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未知への一歩

作者: ハル

 大学を卒業し、4月から高校で教師をしている。

 教師の中ではダントツに若いが、生徒から見たらオジサンに片足を突っ込んでいるのだろう。

 それでも自分も通ってきた道だ。

 特に同性である男子生徒の気持ちは分かってやれると思っていた。

 実際生徒達からの評判も上々で、悩みを相談されることも少なくない。

 アドバイスはもちろんだがなによりも生徒達に必要なのは、お前の気持ちは分かるぞ、と共感してやることだ。

 実際のところ100%分かってやることは難しいが、それでもある程度生徒達の気持ちに寄り添ってやれている自信があった。

 そう、ここまで理解出来ない生徒と接するのは初めてだ。

 

 胸までまっすぐに伸びた黒い髪に薄くほどこされた化粧、そして涼しげな白のワンピース。

 向かいに座っているのは俺が副担任をしている2年1組の生徒で、名前は伊藤和希という。

 中性的な名前だがれっきとした男である。

 そう、“男子生徒”なのだ。

 学校ではもちろん学ランを着ているし、髪は茶髪にしていてワックスでふわっとさせた今時の男の子という容姿だ。

 性格もどちらかというとやんちゃな方で、女の子みたいだなんて思ったことはない。

「この子が持っていた学生証を見て連絡しました」

 そう書店の店長は言ったが、最初は伊藤和希の彼女だか妹だかが彼の学生証を持っていたのだろうと思った。

 しかし、書店を出た瞬間に間違いなく伊藤和希本人であると確信した。

 薄くピンクに塗られた唇が動き飛び出てきたのが、聞きなれた彼の声だったからだ。

 店の事務所では一切話そうとせず、にもかかわらず万引きの誤解は無事にとけた。

 一度部屋を出ていった店長だが、どういうわけか戻ってきたときには別人のように低姿勢になっていて、すぐに解放されたのだ。

 その時点では見知らぬ少女と思いこんでいた俺は、彼の声で話しかけられて度肝を抜かれ、そして事情を聞かずにはいられなかった。

 

 とはいえ彼の格好で学校に連れて帰るわけにもいかない。

 見た目が完全に未成年の女の子なだけに、喫茶店にでも行って生徒の誰かに見られてもまずい。

 そう考えた結果、彼を自分の部屋に招くことになった。

 ワンルームの1人暮らしで、家具も必要最低限しかない。

 もちろんソファなんて洒落たものはなく、むき出しのフローリングに座らすのもなんなので、とりあえずベッドに座るように言った。

 お茶を差し出すと素直に口をつけた。

 彼からは何も言ってこず、部屋には沈黙が広がる。

 教師である、その前に大人である自分が気を遣ってやらなければいけない。

 どう声をかけるか考え、心の中でもう一度繰り返し慎重に口を開く。

「やっぱりお前が万引きしたなんて、誤解だったんだよな?」

 床に座っているせいで、テーブルの向こうの彼を自然と見上げる形になる。

 彼のほうもじっとこちらを見下ろすと、強く一度頷いた。

「本を探してたら、隣にいた男が話しかけてきた。ナンパだったし、男ってバレるから声出せないしでシカトしてた。そしたらそいつがだんだん怒りだして、なんか怖かったから店を出ようとしたら腕を掴まれて、鞄の中に無理矢理店の本を入れられた。で、そのまま店員の前まで引っ張られていって、万引き犯として突き出されたわけ」

 彼は悔しさを滲ませるわけでもなく、淡々と事情を話した。

 店長は何も言わなかったが、おそらく証拠を見せるために防犯カメラを確認しに部屋から出ていったのだろう。

 そして店側にとって都合の悪い結果だったので早々に解放……といったところか。

「先生が電話に出たの?」

「いや、出たのは事務員さん。今日は担任の三田先生がお休みだっただろ? だから副担任の俺が行ったんだ」

 彼はそっか、と小さく呟くと少し間をあけてから、

「学校に報告するんだよね?」

と尋ねてきた。

「おう。万引きの疑いを晴らすためにちゃんと、お前は被害者だと報告する」

 安心させようとはっきりと言い切ると、なぜか彼は困ったように笑った。

「それは、俺がこんな格好をしてたうえにナンパされたところから話さないといけないよね?」

 言われてようやく気付いた俺を見て、彼はさらに眉を下げた。

「しょうがない、よね。万引きしたと思われてるままよりはマシだと思うことにする」

 彼は諦めをつけるように小刻みに頷く。

 首が上下する旅にさらさらと揺れる髪を眺めていると、どうしても口を開かずにはいられなくなった。

「普段からそういう格好をしているのか?」

 ただでさえ多感な時期にいる高校生を相手に、心の奥に踏み込むような話題だ。

 案の定彼は黙ってしまい、

「話したくないならいい。無理に話さなくていいから」

と慌てて付け足す。

 彼は口を開く気配を見せなかったが、右上へ左上へと揺れる目には迷いが感じとれた。

 どうやら絶対に話したくないというわけでもなさそうだ。

 下手に口を出さずに彼の心に決着がつくのを見守る。

 

 3度目にお茶を飲んだところでようやく決心が出来たようだ。

「先生は、今の生活から逃げ出したくなることってない? 表面上は仲良くしててもやっぱり気の合わない奴はいるし、それを顔に出さないようにするのも結構疲れる。逆に、自分がその“気の合わない奴"って思われてるんじゃないかって不安になったり」

 彼の話に口を挟まないかわりに、わかるぞと目で訴えて大きく頷く。

 それは伝わったらしく、彼もまた首を縦に動かした。

「学校が楽しいって気持ちは本当にあるけど、でもたまに嫌になる。誰も俺のことを知らない世界で、他人の目を気にしないで歩きたくなる」

 そこで彼が少し前かがみになり、机に置かれたお茶に手を伸ばした。

 露出のそう多くないワンピースなので胸元がはだけることはなかったが、それでも何故か見てはいけない気がして視線をそらす。

 ピンクの唇は水分を吸収して一段と艶っぽくなった。

「だからっていきなりこんな格好をしようと思ったわけじゃないよ。疲れたなーって思ったときに裏庭に避難したり。ほら、あそこって雑草伸び放題のせいか誰も行かないじゃん?」

「ああ、おまけに幽霊が出るなんて噂もあるな」

「そうそう。俺、まだ1度も出会えてないけどね」

 少し視線をあげて俺を見ると、いたずらをする子供のように笑った。

 頬の筋肉が緩んだせいか、彼の表情が先ほどより柔らかくなる。

「幽霊には会ってないけど、ある人にはよく会ったんだ」

「ある人?」

「うん、長月さん」

 名前を聞いてすぐに顔が思い浮かぶ。

 黒い髪を後ろで1つにまとめ、黒い縁の眼鏡をかけた大人しい生徒だ。

 友達がいないわけではないようだが、休み時間の多くは1人で読書をしている。

 正直、自分の担当するクラスの生徒でなければ、彼女のことを知らなかっただろう。

 同じクラスでありながら全く接点が見受けられなかった組み合わせを意外に思った。

 それが顔に出ていたのか

「意外?」

と、彼に尋ねられた。

 素直に頷いて肯定する。

 そうすると彼はますます楽しそうに目を細めて言った。

「じゃあ、長月さんとつき合ってるって言ったらもっとびっくり?」

 飲んでいたお茶がのどの奥にからんでむせる。

「先生大丈夫?」

 そう言いながらも彼は、唇をにっと横に伸ばして笑っていた。

 その憎たらしい笑顔に、少し肩の強ばりがとけた気がした。

 

 俺の知らなかった「伊藤和希」という生徒がいる。

 本人でさえ持て余している自分の一面を、俺が理解できるというほうが不自然だ。

 大切なのはわかってやることじゃない。

 わかってやろうとする気持ちをもつことが一番だ。

 自分の中でそう確認した瞬間、張りつめていた空気が穏やかなものに変わった気がした。

「伊藤」

 呼びかけると、彼は笑顔のまま俺の目を見た。

 口元は緩んでいるが、こうやってまっすぐに向き合うと、その目が不安を帯びているのがわかった。

 意識してゆっくりと立ち上がり、彼の隣に移動するとまたゆっくりとベッドに腰をかける。

 彼は何も言わず、先ほどまで俺が座っていた場所をただ見下ろしていた。

「俺も学生の頃は……、いや、ちがうな。社会人の端くれになった今でも、お前のように思うことがあるよ。誰もいないところでのんびり過ごしてみたいとかな。でもそういう思いを解放してやる方法は人それぞれ違うだろ?」

 俺も前を向いたまま語りかけたが、隣に座っている彼が黙って頷いたのを目の端でしっかりと捉えた。

「その方法ってのはみんな違うから、俺はお前のことをわかってやれるなんて綺麗ごとは言わない。俺はお前のことわからない。でも、わからないこそ話を聞きたいって思うし、お前のこともっと知りたいって思うんだ」

 言い切ってから彼のほうに顔を向ける。

 さらさらの黒い髪がその横顔のほとんどを隠している。

 何も言わずじっと見つめていると、ゆらゆらと小刻みに揺れていた髪が、彼が顔を勢いよくあげたのをきっかけに大きくブランコをこぐように動いた。

 心の奥まで覗くように俺の目を彼の目がまっすぐに捉える。

 間近でよく見ると、睫が軽く上向きにカーブしているのがわかった。

 瞼の上にもうっすらとピンク色が乗っかっている。

 この控えめで清楚な化粧を、厚化粧の女子生徒たちにお手本として見せてやりたい。

 俺がそんなことを考えているのをわかってか、それとも間抜けな顔をしていたからなのか、彼は真面目な顔を崩してくしゃっと笑うと、頭の後ろで腕を組んでそのままベッドに後ろ向きに倒れ込んだ。


「裏庭で長月さんに初めて会ったとき、『女の子になってみる?』って言われたんだ。第一声がそれって信じられる? あ、とか偶然だね、とかそんな挨拶なに1つなくて本当にいきなりそう言われたんだよ?」

 こうやって他人事として聞いている俺でさえ驚いたのだから、その時の彼は軽くパニック状態になっていてもおかしくない。

 案の定、彼はどうしていいかわからずに何も言わずただ突っ立っていたらしい。

「正直、長月さんのこと名前と顔がかろうじて一致するってぐらい接点なくてさ。なのに向こうは俺のことすごくわかってるんだよね、最初から。俺が悩んでることも見抜いてて、違う自分になるにはまず格好から入るのが簡単だから女の子になってみればって」

 彼がごろんと寝返りをうってこちらを向いた。

 僅かにだがずり上がったスカートを全く気にとめる様子もない。

 思い出し笑いなのか軽く吹き出すように息を吐くと、また話し出す。

「いきなりそんなこと言われてさ、意味わからないじゃん? でももっと謎だったのは、そう言われて『うん』とか言っちゃってる自分なんだよ。テレビでさ、女装男子とか男の娘とかいうのが流行ってるって言ってたことあるけど、でもやってみたいとか思わなかったし全然興味なかった。なのに『うん』とか言っちゃってるのよ、俺」

 確かに俺も聞いたことがある。

 なんでも、女装した男ばかりを撮した写真集なんてのも発売しているらしい。

 彼が体を起こしてお茶に手をのばす。

 が、その途中でスカートがまくれかかっているのに気がついたらしい。

 慣れた手つきでさっと整えるが、それはまるで床に落ちていたゴミをゴミ箱に捨てるかのように、別段意識せずにした行動のようだ。

 当然と言えばそうなのかもしれないがそこに恥ずかしがる様子はなく、俺はそれを見て改めて目の前にいるのが男なのだと実感する。

「そこからはあっと言う間に話が進んで、服とウィッグを借りてメイクを教わってさ。初めは部屋の中だけだったけど、外にも出るようになって。で、そんなこんなで今に至ってんの」

「長月とはいつから?」

 そう聞くと、

「7月30日」

とすぐに答えが返ってきた。

 つき合いはあと数日で2ヶ月になるらしい。

「夏休みはバイトしたり友達と遊んだりで別に暇はしてなかったんだけど、なんか物足りなくてさ。で、ふと長月さんは何してるのかなーって思ったんだ。1回考えたら、そのあとは何してても長月さんの顔が思い浮かんで、いてもたってもいられなくなってさ。メイク教わったときに長月さんの家には行ったことあったから、思い切って行ったんだけど、そのときの反応にびっくりしたんだ」

「びっくり?」

「うん。だって普通、連絡もなしに特別仲が良いわけでもないクラスメートが来たらなんでって思わない? それも男だし」

 自分に置き換えてみるが、確かに同級生の女の子が突然尋ねてきたらちょっとした事件にすら思えるだろう。

「でも長月さんは顔色1つ変えずに、なんの用事か聞く前に部屋まであげてくれてさ。あれ、実は俺約束してたっけ? って混乱するぐらい自然だった」

 長月……下の名前はなんだったか思い出せない。

 彼女は大人しい生徒ではあるが、暗いとかやぼったいとかそんな印象もなく、本当にどこにでもいるような生徒だ。

 彼女のことを知らずに伊藤の話だけを聞いたなら、人生を悟ったような大人びた子だと思うだろうが、実際の彼女は話し方も年相応……だと思う。

 接する機会が少ないので自信はないが。

 少なくとも俺が話した限りでは、変に言葉の裏側を勘ぐったり含みを持たせた言い方をするような感じではなかった。

 彼女もまた、学校では見せない一面を持っているということなのか。

 だとすると、伊藤に対する理解の深さも納得できる。

「先生」

 呼ばれて目を向けると、そこには今まで見てきた中で1番幸せそうに笑う彼がいた。

 つられてこちらまで口角が上がったのが、自分でもわかった。

「最初は俺、自分のことをよくわかってくれるから長月さんのことが好きなんだと思ってた。けど、違ったんだ。たまに、『伊藤君ってそんな人だったんだ』って言われるときがあるんだけど。あ、実際に口に出して言われるわけじゃなくて、顔にそうあらわれてるって感じね。今まで他の人がそんな顔するときって幻滅とか呆れとかそんな感じだったんだけど、長月さんはただ純粋に驚いて、その後に笑ってくれるんだよね。俺も長月さんの新しい一面をみるとわくわくするし……」

 言葉を区切った彼に目をやるが、そんな俺の視線を逃れるようにまたバタンとベッドに倒れ込む。

 そして手元にあった枕を抱え込んで顔を隠すように埋めると、

「好きだなーって思う」

と少し声を上擦らして言った。

 思春期特有の甘酸っぱさを目の当たりにしたせいか、こちらまで胸が痒くなる。

 その落ち着かない気持ちをごまかすために、彼の頭に手を置き乱暴に撫でた。

 作りものの長い髪がどうやってとめられているのかわからないが、思っていたよりもずっと地毛に馴染んでいるようだ。

 感心まじりでその髪を見下ろしていると、部屋に軽快な音楽が鳴り響いた。

 

 携帯電話の画面を見ると、勤め先である高校の名前が表示されている。

「学校からだ。悪い、ちょっと出るな」

 そう言って携帯電話を手に取ると、彼はそろりと顔をあげて不安げにこちらを見上げた。

 通話ボタンを押して耳に当てると、こちらが口を開く前に相手の声が飛び込んできた。

「もしもし高橋先生? うちのクラスの伊藤君が万引きで捕まったと聞きましたけど、どうなったんですか? そもそも、あなた今どこにいるんです?」

 高い声で矢継ぎ早に質問をされ、思わず耳を塞ぎたくなるのをぐっと堪える。

 相手は名乗らなかったが、その声と話し方だけでクラス担任の三田先生であるとすぐにわかった。

 確か今日は私用で休んでいたが、学校から連絡がいったのかもしれない。

 俺より二周り以上年上のベテラン先生で、言葉遣いは丁寧だがいつも鳥がピーチクパーチク鳴くように勢いよく話すので、生徒たちは裏で『ピー子』と呼んでいるようだ。

「店側の勘違いで、やっぱり伊藤君は何もしていませんでした。彼は完全に被害者ですが、勝手に万引き犯にされたことにショックを受けたようです。彼が少しでも落ち着ければと私の部屋で話をしていました」

 意識して抑揚をつけて情に訴えかけるような話し方をすると、学校への連絡が遅れたことへの小言を残して電話は切れた。

 いつもなら一生徒を部屋にあげたことに対してもお説教されただろうが、俺の作戦が功を奏したらしい。

 ほっと胸をなで下ろすが、当人である伊藤はさらに安心した顔をしていた。

「ピー子?」

「三田先生だろ」

 指摘すると、彼は素直に三田先生と言い直す。

「ああ。俺がちゃんと対応できたか確かめてきたんだよ」

 あえて“俺が”という部分を強調して言うと、彼も意図を汲み取ったのか少し頭を下げるようにして頷いた。

「でも、本当のこと言わないでよかったの?」

「本当のこと?」

 片眉をぴくっと動かしておどける……そういうイメージで右眉のあたりに力をいれるが、果たして上手くできているだろうか。

「嘘なんてついていないし、本当のことしか言わなかっただろ?」

「嘘はついてなくても隠してることはあるでしょ」

 拗ねるように口を尖らせるが、これは女の子の格好してるからというわけでなく、学校でもよく見かける顔だ。

 きっと本人は気付いていない癖なのだろう。

「伊藤君はどんな格好をしていましたか? とは聞かれてない。聞かれなかったから答えなかっただけだ」

 そう言うと彼は納得したのかそれとも納得することにしたのか、ようやく頬から緊張が抜けた様子だった。

 

 手に持ったままだった携帯電話を机の上に戻すと、それを目で追っていた彼が「あっ」と小さく声を漏らした。

 何かと訊ねると、

「さっき鳴った着信音、濡れ鼠の曲でしょ?」

と返ってきて驚く。

 ”濡れ鼠”は俺の友人がやっていたロックバンドだが、CDは何枚か出しているものの結局メジャーデビュー出来ないまま解散している。

 ライブをすればそれなりに人が集まりはしていたが、世の中から見ればマイナーバンドであったことは変わりなく、今の高校生が知っているとは思わなかった。

 ましてや着うたでは着音なので、”濡れ鼠”を知っていてもピンとこなくても不思議ではない。

 俺の反応が面白かったのか彼は吹き出すように笑いながら、

「長月さんが部屋でよく流してるから自然と覚えちゃったんだよ」

と言った。

 まただ。

 彼は何度俺をびっくりさせれば気がすむのか。

 それほど生徒の上辺しか見られていなかったのかもしれない。

 伊藤が笑顔の裏に自分を押し込めていることも知らなかったし、長月はロックを聴くようなタイプではないだろうなんていう勝手な思いこみもあった。

 大人の偏見や押しつけに苛立ちを覚えたり窮屈さを感じたり、そんな時期が確かに俺にもあった。

 学生だったその当時は、

「俺はこんな大人にはなりたくない」

と強く思っていたし、自分はそうならないはずだと根拠もない自信を持っていた。

 自分が嫌った大人像に違わない大人になった自分がいる。

「先生?」

 どうかしたのかと彼が首を傾げると、肩にのっていた長い髪の毛がはらりと下にのびる。

 その振動で小さく揺れるその髪を見てふと思いついた。

「その髪、簡単にとれるのか?」

「これ? とれるよ、上からかぶせてとめてるだけだし」 そう言いながら彼が手で前髪をかきあげると、ヘアバンドのようなものにフックがついたものが見えた。

「つけてみる?」

 からかうようににやけた彼に頷いてみせる。

 すると彼は目を丸くしてマジ?と呟くように声に出した。

「マジマジ。それちょーつけてみてーよ」

 教員免許を取ってから封印してきた若者言葉を盛り込んで返してみる。

「先生意外とそういう話し方似合っててウケる」

 敬語ではなかったものの多少なりとも教師向けの物言いをしていたであろう彼が、友人と冗談を言っているときのような口調になった。

 俺だってついこの間まで学生だったのだから意外と思われること自体が意外なのだが、それはこの際置いておこう。


 ものの1分ほどで毛の固まりを取った彼は、それをこちらにずいっと押しつけるように寄越した。

「やっぱ冗談とかなしだからね」

 そう言って早くつけろと促すのだが、その目があからさまにワクワクとしている。

 見慣れた“男子生徒”の伊藤の髪型に見慣れない“女子生徒”の伊藤の格好は、ショートヘアの女の子というには多少無理がある。

 ただこれが夜空の下ならそれも通ってしまうかもしれないという程度の違和感だった。

 裏の顔と表の顔、それは全く違うようで実は紙一重のところにあるのかもしれない。

 期待に満ちた視線が体中に突き刺さるので、思い切って人工毛で出来た被りものを地毛にのせる。

 手を離すとすぐに滑り落ちそうになったそれをもう一度手で頭に押さえつける。

 その様子をじっと見ていた彼がすっと手を伸ばしてきて、

「こうやって」

と言いながら頭をきっちりと被りもので覆う。

「こうやって」

 そう繰り返して言うと、次はベルト部分を引っ張ってきゅっとサイズを小さくする。

 そして最後に、

「こう」

と呟くと同時にフックをとめたようだ。

 彼が手を離しても落ちることなく頭にのっかったままらしい。

 らしいというのは軽すぎて上にものが乗っているという感覚がないからだ。

 少し動くと頬に髪が擦れてくすぐったい。

 髪の束を手で耳の後ろへかけると、彼が口元にぎゅっと力を入れて眉毛をピクピクとさせているのが目に入った。

「別に笑ってもいいぞ」

 そう言い終わる前に笑い声が耳に届く。

 文字で表すなら「ふはは」という感じだろうか。

 トゲのない軽やかな声で、笑われているというのにそう悪い気はしない。

 言葉の通り腹を抱えてひとしきり笑った彼は、俺の頭に乗った長い髪を回収しながら口を開いた。

「でもさ、俺も先生ぐらいの歳になったら笑えるぐらい似合わなくなってるのかな」

 俺ぐらいの歳になったら、その言い方がまるで10年も先のことのようで目眩すら感じる。

 学校ではベテランの先生が多いせいか、自分がダントツに生徒に近い年齢だと思っていたし実際そうに違いないのだが、彼らからすると教師はみんな“大人”というざっくりとしたカテゴリーに分けられているのだろう。

「おじさんになろうがじいさんになろうが、お前が自分らしくあれるなら続ければいいじゃないか。もし似合わないから嫌だと思うようになったら、また自分らしくあれることを探せばいい」

 そう言うと、彼は納得しきれていない顔で小さく頷いた。

 俺はテーブルに手を伸ばして、すっかり緩くなったお茶を喉にすべりこませた。

 潤った喉を動かして続ける。

「まあそんな簡単じゃないよな。そうだピー子先生もさ、宝塚みたいに派手な格好をしてるかと思えば1ヶ月後にはジャージを着るようになってさ、今は原色ばっかりだ。きっとそうやって自分探しをしてるんじゃないかな。お前ら生徒からみたら教師は大人で融通が利かないわからずやかもしれないけれど、大人だって同じように悩んでるしいつまでたっても子供の延長なんだと思う」

 俺の言葉を黙って聞いてた彼が、そっかとただ一言ぽつりと声にした。

 その言葉は決して投げやりなものでなく、半信半疑ながらもそういうものかという着地点を見つけたようだ。

 それから彼はにやにやとしてこちらを見つめ、

「ピー子先生じゃなくて、三田先生でしょ?」

と言った。

 予想していたその言葉に、目を見開いてしまったという顔をしてみせる。

 彼は白い歯を見せて軽快に笑った。

 俺のその反応を彼もまた予想していたのだろう。

 

 部屋に鈍い振動音が響いた。

 それに素早く反応して、彼は持っていた手提げの鞄に手を突っ込んだ。

 中から携帯電話を取り出したところですぐに振動はおさまった。

 カバーは柄もなく暗い茶色一色の落ち着いたものだ。

 画面に振れた親指をくいくいと動かしながら口を開く。

「女の子がケータイを鞄に入れてるの、不思議に思ったことない? こういう格好をするようになってわかったんだけど、ポケットがない服が結構多いんだよね。男はジーンズだろうがスウェットだろうショートパンツだろうが、ポケットがないことのほうが少ないけどね」

 俺も携帯電話はいつもズボンの後ろポケットに突っ込んでいるが、ポケットのない服ではそれができない。

 当たり前のことだが、今までそんなこと意識したことなんて1度もなかった。

 そう言われると、女の子が出かけるときに必ずと言っていいほど鞄をもっているのにも納得がいった。

 彼は携帯電話を鞄にしまうと、そのままそれを持って立ち上がった。

 そろそろ帰るというので少し迷ったものの、送っていこうかと申し出る。

 俺にとってはどんな格好をしていようが彼は立派な男子生徒だが、知らない連中から見たらやっぱり女の子だろう。

 そうなると、じゃあなと送り出すのもどうかと思ったのだ。

 彼は口元をしなやかに緩めると、

「デートについてくることになるけど、それでもいいなら送ってもらうよ?」

と言い放った。

 追い払うように手をひらひらさせながらも、

「なんかあったらいつでも言えよ」

なんて声をかけているあたり、案外俺もちゃんと教師になれているのかもしれない。

 さらさらと髪を揺らしながら遠ざかっていった彼の後ろ姿を見送る。

 ドアを閉めるとまた独り身の男のしんとした部屋に戻った。

 

 トイレに用を足しに立ち入った洗面所で、ふと鏡に映る自分の姿に目をやる。

 さきほどの彼の格好をそっくりそのまま自分に重ねてみた。

 想像ですら分かってしまうあまりの似合わなさに、自然と口まわりの筋肉が揺れる。

 便座に座りながらもひとしきりニヤニヤして、水洗レバーをひねった時にようやくその波がひいていった。

 誤解とはいえ生徒が万引きしたと呼び出されるし、その生徒は思いもよらぬ格好をしているし、あげくのはてにデートだと嬉しそうに出ていったし、振り返ってみても散々な一日だった。

 でも昨日より一歩生徒に近づけた気がして、たまにはこんな日も悪くないかもしれない。

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