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07.不器用な歩み


「……よし、今度こそ自然に……」


 朝の身支度を終えたゼノは、執務室の鏡の前で自分の襟を何度も直していた。普段なら、使用人に任せるようなことまで自分の手で整え、鏡に向かってひと呼吸。彼の額には、普段の軍務では見せないような、微かな汗が浮かんでいた。


(――朝の食卓、彼女に少し、話しかけよう)


 彼は、昨夜からそのことばかり考えていた。ミネットと「自然な会話」を交わすこと。それは、彼にとって、北方の未開の地を攻略するよりも難しい課題のように思えた。


 たわいない会話でいいのだ。天気の話でも、花の話でも。いや、花は軽率か? あまり軽薄に思われても困る……。ゼノは、言葉を選ぶことに必死だった。彼にとって、感情を言葉にすることは、常に困難なことだった。


(そもそも、彼女はあれを喜んだのか……?)


 数日前、彼は書斎に花を飾った。ミネットが中庭に新しい苗を植える姿を見て、何か返したくなったのだ。彼女の好みを思い出し、あれこれ選んで――だが、それを見た彼女は、「まあ、きれいですね。エリーゼが気づいて喜んでいましたよ」と微笑んだだけだった。


(……エリーゼが? ……いや、いや、そうではない)


 ゼノは手を額に当て、静かに深呼吸した。脳裏に、エリーゼの屈託のない笑顔が浮かぶ。もちろん、エリーゼが喜んでくれたことは悪いことではない。だが、彼が意図したのは、ミネットの心に直接触れることだったのだ。


(いかん。私が喜ばせたかったのは、エリーゼではない……)


 重症だった。彼は、自分の感情の不器用さに、密かに絶望しかけていた。ミネットの心を掴むどころか、会話すらまともにできない自分に、苛立ちすら覚えていた。




 朝食の席。窓から入る春の光が食卓を照らす。柔らかな陽光が、ミネットの白銀の髪をきらきらと輝かせている。


 ミネットは丁寧に紅茶を口に運んでいた。その姿は優雅で、まるで絵画のようだった。ゼノはといえば、前夜に「自然な会話」を脳内で何百回もシミュレーションしていたせいで、逆に挙動不審になっている。彼の手はカップを持つたびに震え、視線はミネットと食器の間をさまよっていた。


「……あの」


 意を決して、ゼノが口を開いた。彼の声は、思ったよりもずっと小さく、掠れていた。


「はい?」


 ぱちりとまつげを瞬かせ、ミネットが振り返る。微笑を浮かべたその顔に、ゼノは一瞬固まった。そのアイスブルーの瞳は、ゼノの心の奥底を見透かすかのように、彼の心臓を締め付けた。


(だめだ、なんだその目は。可愛い……いや、今は言うな)


 彼は、心の中で必死に理性を取り戻そうとした。ここで感情的になってはならない。


「えっと……その、昨日の……あの、花は……」


 彼の言葉は、支離滅裂だった。花について話そうとしたのに、なぜか言葉が続かない。


「花?」


 ミネットが、首を傾げる。彼女の表情は、完全にゼノの言葉の意図を掴みかねているようだった。


「いや、ちが……ちがわない。ちがわないが……昨日、屋敷の西棟に、あの、君が植えていた花を見かけて……」


 ゼノは、さらに言葉を重ねようとするが、ますます混乱していく。彼の頭の中では、何百もの言葉が飛び交い、適切なものを選び出すことができない。


「まあ、西棟まで行かれたんですの?」


 ミネットは、驚いたように尋ねた。西棟は、使用人たちの通路に近く、ゼノが普段立ち入らないような場所だったからだ。


(ちがう、そうじゃない、何かおかしい!)


 ゼノは思ったよりずっと声が上ずってしまい、言いたいことがするりと手のひらをすり抜けていく。彼の言葉は、まるで糸の切れた凧のように、どこかへ飛んでいってしまった。彼女の反応は決して冷たいものではなかったが、彼が望んだような「距離の縮まり方」ではなかった。むしろ、二人の間に、目に見えない壁がそびえ立っているかのように感じられた。ミネットは、くすっと笑った。その笑い声は、彼の失敗を責めるものではなく、どこか優しさに満ちていた。


「辺境伯様、今朝は少し落ち着きがありませんね」


 ミネットは、彼のぎこちなさに気づいていた。彼女の言葉は、まるで彼の心を読み取っているかのようだった。


「……そう見えるか?」


 ゼノは、正直に尋ねた。


「ええ、少しだけ」


 ミネットは、優しく微笑んだ。


(――可愛く、ではなく、間抜けに見えたのではないか?)


 そう考えてしまう自分に、ゼノは密かに頭を抱えた。彼の頭の中では、自己評価と他者評価が激しく衝突していた。


(……ロマンチックに、とはいかないものだ)


 彼は、再び自嘲した。彼の不器用さは、まるで彼のトレードマークのようだった。だが、この不器用さこそが、彼の真摯さを表しているのだと、ミネットは薄々気づき始めていた。




 その日の午後、屋敷の空気にまた一つ、新たな変化が起きていた。それは、ミネットがメイド頭カリーナのもとを「訪れた」ことで始まった。使用人たちがそっと耳を澄ませる中、応接室の一角で、ふたりの女が静かに向き合う。春の陽光が差し込む部屋で、二人の間には、見えない氷壁がそびえ立っているかのように見えた。


「カリーナ、少しだけ、話をしても?」


 ミネットの声は、いつものように優しく、しかし確かな意志を秘めていた。


「……かしこまりました。奥様」


 カリーナの声は、相変わらず冷たく、事務的だった。その声に、ミネットは微かに眉をひそめた。


(また“奥様”と呼ぶのね。意地でも距離を保ちたい、という意思表示)


 ミネットは、カリーナの警戒心を肌で感じていた。彼女は、ミネットを「侵入者」として捉え、屋敷の秩序を守ろうとしているのだ。けれど、今日はそれを責めに来たのではない。ミネットは椅子に座ると、膝に両手を置いたまま、まっすぐにカリーナの目を見つめた。


「……貴女が、この屋敷をずっと支えてきたこと、私、理解しているつもりよ。尊敬もしている」


 ミネットの言葉は、カリーナの長年の努力を認め、敬意を表するものだった。


「……恐れ入ります」


 カリーナの表情は変わらないが、その声には、わずかな動揺が混じっていた。ミネットの言葉が、彼女の心の奥深くに触れたのだ。


「けれど、“女主人の真似事”ではなく、“女主人不在時の柱”として、貴女は誇るべき立場にあったわ。だからこそ、私にとっては……最初に向き合うべき相手だったのよ」


 ミネットは、カリーナがこれまでの屋敷の運営において、いかに重要な役割を担ってきたかを明確に指摘した。そして、彼女がカリーナを「敵」としてではなく、この屋敷の「柱」として認識していることを伝えたのだ。


 その言葉に、カリーナの眉が微かに動いた。彼女は、ミネットが自分の存在意義を理解していることに、驚きと、そしてかすかな感動を覚えていた。


「貴女に敵意を向けるつもりなどなかった。ただ、屋敷の声を聞いて、目を凝らしたかったの。私の居場所がここにあるのか、確かめたくて」


 ミネットは、自分の真意を語った。彼女が屋敷を巡回し、改善点を記録していたのは、カリーナの職務を奪うためではなかった。それは、彼女自身がこの屋敷に根を下ろすための、必死の努力だったのだ。


「……それは、私が不十分だったと」


 カリーナは、ミネットの言葉に、自らの不十分さを認めるような言葉を口にした。


「違うわ。貴女が居たから、この屋敷は何とか回っていたの。でもね、“女主人不在”のままにしておけば、どこかで歪みが出る。だから私は、女主人としてここに立ちたいと思ったの」


 ミネットの声は、静かに、けれど確かに届くように抑えていた。彼女は、カリーナの功績を認めつつも、この屋敷には「女主人」という存在が必要だったことを訴えた。


「だから――敵ではなく、“仲間”になりたかったの」


 ミネットの言葉は、カリーナの心を大きく揺さぶった。彼女にとって「任せられる」という言葉は、長年屋敷を支えてきた自分が「排除される」ことと同義になりかけていたのだ。しかし、今、目の前の若き女主人がそれを否定し、「共に」と口にしたことは、まるで――救いのように響いた。それは、彼女が長年抱えてきた孤独と重圧を、ミネットが理解し、共に分かち合おうとしていることの表れだった。


「……私が、変だったのかもしれません」


 カリーナの喉が、かすかに上下する。その言葉は、彼女が自らの過ちを認め、ミネットの言葉を受け入れたことの証だった。


「ええ、ちょっとだけ」


 ミネットは悪戯めいて微笑む。その表情には、彼女の優しさと、そしてどこか人間的な魅力が満ちていた。

 その表情に、カリーナは目を見開き、そして、わずかに肩を揺らして――小さく、笑った。


 それは、屋敷にとって何よりも大きな出来事だった。長年、感情を表に出すことのなかったカリーナが、初めて見せた、心の底からの笑み。その瞬間、二人の間にそびえ立っていた氷壁は、音を立てて割れた。屋敷の空気は、それまで以上に柔らかなものへと変わっていった。




 その日の夜。ゼノは書斎から廊下に出て、しばし躊躇ったあと、ミネットの部屋の前まで来ていた。昼間の不器用な会話の反省を踏まえ、彼は今度こそ、ミネットに自分の気持ちを伝えたいと思っていた。


(……今日こそ、何か言いたい)


 心の準備はしてきた。言葉を何度も頭の中で反芻し、失敗しないようにと自分に言い聞かせる。だが扉を前にすると、またしても言葉が出てこない。彼の心臓は、激しく鼓動していた。


 すると、不意に扉がすう、と開いた。部屋の中から、春の夜の澄んだ空気が流れ出す。ミネットが、ちょうど部屋から出てこようとしていたのだ。


「……あら」


 ミネットが、驚いたように目を見開く。彼女のアイスブルーの瞳が、ゼノの姿を捉えた。


「……っ」


 ゼノは、予期せぬ出来事に言葉を失った。


「辺境伯様。何か御用かしら?」


 ミネットの柔らかな声に、ゼノはぎこちなく口を開いた。彼の頬は、微かに赤く染まっている。


「……その。君に、伝えておきたかったことがある」


 ゼノは、ゆっくりと言葉を選んだ。今度こそ、正確に、自分の気持ちを伝えたい。


「……なんでしょう?」


 ミネットは、好奇心に満ちた目でゼノを見つめた。


「……ありがとう。今日、屋敷が静かに……変わった気がする」


 ゼノは、昼間のカリーナの笑みを思い出しながら、素直に感謝の言葉を口にした。それは、ミネットがこの屋敷にもたらした変化への、心からの感謝だった。

 ミネットは驚いたように瞬きし、そして――微笑んだ。その微笑みは、彼の心に温かい光を灯した。


「……私も、ありがとうを言いたいの」


 ミネットの声は、優しく、そしてどこか寂しげだった。


「私に?」


 ゼノは、意外な言葉に首を傾げた。


「ええ。“女主人”として、居てもいいのだと、私に感じさせてくれたのは――あなたの無言の距離だったから。だから、感謝してるわ」


 ミネットの言葉は、ゼノの心を深く揺さぶった。彼は、自分がミネットに何もしてやれていないと思っていた。むしろ、不器用さゆえに、彼女を遠ざけていたと思っていたのだ。しかし、彼女は、彼の「距離」を「受け入れ」と解釈していた。ゼノは戸惑いながらも、どこか誇らしくもあった。彼の不器用さが、結果的にミネットの心に寄り添う形になったのだとしたら――。


 “何もしないこと”が、時に“受け入れる”ということになるのなら――


(……次こそは、もっと踏み出せるだろうか)


 ゼノの心に、新たな希望が芽生えた。彼は、ミネットとの距離を縮めるために、もっと積極的に行動しようと決意した。


 けれどその夜も、扉は閉じられたまま。まだ、隣の寝室の距離は遠くて。互いの心は、まだ完全に開かれているわけではない。


 けれど――その先にある温もりを、ふたりは少しずつ、感じ始めていた。春の夜風が、二人の間に、そっと新しい物語の始まりを告げているようだった。

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