ! 死ぬぞ!」
「わかりましたよ、やってやりますよ、やりゃあいいんでしょう――!?」
やけくそ半分、逆切れ半分で叫んだ私は――もうそろそろ、絶体絶命の状態に頭の中の何かがぷっつんしたことも相まって――両手を合わせて叫びます。
この背中から生えている、妖しい要素しかないわけわからん羽に、想いを込めるように――目を閉じて、彼のことを思い浮かべて叫ぶ。
「ディガン、お願い――ここに来て――私を助けて!」
その瞬間、ざざざっと黒い翼達が蠢いて広がったかと思うと、バッと辺りに飛び散る! 背中にワンコにやられた時のような痛みが一瞬広がったかと思うと、閃光手榴弾をもう一度投げたような光が走って私は眩しさに目を閉じます。二回もやられたせいで何かを学習しているのか、ワンコがキャインキャイン! と叫びながら逃げていく気配がしました。
そうして光が収まって、恐る恐る目を開けてみれば。
私の傍らには侍従服ではなく隠密用の黒服に身を包んだディガンが、私と同じくらい呆然とした表情で立ち尽くしているのです。
……ええと。自分でやっておいてアレなんですが。
本当に来てくれるとは思ってませんでしたよディガン、わあああああん!




