08.王家の影と近付きたい心
春風はまだ柔らかく、けれど屋敷に届く風は、王都からの遅れた便りだった。辺境伯邸の応接間。ミネットは、カリーナとエリーゼを伴い、午後の穏やかな陽光の中で紅茶を嗜んでいた。その静けさを破ったのは、カリーナの手元で封を切られた一通の書状だった。それは、王都の貴族間で交わされる情報網の一端であり、貴族たちの近況を伝えるものだった。
「ラファエル殿下がまた……ですか」
カリーナの口から漏れた名に、ミネットの表情がわずかに強張る。ゼノには直接の関わりはなくとも、ミネットには一際強い響きをもたらす名だった。
「……舞踏会で侯爵令嬢と手を重ね、その後、夜の庭園でふたりきりだったとか」
カリーナは、書状の内容を淡々と読み上げる。その声には、貴族の社交界に対する、ある種の諦めと冷徹さが滲んでいた。
「侯爵令嬢だけじゃありません。侍女に至るまで、数名が“秘密の言葉を囁かれた”そうです」
エリーゼが、さらに具体的な情報を付け加える。彼女は、王都の社交界の情報にも明るかった。
「……まるで詩人でもあるかのようね」
ミネットは、手にしていた白茶のカップをそっと受け皿に戻した。その指先が、微かに震えている。
(――ああ、また始まったのね。王都では、あの人の“美しい言葉”が今日も誰かを夢中にさせているのだわ)
彼女の口元を歪めたのは、苦笑とも言えない、僅かな諦めだった。それは、過去の苦い記憶が、再び彼女の心に蘇った証拠だった。
「ご気分が優れませんか、奥様」
エリーゼがすぐに察して、心配そうに声をかける。ミネットの顔色が、わずかに青ざめていることに気づいたのだ。
「ええ……少しだけ、記憶が疼いただけ」
ミネットは、無理に微笑んだ。その視線は、遠い王都の空を見つめるように、ぼんやりとしていた。
それはまだ、彼女が「ヴィルネール侯爵家の令嬢」として、社交界に出始めた頃のこと。ミネットは、王都の華やかな社交界に身を置く中で、将来の伴侶を見つけるという、貴族の娘としての役割を全うしようとしていた。
王宮からの召喚状が届いた、ある日の午後――ミネットは、王宮の奥の間で、ラファエル第二王子と初めて対面した。
しなやかな身のこなし、整った顔立ち、柔らかな口調。彼は、絵に描いたような王子様だった。誰もがうっとりと見惚れる魅力を持ち、彼の周りには常に華やかな女性たちが群がっていた。彼の口から紡ぎ出される言葉は、まるで蜜のように甘く、人々を瞬く間に魅了した。だが、ミネットは出会ってすぐに悟った。
(この人は、私を“飾りたい”だけ)
彼は手を差し出し、微笑んだ。その手は、まるで飾り物のように美しかった。
「君を、僕の第一夫人にしてあげる」
その言葉は、まるで花束を贈るかのように、軽やかに、そして無責任に紡ぎ出された。
「……第一?」
ミネットは、思わず聞き返した。彼女の心には、不穏な予感が広がっていた。
「そう。美しい人は他にもたくさんいるからね。君は聡明そうだから、彼女たちをまとめるのにふさわしい。僕のハーレムにようこそ」
ラファエルの言葉は、彼の本質を露わにした。ミネットは、彼にとって、ただの「ハーレムの一員」であり、他の女性たちを管理するための「器」でしかないのだと理解した。彼女の個性や感情は、彼にとって何の意味も持たなかった。
その時の自分がどう反応したか、ミネットはよく覚えていない。ただ、袖口を握りしめた手が小刻みに震えていたのは確かだった。彼女の心は、絶望と怒りに打ち震えていた。
(――私は、ただの“器”なの?)
心を求めていたわけではなかった。ただ、“対等な関係”を望んだだけなのに。彼からの一方的な価値観の押し付けに、ミネットの心は深く傷ついた。
その瞬間から、ミネットの心は、ラファエルという存在を「過去」に置いた。彼からどんなに甘い言葉をかけられようと、どんなに魅力的な笑みを向けられようと、彼女の心は二度と動くことはなかった。彼は、彼女にとって、ただの「虚飾にまみれた男」でしかなかったのだ。婚約の打診があると聞いたときも、頑なに拒否の姿勢を保っていたら、いつの間にか彼の話すら聞かなくなっていた。
「……ミネット様? 窓の外をずっとご覧になって……」
エリーゼの声に、ミネットは我に返った。彼女は、いつの間にか、王都の遠い空を見つめていた。
「え?」
ミネットは、目の前の現実へと意識を戻す。エリーゼとカリーナが、心配そうに自分を見つめているのが見えた。
「……ああ、ごめんなさい。気分転換をしたいの。――屋敷の改革案、今日こそ本格的に始めましょう」
ミネットは、過去の記憶を振り払うように、自らを奮い立たせた。王都の虚飾に満ちた世界とは異なり、この辺境の地では、自分の意志で何かを変えることができる。その喜びが、彼女の心を再び奮い立たせた。
「奥様……!」
エリーゼが嬉しそうに頷く。彼女は、ミネットが再び活力を取り戻したことに、心から安堵していた。カリーナも軽く目を細めて、ふたりに従う形で腰を上げた。彼女の表情には、以前のような冷徹さはなく、どこか期待の色が滲んでいた。
三人で向かったのは、かつてゼノの母が使っていたという、使われていないサロンだった。埃を被り、古びた家具が置かれたその場所は、長らく放置されてきたことを物語っていた。
ミネットは、床を見て、壁を見て、香炉の跡まで確認すると、にっこりと笑った。その場所が持つ可能性を、彼女は瞬時に見抜いていた。
「ここを女性たちの集える場所にしましょう。紅茶や刺繍、簡単な読書、音楽もあっていいわ」
ミネットの言葉に、エリーゼの目が輝いた。それは、この屋敷に、王都の貴族邸のような華やかさと温かさを持ち込もうとするミネットの意志の表れだった。
「女主人の間……というわけですか?」
カリーナが、確認するように尋ねた。
「そうね。でも、使用人たちも立ち寄れるようにしたいの。“隔てる場所”ではなく“共有する場所”に」
ミネットの言葉に、カリーナの表情がわずかに強張る。使用人と主人が同じ空間を共有するという発想は、この屋敷では考えられないことだったからだ。
「奥様、それは少々……」
カリーナは、戸惑いを隠せないでいた。長年培ってきた規律と秩序が、ミネットの言葉によって揺さぶられようとしているのだ。
「ええ、反発はあるでしょうね。でも、やってみる価値はあるわ。人が心から落ち着ける空間が、この屋敷にはまだ足りていないの」
ミネットの指先が、古びたカーテンに触れた。そのカーテンは、屋敷の隅々まで行き届いた、しかし冷たい秩序の象徴のようだった。彼女は、そのカーテンをそっと開け放ち、新しい光を屋敷に差し込ませようとしていた。
「そして、温室は西棟から南へ移しましょう。日照の関係と動線が悪いもの。花を大事にするなら、まず場所から整えないと」
ミネットは、次々と具体的な改革案を口にした。彼女の頭の中には、すでに新しい屋敷の青写真が描かれているようだった。
「動線……ですか?」
カリーナは、ミネットの言葉に驚きを隠せないでいた。彼女の視点は、カリーナの「効率性」とは異なる、「人の動き」という視点だったからだ。
「ええ。カリーナ、貴女と私とで、全動線の再点検をしない?」
ミネットは、カリーナに共同作業を提案した。それは、彼女を「排除」するのではなく、「共に」この屋敷をより良くしていこうという、明確なメッセージだった。一瞬、カリーナが固まる。
(ああ、また侯爵令嬢の戯れと思われるかしら)
彼女の脳裏には、過去の苦い経験が蘇る。長年、屋敷を切り盛りしてきた彼女は、常に「女主人の代わり」という意識があった。ミネットの介入は、その立場を脅かすものだと感じていたのだ。
そう思ったが、カリーナはやがて静かに頷いた。その表情には、迷いと、そして微かな期待が混じっていた。
「……承知いたしました。奥様」
その言葉には、これまでのような冷徹さはなかった。そこに確かな「変化」があった。ミネットとカリーナの間に、新たな信頼関係が芽生え始めた瞬間だった。
その日の夕刻、ゼノは中庭を歩いていた。春の風が、彼の髪をそっと撫でていく。
少し離れた位置に、エリーゼが古地図を手に、ミネットとカリーナが並んで何やら議論をしているのが見えた。ミネットが身振り手振りで何かを説明し、カリーナがそれに真剣に耳を傾けている。二人の間には、以前のような緊張感はなかった。
(……何かが変わりつつある)
ゼノは屋敷の空気の変化を肌で感じていた。それはミネットがもたらした、確かな変化だった。
(だが、私は――何かしてやれただろうか)
彼は自問自答した。ミネットは、自分の力でこの屋敷に新しい風を吹き込んでいる。しかし、自分は、彼女に対して何もできていないのではないかという焦りが、彼の胸に募っていた。
ミネットの言葉はどこか誤魔化しがなく、まっすぐで、凛としていた。彼女の強さ、そしてその奥に潜む優しさに、ゼノは心を惹かれていた。
それを「支える」ことは、容易ではないのだと改めて思う。彼の不器用さは、彼女の軽やかさとは対照的だった。
(私は、彼女に相応しい“伴侶”であり得ているだろうか?)
ゼノの心には、これまで抱いたことのない、深い感情が芽生え始めていた。それはミネットへの尊敬と、そして彼女の隣にいたいという、純粋な願いだった。
風が彼女の髪をさらう。その姿は、まるで自由な精霊のようだった。
彼女が過去に出会った男――ラファエルのように、軽やかな言葉で人を惑わせるような男では、自分はない。彼は、自分の不器用さを痛感していた。しかしそれは同時に、彼の誠実さの証でもあった。
(だが、それでいい。私は、彼女の隣で、彼女と同じ歩幅で、共に変わる道を選びたい)
ゼノの心に、確固たる決意が芽生えた。彼は、ミネットの隣で、彼女と共に成長していきたいと願っていた。それは、彼の人生における、大きな転換点だった。
少しずつ、少しずつ。春の屋敷が芽吹くように。心の距離もまた、目に見えないまま、確かに近づいていくのだった。