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09.不器用な恋心


 春の陽気に包まれたノールガール辺境伯領。吹き抜ける風はまだ冷たいが、雪解け水が小川を満たし、草木の芽吹く音が聞こえてくるような静かな朝だった。しかし、辺境伯邸の執務室は、穏やかな朝の光とは裏腹に、ある種の緊張感に包まれていた。


「――……これで、本当に良いのか?」


 ゼノ・ノールガールは、何度目か分からない問いを自分に投げかけながら、執務机の上に置かれた銀の盆を見つめていた。盆の上には、一輪の白いスズランと、ゼノ自らが書いた手書きのカード。そして、屋敷の厨房に無理を言って用意させたミネットの好物――サブレ・ヴァニーユの詰め合わせが載っている。完璧な角度で添えられたスズランの花弁は、まだ朝露に濡れているかのようだった。


(いや、これは……良いのだろうか? いや、良くないのでは?)


 ゼノは、自分の行動に自信が持てずにいた。彼は、ミネットとの距離を縮めたいと強く願っていたが、そのアプローチは常に不器用で、空回りばかりしているように感じていた。


 カードには、ゼノ自らの筆で、ぎこちないながらも丁寧な文字が綴られていた。彼の武骨な指が、慣れないペンを握りしめ、一文字一文字を慎重に書き記した跡がそこにはあった。


 《春の香りが貴女の微笑みに似て美しい。どうか、これを甘やかしの一粒として受け取ってほしい。

 ――ゼノ》


 彼は、この言葉を考えるのに、昨夜一晩中悩んだ。詩的な表現を心がけ、ミネットが喜ぶであろう言葉を選んだつもりだった。


(……やはり、これは……やりすぎだったかもしれない)


 気恥ずかしさに顔を覆いたくなるのをこらえながら、ゼノは一つ、深く息を吐いた。彼の頬は、微かに赤く染まっていた。


「辺境伯閣下、それ……また何か、ロマンチック作戦ですか?」


 背後から聞こえた声に、ゼノは肩をぴくりと跳ねさせる。彼の感情が顔に出やすいことを知っているのは、長年彼に仕えている執務官ハルトだけだった。


「……ハルトか」


 ゼノは、ばつが悪そうに振り向いた。執務官ハルトは、いつものように無表情に、しかしほんのり困ったような眉の角度で、銀盆の上を覗き込んだ。彼の視線は、スズランの花から、ゼノの筆跡が残るカードへと移った。


「春の香りが貴女の微笑みに……。閣下、それ、詩のつもりなんですか?」


 ハルトの率直な言葉に、ゼノはたじろいだ。


「……いや、違う。詩ではない。断じて詩ではない」


 ゼノは、必死に否定した。彼にとって、詩などというものは、戦場の記録や民政の報告書とは全く異なる、縁遠いものだったからだ。


「ですが、毎朝花を贈るのは、そろそろ“なにかの儀式”に見えてきます」


 ハルトの言葉は、まるで真実を突く槍のようだった。毎朝、ゼノはミネットの部屋の前に花と菓子を置いていた。それは、彼の不器用な愛情表現だったが、第三者から見れば、確かに「儀式」のように見えるだろう。


「……そうか?」


 ゼノは、困惑気味に眉を寄せた。彼なりに「距離を詰めよう」と思っての試みであった。ロマンチストな心が囁いた言葉を、行動に移しただけなのに。なぜ、こんなにも理解されないのだろうか。


(だが、どうしてこうも上手くいかないのだろうか……)


 あの麗しい令嬢――ミネット・ヴィルネール元侯爵令嬢、現ミネット・ノールガール。気まぐれで、自由奔放で、時に鋭く人の核心を突いてくる彼女に、ゼノは出会ったその日から翻弄され続けていた。彼女の笑顔一つで心が揺さぶられ、彼女の言葉一つで思考が停止する。


「なにか……喜んでもらえると思ったのだがな」


 ぽつりと漏らすように言うと、ハルトは小さく溜息をついた。その溜息には、諦めと、そして主に対するかすかな同情が込められていた。


「閣下。お気持ちは分かりますが……たぶん、それ、ぜんぜん伝わってませんよ」


 ハルトの言葉は、ゼノの心の奥底に突き刺さった。


「……そうか」


 ゼノは、がっくりと肩を落とした。彼の努力は、ミネットには届いていなかったのだ。


「伝わってたら、とっくに反応があるはずです。エリーゼ嬢も昨夜、“おかしいわ、あの人、また花を贈ってきたのよ。しかも詩付きって、無愛想ゴリラが書いた詩よ?! ”って、言ってました」


 ハルトは、エリーゼの言葉を正確に再現した。彼の表情は依然として無表情だったが、その言葉には、エリーゼの呆れと、そしてどこか楽しげな響きが込められていた。


「……無愛想ゴリラ?」


 ゼノは微かに顔をしかめた。そのあだ名が、自分に向けられていることを理解するのに、時間はかからなかった。


「そう、エリーゼ嬢が言ってました。きっと愛称ですよ」


 ハルトは、真顔で答えた。彼の天然な発言に、ゼノは頬をひくつかせながら、銀盆を見つめ直した。そこには、完璧な角度で添えられたスズランと、彼なりに丁寧に選んだ菓子たちが並んでいる。


(だが、どうしてだ。なぜ、伝わらない……?)


 彼は、自分の不器用さに、再び絶望しかけていた。ミネットに自分の気持ちを伝えることが、これほどまでに難しいとは。




 一方そのころ、ミネットは居間の窓辺で、春の日差しを浴びながらぼんやりと銀盆の中身を眺めていた。彼女の膝の上には、猫のクロが丸まって、穏やかに喉を鳴らしている。


「……また来たわよ。これで九日連続ね」


 ミネットは、銀盆に置かれた花とカードを手に取りながら、呟いた。その声には、呆れと、そしてかすかな困惑が混じっていた。


「白い花に、お菓子、そしてまた“詩”ですね」


 エリーゼが盆を覗き込み、目を細めた。彼女は、ミネットの言葉に同意するように頷いた。


「詩っていうか……なに? 恋文? お供え? それとも、季節のご挨拶?」


 ミネットは、カードに書かれたゼノのメッセージを読み上げた。彼女の口元には、困惑と、そしてわずかな笑みが浮かんでいた。ゼノの言葉は、詩とは言い難く、かといって恋文というにはあまりにも不器用だったからだ。


「んー。さすがに九日目ともなると……ねぇ、エリーゼ。これって、彼なりに“アプローチ”ってことかしら?」


 ミネットは、エリーゼに顔を向け、問いかけた。彼女は、ゼノの行動の意図を測りかねていたが、彼の不器用な努力は感じ取っていた。


「え、これが?」


 エリーゼは、ミネットの言葉に驚いたように目を丸くした。彼女にとって、ゼノの行動は、ただの「奇妙な習慣」としか映っていなかった。


「うん。だって、なんとなく……“頑張って距離を詰めようとしてる人”の行動に見えない?」


 ミネットは、ゼノのぎこちなさの中に、彼の真摯な努力を見出していた。彼の不器用な行動の裏に隠された、純粋な好意に、彼女は少しずつ気づき始めていたのだ。


「……どちらかというと、“距離を測り違えたお供えもの”に見えますが」


 エリーゼは、正直な感想を口にした。その言葉に、ミネットはくすりと笑い、スズランにそっと指を触れた。花びらは、まだひんやりとしていた。


(でも……なんとなく、なんとなくだけど。嬉しくないわけじゃない)


 ミネットの心は、ゼノの不器用なアプローチに、静かに、しかし確実に反応し始めていた。彼の試みが、完璧な「ロマンチック作戦」ではなかったとしても、その中に込められた彼の真摯な気持ちは、彼女に伝わり始めていたのだ。


「……本当に、不器用な人ね」


 その呟きを、誰も聞くことはなかった。彼女の心の中で、ゼノという存在が、少しずつ、特別なものへと変わりつつあった。




 その夜。ゼノは、またしても反省していた。


(どうして、こう……もっと自然に振る舞えないのだろうか)


 彼は、昼間のミネットとの会話を思い出し、頭を抱えた。自分の言葉はいつも空回りし、彼女に自分の気持ちが全く伝わっていないように感じていた。


 ミネットとの距離は、少しずつだが縮まってきている気もする(だけ)。屋敷内で顔を合わせれば、ミネットは以前よりずっと柔らかな笑顔を見せるようになっていたし、彼女の発案で進められている“屋敷改革案”にも、彼女なりの誠意が感じられる。カリーナとの関係も、以前のような緊張感は薄れ、協力し合っているように見えた。


(なのに、肝心なときに……いつも、空回りだ)


 ゼノは、机の引き出しから数枚の便箋を取り出した。そこには、ミネットのために考えた“次なる作戦”の草案が書かれていた。彼の筆跡は、昼間のカードよりもさらにぎこちなく、何度も書き直した跡があった。


 《春の夜風に舞う、君の髪を思い出して眠れぬ夜を過ごしている。明日もまた、君の笑顔に会えますように。》


 彼は、この言葉がミネットにどのように伝わるかを想像し、胸が苦しくなった。


「……やはり、これは……やりすぎか?」


 ゼノは、自らの言葉に自信が持てず、思わず声に出してしまった。


「あー……やりすぎですね。ていうか、ポエムになってます」


 再び、背後からハルトの声が聞こえた。ゼノは、いつからそこにいたのかと、思わず尋ねた。


「……ハルト。いつからそこにいた」

「最初からいますよ。閣下、ロマンチックというより、もはや“文通の一方通行”になってます」


 ハルトの的確な指摘に、ゼノは額を押さえ、椅子にもたれかかった。彼の心は、絶望と、そしてかすかな諦めに満たされていた。


(どうしたら、伝わるのだろうか……この気持ち)


 彼はただ、彼女に“心地よい場所”を作ってやりたかった。花でも、お菓子でも、言葉でもいい。北国のこの堅い石の屋敷で、彼女が笑える瞬間が増えるなら――。彼の心は、ミネットの幸せを純粋に願っていた。


(……違う。そうじゃない。私は……ただ、彼女に――)


 その先の言葉は、まだゼノの口から出ることはなかった。それは、彼自身もまだ完全に自覚していない、深い感情だった。


 けれど。その不器用な行動のすべてが、少しずつ、ミネットの心に何かを残しはじめていることに、彼はまだ気づいていない。彼の想いは、ゆっくりと、しかし確実に、辺境の春風に乗って、ミネットの心へと届き始めていた。

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