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恋愛

作者: 室岡 勇実
掲載日:2026/05/04

 大学の友人と二十歳の祝い酒を楽しんでいた時に、一人がある話題を出してきた。

「俺らはこうして大学で知り合い、友人という仲になったけど、過去のことについては意外と知らないままだった。せっかくの酒の席だ。一つ各々の恋愛について知りたくないか」とても盛り上がる話題だ。このままでは普段盛り上げ役に徹している僕が先陣を切って語ることになるだろう。

 僕には好きな人がいる。正確に言えば好きだった人になるのかもしれない。なんせ今はもう彼方の存在であって、過去の一つにすぎない上に、連絡先も知らない。スマートフォンに変えてしまったせいだ。彼女のことを思い出すときはいつも胸が苦しめられてしまう。後悔先に立たずということわざがあるが、この話をしようと思うとおそらく僕は自虐に走ってしまうだろう。普段友人たちと過ごす僕からは想像もつかないくらい辛い顔をみせてしまいそうで、話題に出ただけで全身が赤く染まってしまう。

 2年近く経った今でも、あの時のことは鮮明に覚えているし、その選択の合理性という観点からは後悔は無いといっていい。それでも、僕の心はそれを後悔と認識しているのだ。


 僕の地元は高い山々に囲まれた地域で、幼い頃から男女共に昆虫採集に明け暮れていたのを覚えている。地元の高校は県内でも普通レベルの学力で、同じ地域の人たちしか集まらないから見知った顔が多い(遊ぶ山や商業施設が同じということもあるだろうが)。

 彼女は、松本は、入学当初から有名だった。中間テストの順位で学年一位のその名前を見てその存在が特別なものであることに疑いはなかった。顔は知っていた。その上松本は、スポーツも万能な文武両道で、鼻筋が綺麗、スタイルも抜群、容姿端麗で誰もが憧れるような人だった。でもその全ては遠くからの情報でしかなく、無駄に人の多いこの学校で彼女と関わる機会は無かった。

 三年生となった僕は、東京の大学への進学を決めたばかりで、不安な気持ちを顔に出さないよう気をつけながら、その登校初日を迎えた。クラス替えという一大イベントに学校中が騒がしい中、クラス表を確認する。僕の苗字は渡辺だから、こういった表の中で最後尾を飾らせていただくことがしばしばある。『32渡辺信也』思った通り、今年も僕が出席番号のラストかと残念に思う中、一つ前の番号に見知った名前があった。『31松本椿』彼女だ。あの有名な松本が僕の前に座ることが決まった。少し浮ついた足取りで三年C組に向かい、教卓から向かって一番右後ろの窓際の机の脇にカバンを掛け、席につき一度深呼吸をした。

 後ろの扉から入ってきた松本は、前回のクラスから一緒だろうと思われる子と会話を交わし終え、笑顔で挨拶をしてきた。「おはよう。君が渡辺君で合ってたかな。はじめて一緒のクラスになるね。私は松本椿っていうから好きなように呼んでね、よろしく」その言葉と一緒に華やかな香りがした。椿の香りだったりするのだろうかと考えを巡らせた僕から出たのは、「よろしく」の一言だけだった。

 彼女はどうやら噂通りの人柄で、学級委員に推薦され、クラスの誰とでもすぐに仲良くなった。僕は彼女の後ろの席ということもあって、毎日挨拶するし、プリントを配るときには少し悪戯をされたりと、普通のクラスメイトに徹していた。

 松本はたまに空っぽのグラスを思い浮かべているかのような顔で窓の外を眺めていたのをよく覚えている。松本を意識するようになったのはそれに気づいた時だったかもしれない。思い返せば、友人に囲まれて会話をしているとき、ふとお面をつけたかのように強張った表情をするときがあった。その表情は僕に似ているなと感じた。僕も、明るく振舞うようにしているが真に笑みがこぼれるのは数日に一度あるかで、普段は常に笑顔を作っている。そんな僕は松本に好意に近い親近感が湧いた。それからというもの、僕と松本はよく話すようになった。


 気づけば秋学期を迎えていた。三年C組は年に一回だけ席替えをするらしい。担任曰く面倒だからだそうだ。僕は奇跡的な運で席替え後も同じ席のままであったから、よく松本が話しかけに来た。僕らがよくする話題は歴史だ。特に戦国武将の話で盛り上がり、上杉謙信が好きな僕対真田幸村が好きな松本という構図はクラスの誰もが認知するようになっていた。とはいえ上杉家の家臣である真田家を歴史の授業で知っていたから、争いなど起こらず、双方を永遠に褒めたたえる休み時間を過ごしていた。

 この頃になってくると僕はよくため息をつくようになった。悩みの種は二つある。東京の大学へ行くことへの不安と、松本を好きになってしまったことだ。よくある話だ。引き寄せの法則だか何だか知らないが、人は接触回数の多い相手を好意的に受け取りやすくなるのだという。帰り道が一緒なことも、僕が松本を好きになることに拍車をかけた。

 午後五時を過ぎた夕景に逆光になった彼女の横顔は、幻想的という枠を超えていた。

「渡辺は進路東京なんだってね。結構な人はこの地域に残るし、行っても隣県だったりするのに、どうして東京に行こうと思ったの」

「僕が歴史に興味をもっているのは知っているだろう。今はまだわかっていることしか知らない。だから何がわかっていないのかを知って、それについて研究したいんだよ。主に戦国時代と呼ばれる時代についてに限るけどね。東京は単純にそういった機関が充実していると思ったからっていう漠然としたものしかないけどね」

「それ本気だったんだね。私はこのまま近い大学にいって何かしらの資格は取ろうと思うけど、なにがしたいかはまだわからないかな。君が近くにいなくなるのは少し寂しいね。せっかく仲良くなったのに」

 僕はどうやってこの感情を言葉にすればいいかに詰まった。結局口からでたのは、「そうだね」の一言だった。松本と一緒にいたいと本心から思っているからこそ、ここを離れたくないと思ってしまう。

 しかし、現実問題、彼女が僕に好意があるかはさておき仮に恋人になったとして、そこには何が残るというのだろうか。彼女はこれから夢を見つけるといっているが、平凡に会社員として社会に出ていくかもしれない。その選択は彼女自身がすることであって、僕の影響下にあってはいけない。それに、彼女と一緒になろうとしてここに残った場合、僕は自分のやりたいことを天秤にかけるだろう。その時僕はきっと彼女を優先するし、歴史の研究なんて二の次になるに決まっている。

「はぁ」

 思わずため息が漏れてしまった。松本の方を見ることができない。彼女は今どんな表情をしているのだろうか、僕はどんな顔になっているのだろうか。この気持ちが実ってしまえばきっと、僕はここに残る選択をしてしまうだろう。僕はこの時、東京に行くことを確固たるものとした。そして松本には、この気持ちを明かさないと決めた。

 僕は一人っ子だ。家族は父母のみで、両親ともに実家とは縁を切っているらしく、祖父母や親戚とは会ったことが無い。そんな親だ、この地はただ両親が偶然にもここで結婚したから住んでいただけで執着が無い。僕が東京に行くと言うと、父は三人で東京に引っ越した方が都合がいいと言った。

 卒業が近付き、クラスのほとんどは進路が決まった。僕も例にもれず、東京の歴史研究が盛んな大学への入学が決まっていた。松本も地元の大学への進学が決まったそうだ。東京へ行くのはどうやら僕だけらしいというのはその時に知った。

「たまにはこっちに帰ってきたりしないの」

 彼女がそう言った時、そこにはどこか悲しげな表情を隠しているように見えた。それは純粋に友のことを想っているように感じた。

「どうだろう」

 僕は曖昧にしか返事をしなかった。きっぱりと断ってしまえば、彼女と会うことはもうないだろうと思う。かといって肯定してしまえば、相手に期待を持たせることになりかねない。その迷いはそのまま曖昧な答えという形に昇華されてしまったのだろう。

 卒業を迎えた。僕は親の教育方針で携帯電話を持っていなかったから、みんなとの写真は取らなかった。当然今後、彼らと何かしらの形で連絡を取れるようにはなるだろうが、僕は家族での引っ越しのことや、こちらに帰ってくる可能性の話は全くしなかった。

「またね」

「うん、またどこかで」

 僕と松本の会話は、その一言しかなかった。卒業証書とアルバムを受け取った僕は、家族とそのまま都内のマンションに向かった。

 

 大学に入ってから、同じ授業ー「歴史学入門」ーを受講していた男子四人に、僕を足した五人でよく行動を共にした。僕の通う大学では二年生からゼミが始まる。もう入るゼミは決まっている。戦国時代を専門にした「川崎ゼミ」(以下ゼミと呼ぶ)だ。一年生の後期にはもうゼミ選考があり、入る気しかしていなかった僕は(謎の自信とかいうあれだ)、4倍ほどの倍率を乗り越えそのゼミへの入講が決まった。

 ゼミの選考が終わり、川崎教授は新規で入るメンバーを集め懇談会を開いた。そこで、僕の心は乱されてしまった。松本?いや、確かに松本だ。顔を見間違えるはずがない。僕は気づいたらその手を取ってしまっていた。

「松本、なんでいるんだ。君は地元の大学に行くんじゃなかったのか」

 驚いた彼女は固まってしまった。何分か、いや何十分も経ってしまったかのような二人の間に、空を切った彼女の言葉は僕をさらに驚かせた。

「なんで私の名前を知っているの。初対面の手を掴んでくるなんてどんな田舎から出てきたのよ」

 全く、僕は何をしているんだ。話を聞くと、彼女の苗字は松本だそうだ。名前は「雨」。椿じゃない。松本は松本でも、僕が知っている彼女ではなかったのだ。だが、本当にそうなのかと疑いたくなるほどに、彼女は松本だった。その目を知っているし、声も知っている。髪の長さも、その椿のような香りも、僕の肩程に収まるその身長も、服装の好みだって、大抵のことは知っている。やはりこれは松本に違いないと思い、出身も聞いたのだが東京とその松本は答えた。

 僕は興味が出た。なんせ、この松本も、あの松本と同じように真田家が好きなのだから。僕は松本をデートに誘った。彼女も快くそれを受け入れた。一緒にいる時間が男子五人組より増えるほどに。


「どこにいきたい」

「二人でゆっくりできるところがあればどこでも」

 困った。僕はこういう時どこに行ったらいいのかの選択肢をもっていない。よく行く喫茶店ならある。大学の最寄駅から、向かいの路地を行った先にある。以外にも隠れ家的な位置をしているため、大学の近所であるにも関わらず人気はない。大学に入ってから始めた煙草も吸えるし、コーヒーはブラジルを基調としたものにケニヤとモカを加えたブレンドで僕好みだった。

「喫茶店はどうかな。煙草も吸えるし、ゆっくり話せる場所だよ。僕ら以外におそらく同じ大学の人は来ない」

「いいね、それ。煙草吸うんだ。私も吸うよ、セブンスターの7ミリ。珍しいでしょ」

「僕はマールボロだよ。8ミリの方ね。珍しさなら負けないよ」

 行先は決まりだ。


 店に入り、僕は”いつもの”コーヒーを、いつもとは違う二つでお願いした。灰皿は一つ。マスターは珍しそうに僕らを二度見した。いつもとは違う松本の存在は、その空間で一人異彩を放っていたように感じる。

「ここにはよく来るんだ。常連さんもみんな一人で来るから二人組のお客さんでマスターもびっくりしたんだろう」

「君と一緒にここに来る人は私が初めてかな」

「そうなるね」

「嬉しい、ほんとに」

 不思議な気持ちだった。僕は松本とデートと呼ばれるようなことは一度として無かった。でも、目の前には松本がいる。厳密にいえばそれは違う彼女ではあるのだけれど、松本は松本なのだ。

「あなたは私といる時、違う私を見ているような気がするんだけど。それなんというか、どういえばいいのかわからないけど、は誰と話しているの」

「僕は松本と話しているよ」

 彼女は困った顔をした。でも僕はもっと困っているんだ。

「雨。私には雨って名前があるの。しんや君には名前で呼んでほしいの」

「いいよ、雨」

 その後は延々と戦国時代の話をした。違うのはその相手が松本ではないこと。「椿」ではなく、「雨」であるという点だ。

 一つ変わったことは、それから僕らは名前で呼び合う関係になったことだ。それ以上でもそれ以下でもないただ一端の友人という関係のままで。

 ゼミでは、というより学部内では、僕と松本の関係を友人を超えたものと捉えている人が多くいた。それは事実であれば何より嬉しいことなのだが、僕は踏み出せる気がしない。なにせ、僕が恋慕を抱いているのは「椿」だからだ。

 

「君らは相思相愛に見えるけどな」

 普段口を閉ざしているマスターが言った。本当に急なことで僕は咽せた。

「急に何を言うんだよ。一回しか見たことないだろう」

「彼女はよくうちに来るよ。それも君がいないことをわかって、いつも2人で来た時の席に座って30分ほどで出ていく」

「それ本当かい」

「もちろん」

 僕はどうやら思い違いをしていたようだ。その確信が頭を駆け巡っている。松本は-雨は-僕に恋をしている。胸焼けがする。


「しんや君、ちょっといいかな」ゼミが終わったところで雨が声をかけてきた。初夏の風が大学を吹き抜けていき、ジメジメとした日本の気候にはそぐわない爽やかな波が包んでいく。

「お昼にしよう」彼女は笑顔になる。

 僕らはカレーを食べた。この大学は中辛のカレーしかないから僕は苦手だが、今はこれを食べなくてはならない気がした。

「あそこに行こう」僕は喫茶店へ誘った。


「わかるわ、言いたいこと」察したような目つきで煙を吐く彼女はどこか艶やかだった。くるぶしの内側にあざがある。これは椿とは違うだろうか、いや彼女にもあるかもしれない。思い返せば、僕は"松本"のくるぶしの下を見たことがなかった。

「なんだと思う」ぶっきらぼうに返す。

「あなたは私とは結ばれない。それに、もう1人の私とも結ばれないわ。初めて会った時から私ではないもう1人の私を見つめているのね」

「なぜーー」

 言葉に詰まった。

「長い夢を見たわ。あなたと一緒に過ごしている未来の景色が映っていたの。でも、鏡はそこに私ではない私を映していたの、顔が違ったのよ。それでハッとしたの。彼は私なんか見ていないって。でも貴方の目は確かに私を見ているの」

「そうか」それしか口に出なかった。

「私たちにこれからは無いわ。これまでも無いの。わかるでしょう、あなたのことだから今ここまで私が名前であなたを呼ばなかったことくらい」

「そうだね」

「御伽話はお終いよ」

「どうやらそうみたいだ」


 「椿」を思い出す。彼女は今どうしているのだろうか。手紙を出してみようと思い立つ。筆が乗らない。手はタバコに火をつけることを当たり前のようにする。口に出す。

「後悔先に立たずとはこれまさに、と」


「俺は松本が好きだったんだよ。告白する前にいわゆる好きバレってやつでさ、酷く振られちまったよ。二兎を追うものは一兎をも得ずってか」

「おいおい、二人も追っかけてたのか信也」

 口が滑ったな。酔いが回ってるみたいだ。酒の勢いで赤面を誤魔化し、涙を誤魔化し、事実を霞ませてその場を乗り超えた。


 翌週のゼミで教授が放った一言に、僕は酷く混乱した。雨が亡くなったのだ。彼女の中に何があって、如何様にしてその道を選んだのか想像もつかない。それでもなお僕の頭の中には「椿」があった。

 高校時代よく椿が通っていた食堂に電話をかけてみたが、彼女は最近その店には顔を出していないらしい。これで二重に詰んでしまった。僕は雨の死の真相を知らないし、椿の現在もわからない。


 ふと夢を見た。二人の松本が僕を見ている。雨は高層ビルを背景に僕を見つめ椿は河原を背にこちらに微笑んでいる。どちらにも恋をしてどちらをも失ってしまった。溜息が出た。

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