相模の兄弟
歴史のページを捲れば、そこには数多の血生臭い戦や、冷徹な権力闘争の記録が並んでいる。しかし、その無機質な記述の裏側には、必ず「人」の震えるような呼吸があった。
鎌倉初期、富士の裾野で起きた「曽我兄弟の仇討ち」は、単なる復讐劇ではない。それは、幼き日に全てを奪われた二人の少年が、自らのアイデンティティを「曽我」という名に託し、十八年もの歳月をかけて「個」の尊厳を取り戻そうとした、魂の彷徨である。
雨の夜、彼らは何を思い、何を捨て、そして何を手に入れたのか。
これは、武士の世という過酷な檻の中で、美しくも悲しく咲き誇った二つの命の、最期の輝きを追った物語である。
第一章:餅の熱、遠き雷鳴
焼きたての白餅を千切ると、立ち昇る白い湯気が五郎の鼻先をかすめた。
指先に伝わる餅の熱は、つい先ほどまで握っていた木刀の冷たさと対照的で、幼い兄弟にとっては、これこそが「生」の充足そのものであった。
「さあ、食え。稽古の後の飯が、男を創るのだ」
父・河津祐泰の声は、腹の底に響くような、心地よい重みを持っていた。彼が大きな手で五郎の頭を無造作に撫でると、その掌の熱が髪を透かして伝わってくる。父の汗の匂いと、香ばしい米の匂い。それらが混じり合う縁側は、世界で最も安全な場所に思えた。
余談ながら、伊豆の河津という地は、相模湾からの湿った風が山に突き当たるため、陽光は常にどこか湿り気を帯びて柔らかい。
祐泰が息子たちと囲んでいたこの穏やかな時間は、中世という剥き出しの暴力の時代にあって、奇跡のような空白であったと言える。
「父上、この餅は伊豆で一番美味いです」
「ははは、十郎、それはお主の腹が減っているからだ。だがな、この土地で獲れたものを、この土地の薪で焼いて食う。それが武士の力の源よ」
祐泰は笑ったが、その視線はふと、餅から離れて遠くの山嶺へと向けられた。
そこには、叔父・工藤祐経の所領が、どす黒い影を落として横たわっている。
陽だまりのような縁側のすぐ外側では、土地を巡る執念と、一族の血を分かつ亀裂が、目に見えない深淵となって口を開けていた。
祐泰は、自分の命がその深淵に飲み込まれようとしていることを、野生の勘で悟っていたのかもしれない。彼はもう一度、今度は確かめるように、兄弟の肩にその温かい手を置いた。
「十郎、五郎。いつか私が居なくなっても、この餅の味と、今日流した汗の熱さだけは忘れるな。それが、お主たちの真実だ」
それが、父と交わした最後の雑談になるとは、まだ幼い兄弟は知る由もなかった。
伊豆の空には、季節外れの乾いた雷鳴が、遠くで一度だけ響いた。
ここで、この物語の背景にある「親戚同士のドロドロ」を、少し噛み砕いて説明せねばなるまい。
一言で言えば、「おじいちゃんが、親戚の男の子から、将来もらえるはずだった家と土地を、強引に奪い取ってしまった」のである。
暗殺を企てている工藤祐経は、もともとは伊東一族の正当な後継者候補だった。
ところが、彼がまだ若く、都で修行をしている隙に、叔父である伊東祐親(兄弟の祖父)が、彼の領地をゴッソリ横取りしてしまったのだ。
「あいつはまだ若い。この豊かな伊豆の土地は、俺が管理したほうがマシだ」
そんな理屈であったろう。現代の感覚で言えば、「親戚のおじさんが、勝手に自分の銀行口座の名義を自分に変えてしまった」ようなものである。しかも、当時の「土地」はスーパーもコンビニもない時代、食糧のすべてを生み出す命綱だ。土地を奪われることは、死を意味する。
祐経にしてみれば、たまったものではない。
「あのジジイ、絶対に許さねえ……」
その恨みの矛先は、略奪を主導した祖父だけでなく、その跡を継いで幸せそうに暮らしている「完璧なサラブレッド」の息子・祐泰(父上)にも向けられた。
祐経の心の中では、かつて共に笑い、同じ釜の飯(それこそ、あの餅のようなもの)を食べた親戚の情など、とっくに「土地への執着」という黒い炎で焼き尽くされていたのである。
父・祐泰を乗せた馬が、パカパカと軽快な音を立てて館を遠ざかっていく。
その後ろ姿は、若々しく、一点の曇りもない。彼は父(祖父・祐親)がしでかした強引な土地奪取の罪を、半分も知らなかったのかもしれない。
「……父上、早く帰ってくるといいな」
十郎が呟く。
「ああ。また相撲をしてもらうんだ」
五郎も同意する。
だが、この時の祐泰は、すでに「個人の善意」ではどうにもならない、巨大な歴史の歯車に挟まれていた。
坂東武者にとって、土地を守ることは神聖な義務であり、それを奪われた側が報復することは、当時の「倫理」ですらあった。
赤沢山の入り口。
祐泰がふと、首筋に冷たい風を感じて馬を止めた。
木々の間から、自分を見つめる「無数の視線」があることに、彼は気づいただろうか。それは、かつて親戚として笑い合った者たちの、獣のような殺意であった。
十郎と五郎が、まだ温かい餅を口に運んでいるその時。
伊豆の深い森の中で、一本の矢が、つがえられた。
第二章:赤沢山の静寂、零れた熱
ヒュッ、と。
風を切り裂く短い音が、伊豆の静寂を塗り替えた。
それは、獲物を仕留めるための冷徹な一撃であった。
馬上の祐泰が、自身の右肩に走った衝撃に気づいたのは、熱い飛沫が白砂の道に散った数秒後のことだ。
「……何奴」
呻き声と共に、祐泰の視界がぐらりと揺れる。
森の奥から姿を現したのは、かつて幼少の頃、共に野山を駆け回ったこともある工藤の郎党たちであった。彼らの瞳に宿っているのは、親戚としての情愛ではなく、土地を奪われた者たちの、煮えくり返るような怨嗟の泥である。
二の矢、三の矢が空を翔ける。
祐泰は、溢れ出る鮮血を左手で押さえながら、無意識に伊東の館の方向を振り返った。
(十郎、五郎。餅は、まだ温かいうちに食うたか……)
不意に、先ほどまで自分の掌に残っていた、息子たちの柔らかな髪の感触が蘇る。あの時、自分が感じた予感は正しかったのだ。この伊豆の豊かな緑は、今や自分を呑み込む墓標へと変わっていた。
ドサリ、と重い音が響き、祐泰の体は落葉の絨毯へと投げ出された。
馬のいななきが遠ざかり、代わりに近づいてくるのは、草を踏みしめる非情な足音。
ここで、少しだけ「武士の死」について補足しておこう。
当時の武士にとって、戦場で華々しく散ることは名誉であった。だが、この時の祐泰の死は、それとは程遠い。身内による、背後からの闇討ち。正々堂々とした勝負ではなく、ただ「土地と恨み」のために処理される家畜のような死。
それが、後に十郎と五郎を、狂気に似た復讐心へと駆り立てる火種となるのである。
第三章:冷めた餅と、止まらぬ震え
伊東の館。
縁側に置かれた皿の上で、二つの餅が、もはや湯気を上げるのを止めていた。
「兄上、父上の帰りが遅いね」
五郎が、少し硬くなり始めた餅の端を噛み切りながら言った。
先ほど響いた乾いた雷鳴の余韻が、胸の奥をざわつかせている。
「ああ。山道がぬかるんでいるのかもしれぬ。……だが、妙だな」
十郎は、父が撫でてくれた頭をそっと手で押さえた。
そこにはまだ、父の大きな手の温もりが残っているような気がした。しかし、外の陽光はいつの間にか勢いを失い、相模湾から吹き付ける風は、先ほどよりも鋭く肌を刺す。
その時。
館の入り口から、誰かの叫び声が聞こえた。
それは、幼い兄弟がこれまでの人生で一度も聞いたことのない、絶望に濡れた色をしていた。
「――河津様が! 赤沢山の山道にて、河津様が討たれたぞ!!」
五郎の口から、食べかけの餅がポロリとこぼれ落ちた。
土の上に落ちた餅は、あっという間に砂にまみれ、急速に熱を失っていく。
「……父上が?」
十郎が立ち上がる。その膝は、自分の意思に反して、生まれたての小鹿のようにガクガクと震えていた。
先ほどまで「世界で一番安全な場所」だった縁側が、今はもう、剥き出しの荒野のように寒々しい。
この瞬間、兄弟の「少年時代」は終わりを告げた。
彼らの血管に流れる血は、父を殺した「親戚」への憎悪という劇薬によって、沸騰を始めたのである。
第四章:老人の慟哭と、沈む陽
館の中は、ひっくり返した蜂の巣のような騒ぎであった。
だが、その喧騒の中心で、一人の老人だけが石のように動かずにいた。兄弟の祖父、伊東祐親である。
彼は、自分が工藤祐経から奪い取った土地の広さを思い描くよりも先に、たった今届いた「息子の死」という報せの重さに、その老いた肩を震わせていた。
「祐泰……私の身代わりになったか……」
祐親は絞り出すように呟いた。
彼が若き祐経から強引に領地を掠め取った時、それは一族の繁栄のためだと信じて疑わなかった。だが、その強欲が巡り巡って、最も愛した跡取り息子の命を奪う「矢」となって帰ってきたのだ。
ここで、当時の「復讐」のルールを少し解説しておこう。
この時代、親を殺された子が仇を討つことは、単なる感情の問題ではなく、武士としての「義務」であった。だが、現実は残酷だ。殺された祐泰の息子たちは、まだ十歳にも満たない子供。対する工藤祐経は、背後に巨大な権力(後の源頼朝の一派)を見据え、着々と地歩を固めている。
泣き崩れる母・満江御前の横で、十郎と五郎は、ただじっと自分たちの手を見つめていた。
父の温もりを感じたはずの手は、今はもう、ただ冷たい夜風にさらされている。
「兄上。敵は、工藤なんだね」
五郎の低い声が、暗い部屋に響いた。
その瞳には、子供らしい涙の代わりに、暗い森の奥で光る獣のような「火」が灯っていた。
第五章:さらば「河津」、ようこそ「曽我」
父の死からしばらくして、兄弟を取り巻く環境は激変する。
未亡人となった母・満江は、幼い兄弟を守るために、ある決断を迫られた。相模国(今の神奈川県)の武士、曽我祐信との再婚である。
これは、現代で言えば「実家の会社が倒産しかけたので、親戚の別の家に養子に入る」ようなものかもしれない。だが、兄弟にとっては、それは自分たちのルーツである「河津」の名を捨てることを意味していた。
「今日から、お前たちは曽我の人間だ。工藤への恨みは、心の奥底に沈めておきなさい」
母の言葉は、愛ゆえの「諦め」の勧めであった。
伊豆の豊かな領主の息子から、相模の片田舎の「連れ子」へ。
彼らの名前は、曽我十郎、そして曽我五郎へと変わった。
新しい家、新しい父。
曽我の館は、伊豆の潮風が届かない、どこか乾いた場所だった。
ある夜。
五郎は、新しい父から与えられた木刀を握りしめ、月明かりの下で庭に立っていた。
「五郎、何をしている」
後ろから十郎が声をかける。
「兄上、忘れてないよね。あの餅の味。父上の手の熱さ」
五郎は振り向かずに言った。木刀を握る小さな拳は、白くなるほど力んでいる。
「忘れるものか。だが五郎、今はまだ、その牙を隠せ。工藤は今、源頼朝様の寵愛を受けて、飛ぶ鳥を落とす勢いだ。今の僕たちが飛びかかっても、犬死にするだけだ」
十郎の声は静かだったが、その奥には、五郎よりもさらに深く、冷たい殺意が淀んでいた。
彼らは誓ったのだ。
いつかこの手が、大人と同じ大きさになり、真剣を自在に操れるようになるその日まで。
「曽我」という借り物の苗字を隠れ蓑にして、牙を研ぎ続けることを。
伊豆の山々を照らしていた優しい陽光は、もう二度と彼らの上には降り注がない。
これからの彼らの道は、十八年という気の遠くなるような時間をかけた、暗い、しかし一点の迷いもない「死への行軍」だったのである。
第六章:箱根の山風、読経の裏側
兄弟の修行の道は、二つに分かれた。
兄・十郎は曽我の家督を継ぐべく、継父・祐信のもとで「表向きの武士」として。
そして弟・五郎は、まだ幼いうちに、伊豆・箱根の険しい山中にある「箱根権現」へと預けられた。
建前は「父の供養のために僧侶になる」こと。だが実態は、復讐の火種を隠すための隔離であった。
箱根の山は、冬ともなれば骨まで凍るような霧に包まれる。
五郎――今は「箱根の稚児」として過ごす彼は、朝夕の読経の最中も、数珠を握る手に力を込めすぎて、何度も紐を引きちぎりそうになった。
「五郎よ、お主の経には『仏』がおらぬな。聞こえるのは、血を啜る鬼の咆哮ばかりだ」
そう言って笑ったのは、箱根権現の別当(住職)、行実であった。
行実はただの僧ではない。山岳信仰の拠点を守る、武力にも通じた傑物だ。彼は、五郎が深夜、誰にも教わらずに大木を相手に木刀を振るい、その樹皮をボロボロに剥いでいるのを見抜いていた。
行実は五郎を叱るどころか、ある夜、自身の秘蔵する古びた兵法書を差し出した。
「どうせ地獄へ落ちる覚悟なら、磨き抜いた牙で落ちよ。その方が、仏も退屈せぬ」
この師のもとで、五郎は僧としての教養を隠れ蓑に、山中を駆け巡り、獣のような足腰と、闇の中でも敵を射抜く直感を養っていったのである。
第七章:北条の影、秘密の元服
一方、相模の曽我の館で腕を磨いていた十郎のもとには、意外な男が接触してくる。
伊豆の有力者であり、後に鎌倉幕府の執権となる男、北条時政である。
時政にとって、工藤祐経は源頼朝の側近として力を持ちすぎる「邪魔な存在」でもあった。「敵の敵は味方」という、ドライな政治的判断である。
ある雪の日。時政は十郎を密かに呼び出し、こう囁いた。
「お主たちが工藤を狙っているのは知っている。……だが、その錆びた刀では届かぬぞ」
時政は、兄弟に資金と情報を流し始めた。さらに、箱根から呼び戻された弟・五郎の「元服(成人式)」を、親戚にも内緒で自ら執り行う。
この時、五郎は北条時政の一字を譲り受け、「曽我五郎時致」と名乗った。
五郎にとって時政は、自分たちの復讐という「毒」を承知で飲み込んでくれる、危険だが頼もしいスポンサーとなったのである。
第八章:影に添う者たち、鬼王と団三郎
そして、この孤独な復讐劇に欠かせない二人の男がいた。
幼い頃から兄弟に仕えてきた従者、**鬼王と団三郎**の兄弟である。
彼らは、主君が「連れ子」として冷遇される日々も、箱根で修行に明け暮れる日々も、常に影のように付き従った。
「若、今日の稽古は甘うございます。工藤の首は、そんな振りの速さでは落とせませぬ」
彼らは家臣でありながら、時に厳格なコーチとなり、時に兄弟の鬱屈した感情を受け止めるサンドバッグとなった。
ある時、食料も尽きかけ、復讐のあまりの遠さに絶望しかけた五郎に、鬼王は自らの腕を噛み切って見せた。
「この鬼王の血が流れている限り、若を一人にはさせませぬ。我らの命は、あの赤沢山の日に、すでに若たちに差し上げてあるのです」
現代風に言えば、彼らは「最高のマネージャー兼ボディガード」だった。
彼らが集めてくる工藤祐経の動静、頼朝の巻狩りのスケジュール。それらの一つひとつが、兄弟という名の「機械」を動かす歯車となっていった。
十郎、五郎、鬼王、団三郎。
そして背後で糸を引く北条時政と、黙認する師・行実。
十八年。
それは、一人の人間が成人するのに十分な時間であり、同時に、一つの殺意がダイヤモンドよりも硬く結晶化するのに十分な時間であった。
第九章:大磯の夜、束の間の「男」
復讐への行軍の途上、十郎は相模国大磯宿(現在の大磯町)で、一人の女性と出会う。
名を、虎御前。
当時、その美貌と聡明さで知られた遊女であったが、彼女は単なる「一夜の相手」ではなかった。
十郎が彼女の部屋を訪れる時、彼は「復讐者」という仮面を脱ぎ捨て、ただの一人の「男」に戻ることができた。
「十郎様、今夜もまた、刀の匂いがいたします」
虎御前が静かに注ぐ酒の香りの裏側に、十郎が隠しきれない鉄の匂いを、彼女の鋭い感性は嗅ぎ取っていた。
十郎は苦笑し、彼女の膝に頭を預けた。そこには、かつて父・祐泰の膝で感じたような、絶対的な平穏があった。
「虎、お前と出会わなければ、俺の心はとっくに凍りついて割れていたかもしれぬ」
十郎の本音であった。弟の五郎が猪のように復讐へ直進する一方で、兄である十郎は、常に「もし、父が生きていたら。もし、このまま虎と静かに暮らせたら」という、叶わぬ幸福の味を知ってしまっていた。
ここで少し補足すると、当時の遊女は文化人でもあり、武士たちの心の拠り所でもあった。虎御前は、十郎が抱える闇の正体――「工藤祐経への殺意」を、言葉に出さずとも理解していた。彼女は十郎を止めなかった。止められるような浅い覚悟ではないことを、誰よりも知っていたからだ。
第十章:形見の袖、届かぬ「明日」
ある夜、十郎は虎御前に、一振りの小刀と、自身の着物の袖を切り取って手渡した。
「もし、富士の山に暗雲が立ち込め、僕からの便りが途絶えたら……これを僕だと思ってほしい」
それは事実上の、死の宣告であり、プロポーズであった。
虎御前は、その袖を抱きしめ、涙を流す代わりに凛とした声で応えた。
「十郎様。あなたの命が燃え尽きるその瞬間まで、私はあなたの帰りを待つ女であり続けましょう。そして、もしあなたが土に還るなら、私はあなたの魂を弔うためだけに、この髪を切りましょう」
この恋は、「死を前提とした愛」であった。
十郎にとって虎御前は、この世に未練を残させるための存在ではなく、「自分は一人の人間として愛されたのだ」という証を抱いて死ぬための、最後の救いだったのだ。
一方、弟の五郎にもまた、化粧坂の少将という恋人がいたが、彼は兄のように愛に溺れることを自らに禁じた。
「兄上、女の香りは刀を鈍らせますぞ」
そう毒づく五郎に、十郎はただ優しく微笑むだけだった。愛を知っているからこそ、失う痛みを力に変えられる。それが兄・十郎の強さだった。
第十一章:神隠しの謁見、鎌倉殿の眼光
富士の巻狩りが始まる直前、兄弟は思いもよらぬ呼び出しを受ける。
召喚の主は、鎌倉幕府の頂点に君臨する男、源頼朝である。
白いたてがみをなびかせた馬上で、頼朝は二人を見下ろした。
傍らには、仇敵・工藤祐経が、あたかも主君の「盾」であるかのように誇らしげに控えている。祐経は、目の前の兄弟が、自分がかつて暗殺した河津祐泰の息子たちであることに気づいているのか、いないのか。ただ、余裕に満ちた笑みを浮かべていた。
「面を上げよ、曽我の若輩ども」
頼朝の声は、富士の万年雪のように冷たく、鋭かった。
十郎と五郎が顔を上げると、頼朝の双眸が二人を射抜いた。その目は、単に家臣を見る目ではない。二人の血管を流れる「伊東一族」の血を、そしてその奥に潜む「黒い炎」を、透視しようとする目であった。
「お主たちの父、河津祐泰は武勇に優れた男であった。……惜しいことをしたな」
頼朝がそう口にした瞬間、傍らの工藤祐経の眉がわずかに動いた。
それは、主君による「お前が殺した男の息子だぞ」という無言の指摘であった。頼朝はすべてを知っている。知った上で、この危険な三人を同じ場所に集めたのだ。
ここで、頼朝の複雑な心情を紐解かねばならない。
頼朝にとって、伊東一族(兄弟の祖父)はかつての敵であり、最愛の我が子を殺した怨敵でもある。本来なら、その孫である兄弟も根絶やしにすべき存在だ。だが、頼朝は同時に、武士という人種の「執念」を愛していた。
(この若人たちの目は、かつて平家を倒そうと誓った時の、私と同じ目をしている……)
頼朝は、自分に懐かない「野良犬」のような兄弟に、どこか親近感さえ覚えていたのかもしれない。あるいは、お気に入りではあるが力を持ちすぎた工藤祐経を、この兄弟という「刃」を使って整理しようとする、残酷な計略だったのか。
「今度の巻狩り、精を出せ。富士の山は広く、何が起きても不思議ではない。……獲物を仕留めるか、返り討ちに合うか。すべては天命よ」
それは、事実上の「仇討ちの許可証」であった。
『何が起きても不思議ではない』――その言葉の裏に込められた真意を、十郎は瞬時に理解した。頼朝は、この血の決算を、富士の山という神聖な場所で行うことを黙認したのだ。
「ははっ。過分なるお言葉、骨身に沁みまする」
十郎が深く頭を下げる。隣で五郎が、地面を掴む指先に血が滲むほど力を込めているのを、十郎は気配で感じていた。
頼朝は一度だけ、工藤祐経をちらりと見て、それから馬の首を巡らせた。
工藤祐経は、主君の背中を追いながら、一瞬だけ兄弟を振り返った。その瞳には、今までになかった「死の予感」に対する困惑が、一滴の墨のように混じっていた。
第十二章:勝者の悪夢、冷えた酒
頼朝との謁見を終え、自陣の幕舎に戻った工藤祐経は、注がれた酒を一気に飲み干した。
伊豆の最上級の米を使った美酒のはずだが、今の彼の舌には、まるで泥水のように苦く感じられた。
(鎌倉殿……。あなた様は、今、私を捨てようとしたのか)
祐経は、震える手で盃を置いた。
頼朝が言った「何が起きても不思議ではない」という言葉。それは祐経にとって、長年尽くしてきた主君からの、これ以上なく冷酷な「死刑宣告」に聞こえた。
頼朝は、祐経の有能さを愛していたが、同時に、彼がかつてしでかした「河津祐泰暗殺」という身内同士の汚れた遺恨が、鎌倉の秩序を乱す火種であることを嫌っていた。
「この巻狩りで、決着をつけてこい。生き残った方を、私は使う」
頼朝の沈黙は、そう語っていた。
「……あのガキどもの目だ」
祐経は、先ほど一瞬だけ交わした、曽我兄弟の視線を思い出していた。
兄の十郎は、底の知れない沼のように静かだった。
弟の五郎は、今にも飛びかからんとする飢えた狼のようだった。
十八年前、赤沢山の山道で自分が放った矢。その矢が、時を経て二人の若武者へと姿を変え、今、自分の喉元を狙っている。祐経は確信していた。彼らは間違いなく、今夜、自分を殺しに来る。
「おい! 周囲の警護を三倍に増やせ! 陣の篝火を切らすな! 蚊一匹通すでないぞ!」
祐経は近習たちに怒鳴り散らした。
だが、いくら警固を厳しくしても、胸のざわつきは収まらない。彼は知っていた。「土地を奪われ、親を殺された者の恨み」は、壁や盾などでは防げないことを。彼自身が、かつてその執念を原動力に、伊東祐親から土地を奪い返した張本人だからだ。
(私は勝者だ。伊豆を支配し、鎌倉殿の寵愛を受け、この世の春を謳歌しているはずなのだ……!)
そう自分に言い聞かせるが、幕舎の外で鳴り響く雨音や、風に揺れる幕の音が、すべて兄弟の忍び寄る足音に聞こえてしまう。
かつて自分が奪い取った豊かな土地の記憶も、今や彼を呪う影に過ぎない。
「……十郎、五郎と言ったか。ふん、来るなら来るがいい。この工藤祐経、そう易々と首を差し出しはせぬぞ」
祐経は枕元に太刀を引き寄せ、寝所に潜り込んだ。
だが、その瞳は血走り、わずかな物音にも過敏に反応して開かれる。
彼は気づいていなかった。
最強の警護を敷いたつもりでも、降りしきる豪雨と、狩りの疲れで泥酔した郎党たちの隙間を、「意志を持った闇」がすり抜けてくることを。
十八年前の「あの餅」のように温かい安らぎは、もうこの陣の中には、どこにも残されていなかった。
第十三章:雷鳴の決算、富士の闇
豪雨がすべてを塗りつぶしている。
十郎と五郎は、工藤の陣のすぐ裏手、濡れた藪の中に伏せていた。雨水が目に入り、体温を奪っていくが、今の彼らに「寒さ」などという感覚はない。
「兄上、篝火が消えた。見張りの奴ら、酒を食らって眠り込んでやがる」
五郎の囁きは、雨音に紛れて十郎にだけ届く。
十八年。この瞬間のために、彼らは「曽我」という仮面を被り、牙を研いできた。十郎の手には、虎御前から贈られた守り袋の感触。それは、この世に残す唯一の未練であり、死へ向かうための重石であった。
「……行くぞ、五郎。父上が、そこで見ておいでだ」
二人は音もなく立ち上がった。
一方、陣屋の中。
工藤祐経は、浅い眠りの中で「赤沢山」の夢を見ていた。自分が放った矢が、河津祐泰の背に突き刺さるあの瞬間。だが、夢の中の祐泰は倒れず、ゆっくりと首を巡らせて祐経を見た。その顔は、今日見たあの「曽我の兄弟」に変わっていた。
「ひっ……!」
祐経は飛び起きた。冷や汗が背中を流れる。
枕元の蝋燭が、不意に吹き込んだ風でパチリと音を立てて揺れた。
「誰か! 誰かおらぬか!」
叫んだが、返事はない。ただ、屋根を叩く雨音だけが、絶望的なほど大きく響いている。祐経は、震える手で太刀を握りしめた。彼は気づいていた。外に配置したはずの警固の気配が、不自然に消えていることに。
幕舎の入り口。十郎が指先で、濡れた布をわずかに押し広げる。
中から漂ってくるのは、上等な伽羅の香りと、熟成した酒の匂い。そして、自分たちを殺そうと待ち構えている「恐怖」の匂いだ。
五郎が、父の形見の太刀を、音もなく鞘から抜いた。
祐経は、幕舎の入り口を見つめていた。
その向こう側に、誰かがいる。気配だけでわかる。
かつて自分が奪い取った土地、守り抜いた名誉、それらすべてが、幕一枚の向こう側からやってくる「死」の前に、紙屑のように無価値に思えた。
「来たか……。ついに、来たのか……!」
次の瞬間、稲妻が夜空を真っ二つに裂いた。
その閃光と同時に、五郎が幕を蹴り破って叫ぶ。
「工藤左衛門尉祐経ッ! 親の仇、河津の息子たちが、受け取りに参ったぞ!!」
祐経の視界が、真っ白な雷光の中でスローモーションになる。
飛び込んできたのは、十八年前、自分が冷酷に切り捨てた「過去」そのものだった。
祐経が太刀を振り上げようとした瞬間、十郎の刃が、彼の防御を鮮やかに弾いた。
そして、五郎の渾身の一撃が、祐経の胸元へと突き刺さる。
「……ぐ、お……」
祐経の脳裏を最後に掠めたのは、皮肉にも、自分がかつて食べた「餅」の、喉を詰まらせるような熱さであった。
第十四章:雨上がりの静寂
討ち取った。
十八年間の重みが、血のついた刀を通じて、五郎の腕に伝わってくる。
工藤祐経の体は、豪華な調度品をなぎ倒しながら、力なく崩れ落ちた。
だが、物語はここでは終わらない。
陣屋の喧騒を聞きつけ、周囲からは数多の松明が近づいてくる。
「逆賊を討て!」という叫び声。
「五郎、もういい。僕たちの目的は果たされた」
十郎は、血に濡れた守り袋をそっと握りしめた。
やり切ったという充実感と、これから訪れる「死」への安らぎが、彼の表情を不思議なほど穏やかにしていた。
二人は、逃げることもせず、松明の光の波の中へ、正々堂々と歩みを進めた。
雨は、いつの間にか小降りになっていた。
富士の山並みが、夜明け前の予感に、白く、静かに浮かび上がっていた。
第十四章:暁の鎮魂、語り継がれる名
「曲者だ! 出会えい、出会えい!」
静まりかえっていた巻狩の陣は、一転して怒号の渦と化した。松明の火が波のように押し寄せ、兄弟を包囲する。
最初に動いたのは、十郎であった。
「五郎、父上にお会いする前に、一働きしてまいるぞ!」
十郎は、迫りくる御家人たちを次々となぎ倒していく。その剣筋には、一点の迷いもなかった。だが、多勢に無勢。源頼朝の寵臣・仁田忠常の刃が、十郎の肩を深く裂いた。
崩れ落ちる間際、十郎が見上げた夜空には、雲の切れ間から一筋の月光が差し込んでいた。
「……虎、許せ」
その呟きは、誰に届くこともなく、濡れた土に吸い込まれていった。
一方、五郎は兄の死を目の当たりにしながらも、ただ一人、頼朝の御座所へと突き進んだ。彼が求めたのは、逃亡ではなく、自らの義を天下に知らしめることだった。
「そこまでだ、曽我五郎時致」
御所を守る強者たちに取り押さえられ、泥にまみれた五郎の前に、征夷大将軍・源頼朝が姿を現した。
「祐経を討ったこと、私怨とはいえ見事なり。だが、我が陣を騒がした罪、万死に値する。言い残すことはあるか」
五郎は、天を衝くような視線で頼朝を射抜いた。
「命は惜しみませぬ。ただ、父の無念を晴らし、河津の誇りを取り戻した……それだけで、この五郎の人生に悔いはございませぬ!」
頼朝はその若き勇姿に深く感じ入り、助命を考えたという。しかし、工藤の遺児たちの嘆きを無視することはできず、翌日、五郎は静かに処刑の地へと向かった。
最終章:富士の裾野に吹く風
翌朝。
昨夜の嵐が嘘のように、富士の山嶺は澄み渡る青空の下で輝いていた。
事件を知らされた虎御前は、十郎から贈られた守り袋を抱きしめ、一人、二人の菩提を弔うために出家した。
彼らが流した血は、やがて大地を潤し、物語となって人々の心に深く刻まれていく。
武士の世において「孝」と「義」を貫いた二人の少年の名は、日本三大仇討ちの一つとして、永遠に語り継がれることとなったのである。
「あはれ、曽我の兄弟。その名は富士の嶺よりも高く、その情けは裾野の露よりも深し」(完)
物語を書き終えた今、耳元にはまだあの激しい雨音が残っているような気がします。
日本三大仇討ちの一つに数えられる「曽我兄弟」の物語は、古くから能や歌舞伎の題材として愛されてきました。しかし、今回描きたかったのは、英雄としての姿以上に、一人の人間としての彼らの葛藤でした。
工藤祐経を討ち果たした瞬間に五郎が感じた手応え、そして十郎が最期に胸に抱いた虎御前への未練。それらは、歴史の教科書には載らない「生きた感情」です。
復讐は何も生み出さないという言葉もありますが、彼らにとっては、その目的こそが生きる術であり、唯一の救いだったのかもしれません。明け方の富士山が、彼らの散り際をどのように見ていたのか。その静寂を読者の皆様と共有できたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
最後に、この物語を共に歩んでくださった皆様への感謝と、そして過酷な運命を駆け抜けた兄弟に、心からの鎮魂の祈りを捧げます。




