4-0.リスタート
う、うおおお! お姉さまが来た! お、お姉さまが降臨なさった! いつの間にご自分で脱出なさったのでしょう――さすがはお姉さまっ。
ちらっと見た朕王が――おお、ここにきて初めて、マジでびっくりした顔してるっぽい。ほーら、ざまー見ろや! うちのねーちゃん、あんたごときに収まる女じゃないんですよ!
一段一段、優雅に藍色のドレスの裾をわずかに転ばないように持ち上げて、高いヒールをものともせず、けれどゆっくりと降りてらっしゃるその姿の、なんと凛々しく神々しい事――しかもお顔から察するに、いつかディガンに見せてた時の超強気モード。お久しぶりです、怜悧冷徹冷淡、キンキンに冷え冷えなお姉さま。あれちょっと表現が違う気が。
ともかく、ああ何ということでしょう。高いはるかな天上からこの混沌渦巻く地上に降りてらっしゃった氷の女神のその、どう見ても世界が違うことを思わせるお姿。
冬の早朝の冷え冷えとしたしんと体まで凍り付くあの空気のような、けれどどこまでも美しいきりりと研ぎ澄まされたるその美貌――彼女の艶やかな黒目、すっとまっすぐ伸びた鼻、くっと今は引き結ばれている赤く麗しい唇、ほんの少し乱れているのがエロい編み込まれ束ねられた黒髪、額で波打つ前髪、それらから構成されたる――ごめんなさい、私そろそろ自分の語彙力と表現力に絶望してきたのと、ここから彼女の堪能に忙しいので、黙ってもいいですか。
お姉さまが降りてらっしゃると、彼女と目が合ったディガンがゆっくり、朕王から身を引きます。連動するように先輩がゆっくりと剣を下ろし、私もそれに従って氷を――あ、だいぶ溶けてきてる。そして今更ながら手がつべたい。すっごくつべたい。というか、これ感覚なくなってないか?
さりげなく氷を投げ捨て、冷え切った右手をさすりつつ私はドキドキと状況を見守ります。わあ、右手と左手の温度差すごい。じゃなくて。
お姉さまは階段を降り切ると、信じられない、とでも言いたそうな顔をしている朕王に向かってまっすぐ一直線に――あれ? ゆっくりとですか、迷いなく着実に一歩一歩一直線に向かい――ちょっと待って。急速にお姉さま応援フィーバーが冷えていく――目の前にお立ちになると、にっこりと――なぜでしょう、どこまでも美しいのに、さっきまでの朕王の顔よりよっぽど怖く見える顔でにっこりとほほ笑み、優美に振りかぶっ――あっ、ちょっとそれはさすがにいやそんなウソでしょ――。
パアン!
ああなんていい音かな。小広間に、緑あふれる庭中に、響き渡りました。
すべてに洗練されたお姉さまは、その――殴るフォームまでもが、うっとりするほどお美しいのですね――。
じゃ、なくって!
お姉さまが、まさかあのお姉さまが――朕王のこと、殴っちゃった!?
しかも意外と腰の入った結構いい殴り方だった。さすがに朕王ですからよろけたりはしませんが、殴られた反動で右を向いたまま、無言で立ち尽くしています――。
確かにですね。奴の行動はたぶん、客観的に見てもただの好色スケベ無理矢理勘違い強引最低野郎だからしてその、なんていうか女としては非常に正しい反応なのですが、その。これが朕王でなければ――迂闊な一挙一動が即デッドにつながる奴じゃなければ、私も素直にキャー素敵! ってできるのですが――しかもなんだか私の知ってる朕王と若干違うような不安要素もあるのに――。
つまりですね。これに対するリアクションが全く読めない。というか私自身が全く、お姉さまのすることを読めなかった!
ど、どどどどどどどどどうしよう!?
ま、まさか――ご令嬢として完璧な、暴力沙汰や争い事を好まない彼女が、あんなことするなんて! いや、私はてっきりこういつものように、口で適当にこの場を収めてそれで悠々と戦略的撤退に持っていくのだとばかり思っていて、それで心の中の声援をですね――いや、ホントどうしたのお姉さま!? よりにもよって、殴るなんて! それも私じゃなくて、あなたが!
だって私、お姉さまが人に暴力振るったところなんて見たことないですよ。ダンスはそりゃあお上手ですから身体能力は結構高いんでしょうが、それにしたってなんか妙にきれいなフォームだったって言うかまるでお手本のような殴り方だったと言うか。いや、そうかパーだからお姉さまのはパンチじゃなくて張り手か。
うん、そうですよ。その調子です、戻ってきて落ち着きましょう、アデラリード――。
「スフェリアーダ様!」
真っ先に我に返ったディガンが――やっぱり一番頼りになるのは侍従たんだ――驚いて駆け寄ろうとしますが、お姉さまに見つめられると立ち止まります――ちょっとお姉さま、睨まないであげて! 侍従たん悪いことしてない! 威圧しないであげて! ディガンがしゅんってしちゃってる!
というか情けないぞアデラリード、わ、私もなんとかしなくっちゃ。どうすればいいのこういう時。と、とりあえずお姉さまに近づいて――って、きゃあっ!? お、お姉さまが私に一瞬睨んで――あ、いや笑顔で来るなと仰ってますね。――あれっ。えっ、か、身体が動かないっ!? というか、口から声も出ない――どういうこと? お姉さま、何をしたの? ちょっと全部私に任せてくれれば大丈夫みたいなその笑顔やめてってば、ああもうっ、なんで――!
大幅に遅れて真っ青になったキルル先輩も、私たちに続き何か言うか動こうとしたようですが、ばっと朕王に手だけで止せと無言の命令を受け――お前も止めるのか――あわあわとし、天を仰いでうめきます。
「なんてことをしてくれたんだ――」
……ごめんなさい。ちょっとだけ、同意見です。
お姉さま、なんてことをしてくれたのです――。
同時に私はぞわぞわと、身体の奥から何かがせりあがってくるのを感じました。
この感覚を知ってます。――昔、ディガンとお姉さまの初めて出会ったとき。私が傍観者になってしまったとき、似たような感覚に襲われました。
とてつもなく嫌な予感。聞こえないけれど警鐘が鳴っている、確かにその音がする。
けれど今回のものは、それよりもずっとずっと強くて、めまいと吐き気が襲ってきて立っていられなくなりそうなほどの――。
突然、足元の地面が抜ける感覚がして、私は庭園の石の広場の上から暗闇の中に、足の方からずっとずっと、やがてまっさかさまに落っこちていってしまいました。
――落っこちた?
ああ何も見えないし、動けない――身体の感覚もないんだ。
それでもここが、とてもとても深いところだと言うことは――本能でしょうか、わかりました。
パン。何かの音とともに、一斉に全空間に浮かびます。
それは、仮面の顔。顔顔顔。見渡す限り、夥しいほどの数の光る顔の群れが、私を取り囲んでカタカタと揺れています。
「まちがった」
「まちがった」
「なんてことをしてくれた?」
ガチガチガチ。耳障りな音。どこかで聞いた、何か固いものをぶつける音。
仮面は口元だけ、まるでくるみ割り人形のようにがっちがっちと動くのです。
喋っているのか、それとも何かをかみ砕いているのか。
「ちがうよ、ぎゃくだよ。しなかったんだ!」
「たいまんだ、たいまんだ」
「はんぎゃくだ、はんぎゃくだ!」
仮面たちの声は、まるで機械音声、ロボットのよう。
妙に抑揚がなくて、誰の声とも――男なのか、女なのか、若いのか、年取っているのか。そんな情報すら与えない、ただただ無機質な同じ声が四方八方から飛んでくるのです。
「きみのせいだよ」
「せっかくおぜんだてしてあげたのに」
「これではすべてが」
「めちゃくちゃだ」
くすくすくす。耳鳴りのする音。どこかで聞いた、誰かの笑い声。
「なにもかも」
「できそこないだね」
「しっぱいさくだ」
「そうだ、しっぱいさくだ」
ぐわん、ぐわんと頭がゆすられる感じ。
他の部分は動けないのに、まるで脳みそだけ取り出されてぶんぶんとアトラクションに振り回されている。自由落下運動に遠心力、さながらジェットコースターの一人乗り。
けれど私はなされるがまま、何もできずに彼らの不満を、いら立ちの声を聴いている――。
「しかし皆様、ご静粛に!」
四方八方上からも下からも聞こえてきた音が、ピタッと一斉に止まります。
「そうだ、舞台は続けなきゃいけない」
そして彼らの声は一つになり、宣告したのです。
「ならば天使の羽は――相応しい彼女のものへ!」
「では代わりに悪魔の羽は――役立たずにでも、くれてやれ!」
轟音。潰されそうな衝撃。笑ったのは、私以外のすべて。叫んだのはきっと、私でした。
バリバリバリと、自分の背中から何かを――何かとても大事で、それまで確かに私のものだったそれを、無理矢理はがされる感触がしました。
そして気が付いたら、びっしりと両手に黒い――。
――途絶えていた意識が戻りました。
私は今、どうしていたのでしょう? お姉さまが朕王を殴って――いやだ、そのことから現実逃避でもしていたのかしら。
ねえ、私はどうして……どうしてこんなに動悸がして、指先が冷え切っていて、汗でぐっしょりと顔が濡れているのでしょう。
せいぜい一瞬気がフラッと遠くなっただけのことでしょうに――私はなぜ、こんなに怯えているのでしょう?
慌ててもう一度意識をしっかり取り戻したとき、すべては始まり――そして終わっていました。
リオスドレイクはそっと打たれた左頬から手を下ろすと――ぎらぎらと輝く一対のエメラルドで、お姉さまを射抜いています。
そして彼は予定調和に――どこかで聞いたそのわかりきった言葉を言い放ったのでした。
「――気に入った」
同時に、私の奥の奥の方で、こっそりと誰かがささやきました。
さあ。
ゲームを、はじめよう。




