2-00.とりあえず、これ以上ないほど最悪な状況だってことだけはわかる
暗闇の中をゆらゆらと漂っている。ただただぼんやりと、そのままに。
頭上がほんのり明るい。たぶんあっちが正解で、少ししたら私は光の方に引き寄せられるように動き出すのだろう。明るくて、どこかほっとする、終点の灯り……。
けれど、それがそちらに向かおうとする私の動きを止めた。
「 」
音。微かな――本当に、聞き漏らしてしまいそうなほど弱々しい音。それでもどこかに引っかかる響きがある。だから私の意識はぼんやりとだけど覚醒しかかってるんだ。
音は光とは違う方から聞こえている気がする。どこだろう……。
「 」
ああ、こっちか。私が思うと、ふんわりとそっちに流されていく気がする。たぶん、それはよくないことなんだ。声に近づこうとすると、徐々にだけど違和感が増すし、安心する光はどんどん遠ざかっていってしまう。
それでも、私は光じゃなくて音を追いかけようと思った。
ああそうだ。それで私は彼女に会ったんだ――。
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お姉さまが失神し、人が巨大な狼に変化し、夕方かと思えば倍速で日が暮れて夜になり、計算上では三日月が上がらなきゃいけないはずの空に満月が輝く。で、とどめはいきなりの足場崩壊。
そんなものが目の前で起きて体験させられた時、恐怖とか驚きとか、リアクションとしてはそう言ったものを選択するべきところなのでしょうか。
でもなんかこう、あまりにも予想外の事態に直面すると、慌てるべきところを一周まわって逆にすごく冷静になるってこと、ありません? 今の私がそうなんですけどね。刺激が強すぎて感覚が麻痺気味であるとも言えます。お腹いっぱいってレベルじゃない、とんでも展開の連続でした。もう二度と体験したくないね。このまま夢落ちで翌朝何もありませんでしたーって事態でも大歓迎ですよ。
まあ、この前代未聞の異常事態がそんな簡単に片づけてもらえるはずもなく。
意識が戻るとそこは見知らぬ夜の森でした。目覚めて最初に思うのは――ううっ、気持ち悪い! なんだこの、吐き気とは違うんだけど、身体をかきむしりたくなってくるような不快感は。……幸いにも、うめきながら耐えているとすぐに引いていきますが。
瞬きをしてからしっかりと認識される光景は、ざわわ、と木々が風に揺れ、その先に見える空にアホみたいに丸くて大きな月が浮かんでいるものでした。月光が妙に強いせいでしょうか、夜の森の中にしては驚くほど周囲が見えるのです。
数度瞬きした私は、自分が仰向けで大の字に寝そべっていることを把握すると、念のためそろりそろりと起き上がります。グーパーして、胡坐をかいて。うん、とりあえず身体は異常なし。言う事を聞くし、問題なく動く。
目覚める前になんか変な夢を見た気がしないでもないけど……そんなことより、今のおかしな状況の方がよっぽど大事ですね。
ハハッ! なんでさっきまで王宮にいたはずなのに、目が覚めると見知らぬ森で、そして今日は三日月のはずなのに満月が浮かんでるんでしょうね! あと月が気持ち悪いほどでかいのも、地味に不気味さに拍車をかけているんですが! おかしいよね、ぱっと見の目算で直径が私の身長の数倍に見える月って! 目の錯覚として片づけるにしても苦しい領域だと思うの! もはやあの空に浮かんでる巨大な球体を月って言っていいのかさえも、怪しい気がしてきた!
……はあ。ダメださすがに。テンション上げていこうとしてもうまく元気が出ないや。
仕方ないので、げんなりした顔のまま私は考えます。
何が起きたんだろう。と言うか、起きているんだろう。非常によろしくない事になったってことだけはわかりますけど――。
そういえば、辺りを見回してみても、お姉さまも先輩もいない。気を失う前は、確かに二人と一緒に王宮にいたはず。
私は少しだけ迷ってから、とりあえずの行動方針として、起き上がって二人を探してみることにしました。ここにたどり着くまでの状況が尋常でなかったにしても――おそらく最後に三人で穴に落とされたような記憶が残っている以上、二人とも私と同じような事態に巻き込まれているのではないかと推測したのです。
いえ。もう少し後にはさらに思い直してお姉さまだけを探すことにしました。それも、できるだけ早く。
先ほど見知らぬ森と言いましたが、ちょっと落ち着いてきた今は、なんとなく場所の見当が付き始めているのです。というか、イベントの見当と言った方が正しいでしょうかね。
おそらく私とお姉さまとキルル先輩、全員が巻き込まれているこの状況。そして満月の夜に森。と来れば、次は当然――。
追いかけっこ。
ぶるっと体の奥から寒気を感じ、私は腕をさすり顔をしかめます。ぜひともこの予感には外れていただきたいものですね。
大体、イベント発生にしても――あまりにも文脈が滅茶苦茶すぎる。
第一に、なぜ先輩とのイベントが私とお姉さまに対して発生するのか。フラメリオの話では、現世でお姉さまがヒロインポジションになっている――だとしたら、お姉さまとキルル先輩にフラグやイベントが発生することは十分あり得るし、それは散々彼女と一緒に警戒していたことです。でも現実には、キルル先輩はフィレッタにぞっこんで――まあ確かに、彼女に対するはたから見ててわかるほどの並々ならぬ好感度の上げっぷりに、ちょっと心配してたんですよ? フィレッタが狼イベントに突入しちゃうんじゃないかって。でも、だったらなんでフィレッタのいないところで、しかも私達にイベントが発生するの?
百歩譲って、その辺が私の知らない事情や条件――例えば、先輩の好感度が上がるのは誰が相手でもよくて、値が一定値に達した段階でイベントはお姉さまと発生する。何それ、本当だったとしたら理不尽なんてレベルじゃない――によるものだったとして。
第二に、どうして先輩の暴走が起きるの? リオスは彼に抑制薬を処方していると言っていた。これから渡すものだと現物を見せてくれたこともあります。それに私だって学園時代、非常に具合が悪そうだったとは言え、ちゃんと満月の日も人間の姿で活動する先輩を、ほかならぬこの目で確認してるのです。リオスは抑制薬の効果について自信を持って、ひどい日は狼化してしまう時もあるけれど、理性が失われるようなことはまず起こらないと言っていました。まさか、私に嘘をついていた? それとも今回に限って、処方薬を出さなかったか、何かの細工を?
……この辺はリオスや先輩に対して、彼ら個人のことも、両者の関係と言う点においても、私は未だ知らないことの方が多いかもしれません。でも――リオスが先輩を大事に思っている、それだけは本当の事だと思う。というか明らかに原作以上に仲がいいし、というかあいつおもっくそ先輩の事贔屓してるし、フィレッタの事といい散々お節介焼いてるし。だから抑制薬だって――キルル先輩が深く傷つくようなことを、あの男がするとは考えにくいんですよ。大体奴は悪戯大好きではありますが、ちゃんと加減と言うか越えちゃいけないラインは把握できている男だった気が。
いや別に、リオスの株を上げてるとか全然そんなつもりはないですけどね! 鬼畜外道野郎だとは思ってるけど、今回の主犯ではないかなって、それだけですから! あいつはやるときは嬉々として自分の手を汚すタイプですからね!
で、その辺を考えないとしても、第三に。なぜいきなり三日月の夜が満月に変わり、王宮の床が崩れ、見知らぬ森に移動させられているのか。これですよこれ。何この時空間の法則をまるっきり無視した現象。意味不明ですよ! いくら魔法のある世界とは言え、人間にできることには限度があるってのに。こんなバカみたいな時空間魔法――起こせるはずがないのに。
何らかの魔法が作用したと言う線で考えると、現時点で一番思いつくのはやはり幻惑系統の何か――だとしても、さすがに賢者の弟子を三か月も務めてれば、最低限術を掛けられたかどうかぐらいは探知できるようになってるんですよ。と言うか、主に兄弟子のいびりで鍛えられていてだな。いやそれは置いておいて。なのにあの時は全然そんな気がしなかった。今もそう。別に魅了されてるだとかなんか嵌められてるだとか、全然そんな感覚はない。だったらこれは現実? いや、こんなひどい現実があってたまるか――。
あーもー、総合するとさっぱり! なんでこうなったの! わかんない!
私は考えつつも、暗い――いや、特に灯りを用意しなくても歩くのに不自由しないので、夜の森ってシチュエーションとしては不気味なほどに明るいんですけど――その中を、私が倒れていた初期位置に簡単な呪文で蛍光マーカーのような印をつけておき、そこから適当に方向を決めて歩き出します。探知系の魔術をちょっと試してもみたのですが、どうもこの森磁場が狂っていると言うか、樹海っぽいと言うか。なんかうまく作動してくれませんでした。振り返って蛍光マーカーが見えなくなりそうな位置まで来たら、また新しく、わかりやすそうな場所を選んでマーカーを。なるべく曲がらないように、同じ方向に一直線に、周囲に目を光らせ耳を澄ましながら歩き、定期的にマーカーをつける――その作業を繰り返します。
同時に声を出してお姉さまを呼んでみようかとも思ったのですが、悪い予感が当たっていた場合、同じく森の中を彷徨っているであろう危険生物の方を引き寄せる確率の方が大きい事を考えると、あまりいい方法ではないような気がします。もし完全に獣化していたら、大幅に耳も良くなってるでしょうし。……いや、逆手にとってお姉さまより私の方にあえて惹きつけるという手もあるのか。でもそれでお姉さまも近くにいた場合は? 二人ともこっちに来てしまったら意味がない。むしろお姉さまを危険にさらすことになる。でももし、今襲われてるんだとしたら――。
代わり映えしない森の中をひたすらまっすぐ歩きながら、ぐるぐると唸り決断を迫られていた私は、一瞬目に入ってきた情報にきょとんと立ち尽くしかけ――次の瞬間、思わず感激して駆け寄ってしまいます。
「フラメリオ!」
少し先にある一際大きな木の下に、見覚えのあるボロボロのローブとやたら派手な宝石の首飾りを身に着けていたそのヒトは立っていました。私が声を上げると、こちらに振り返って微笑んでくれます。
「やあ、アデル」
うわあああん、今すっごく泣き出したい! 主に安心感で! 賢者がいるなら、とんでも展開だろうが理不尽だろうが何とかなる! なんだろう、この師匠の安心感! テンションも戻ってきた! これで勝つる!
「よかった、師匠がいるならどうとでもなる――で、聞きたいことはいっぱいあるんですがとりあえず――お姉さまを知りませんか!?」
「今のところは無事だよ」
さすが賢者。こちらが質問をすると、どんな内容だろうと大体間髪入れずに返しますね。電波用語のこともあるからそうなると解読が大変だけど。
ああでも今回は本当によかった。フラメリオが無事だって言うのならそうなんだ――って、ちょっと待った。今うっかり流しかけたけど、聞き逃しちゃいけないすごく物騒な枕詞がついてたよね!?
「それって、これから危険に曝される可能性ありってことですかっ!?」
「ま、完全に理性を失った人狼が一緒に森の中をうろついているんだから、十分リスクはあるよ」
師匠は肩を竦めて、当たり前のことを、とでも言いたげにしています。――いや、知ってた。うん、知ってたし、いつも通りだけど。なんだろう、さっき覚えた安心感が急速にしぼんでいく。微妙にしょんぼりしつつも師匠に次の質問をするべく口を開いた私ですが、ニコニコした師匠は先に話してきます。
「ともあれ、君の方から見つけてくれてよかった。ただでさえメッセンジャーなんてやりたくもないものを務めさせられることになったものでね――手間が省けた。さすがは吾輩の弟子だ」
「――え?」
――そう。希望と言うフィルターが剥がれてくれば――それなりに彼を見慣れつつある私は気が付いてしまうのです。最初には見えていなかった違和感――フラメリオの微笑みに、ぞっとするほど冷たい何かが宿っていると言う事に。具体的に言うのなら、口角は吊り上がっているのに、目じりが緩んでいないと言う事実。彼は目を据わらせたまま笑っている、と言う事実。気が付いてしまえば彼の存在はこの場においてちっとも安心できるようなものではなく――むしろ最悪な状況をさらに悪い方向に導くためのものであると、わかってしまったら。
一歩、二歩。大喜びで近づいた足が、無意識に後ずさる。ほっとしかけた身体が一気に緊張し、ざざっと血の気が音を立てて引いていく。
フラメリオはじっとその無表情な目で私を見ていましたが、一度鬱陶しそうに顔をしかめて首を振り、独り言を呟いているようです。
「わかったわかった。まったく、今ならリオスの気持ちが少しわかる気がするよ……」
改めてこちらに向き直った時。私はフラメリオが今までどんなに優しくふるまっていたのか――たとえ電波用語で喋っていようが、あれでも彼にしては破格に優しい態度だったのだと言う事を叩きつけられました。
プレッシャー。見た目としては痩身気味の大して怖がる要素のない身体から発せられる空気は質量を持ち、粘度を持ち、私にまとわりついて圧迫します。そのせいでしょうか、肺が妙に強張ってうまく膨らんでくれず、すぐに心臓が酸素を求めてバクバクと鳴り始めます。
きらり、と輝くフラメリオの金の瞳は――まさにそう、カエルにとっての蛇。
「さて、そんなわけで催促もうるさいことだし、さっさとゲームの説明を始めようか」




