06.風と芽吹く心
春の陽光が窓辺を照らし、柔らかな風がカーテンを揺らしていた。ノールガール辺境伯領の主館は、この数日、朝からどこか落ち着かない空気に包まれていた。それは、冬の厳しさから解き放たれたような、穏やかなざわめきだった。
「……今日は、よく笑っていらっしゃるわね」
廊下の向こうから聞こえてきたのは、年配のメイドの声だった。その声には、喜びと、どこか戸惑いが混じっていた。
「うん。奥方様、昨日のお昼もお庭でご一緒くださったのよ。お話も面白くて!」
若いメイドが、生き生きとした声で答える。その声は、かつて厨房で怯えていた彼女のものとは思えないほど、明るさに満ちていた。
「ふふ、それであのカリーナ様が……!」
控えめな笑い声が、廊下の奥から漏れ聞こえる。その声には、カリーナの厳格さに怯えながらも、ミネットの存在によって少しずつ解き放たれていく使用人たちの、率直な感情が滲んでいた。
ここ数日、屋敷の空気が確実に変わってきていた。使用人の表情が明るくなり、挨拶の声にも張りがある。厨房では、若いメイドが生き生きと動き、馬丁たちは言葉少なながらも自然と歩調を揃えていた。食堂には、以前にはなかったような、微かな笑い声が響くこともある。屋敷の隅々にまで、新しい息吹が吹き込まれているようだった。
その中心に、間違いなく――ミネットの姿があった。彼女は、日中のほとんどを屋敷内で過ごし、使用人たちと積極的に交流していた。彼らの仕事ぶりを観察し、耳を傾け、時には「こんなこと、ずっと不便に思っていたんです!」という声に、真摯に耳を傾けていた。彼女の言葉は、カリーナのように厳しくもなく、かといって王都の貴族のように無関心でもない。その絶妙な距離感と、本質を見抜く鋭い視線が、使用人たちの心を少しずつ開かせたのだ。
「…………」
ゼノ・ノールガールは、書斎の窓辺からその様子を静かに眺めていた。彼の執務は山積みにされていたが、彼の視線は、しばしば中庭へと向けられていた。
中庭では、ミネットが侍女エリーゼと並んで何か話している。彼女の指が、花壇を指し示す。視線の先にいた老庭師が、ミネットの言葉に少し顔をほころばせた。その手には、新しく植える花の苗。ミネットが指差して選んだものだろう。以前の庭師は、カリーナの指示に従ってただ黙々と作業するだけだったが、今はどこか楽しげに見えた。
(……まるで、風のようだ)
ふいに、そんな言葉が脳裏に浮かぶ。それは、王都から吹き込んできた、新しい春の風だった。
気がつけば、その風は屋敷の隅々にまで吹き込んでいた。誰もが閉ざしていた窓をそっと開けて、淀んだ空気を入れ替えるように。凍てついていた屋敷の空気に、春の温かさを運んできたのは、紛れもなくミネットだった。
(……だが、こんなにも早く、こんなにも自然に)
ゼノは、ミネットの適応能力と、人々の心を惹きつける才能に驚きを隠せないでいた。彼は、彼女がこれほどまでに短期間で屋敷の空気を変えるとは、想像すらしていなかった。
――私は、想像していただろうか。
ミネットがこの屋敷にやってきた日。彼女は、華奢で、優美で、けれど気まぐれそうな猫のように見えた。自らを「主」と名乗りながらも、使用人を観察し、距離を取るその姿に、どこか警戒心が混じっているようにも思えた。
だが今――彼女は、すでに根を張り始めている。この辺境の地に、そしてこの屋敷に、自らの居場所を作り始めていた。彼女の行動は、単なる「観察ごっこ」などではなかったのだ。
「……女主人の手、というのはああいうものなのか」
ゼノは、無意識につぶやいた。その声に、自分で少し驚いた。これまでの人生で、彼は「女主人」という存在を深く考えたことなどなかった。彼の周りには、常に軍務と規律、そして冷徹な判断だけがあった。
(私は……何を期待していた?)
彼の胸に、自問自答が渦巻く。
(政略結婚の形式だけを重んじて、彼女を“邸に置かれる花”のように扱うことで、互いに傷つかずに済むと思っていたのではないか?)
彼は、ミネットとの関係を、あくまで形式的なものとして捉えていた。互いに深く関わらず、それぞれの役割を果たすことで、余計な摩擦を避ける。それが、彼なりの「配慮」だと思っていたのだ。
(――いや、違う)
彼は胸の内で否定する。自分の本心に、ようやく向き合おうとしていた。
(本当は……この家に“誰か”が必要だと、気づいていた)
長年、女主人不在の屋敷を支えてきたのは、確かにメイド頭のカリーナだった。彼女は、完璧な規律と効率性をもって、この屋敷を「回して」きた。だが、それはあくまで“回す”ための歯車でしかなかった。屋敷には、人々の温かさや、個々の感情が欠けていたのだ。誰もがそれに慣れ、疑問を抱かずに生きてきた。だが、ミネットは違う。
(彼女は、空気を変える。それも――私にはないやり方で)
彼女が、言葉を選び、観察し、人の懐にそっと入ってゆく様子。カリーナのように頭ごなしに叱るのではなく、一人ひとりの声に耳を傾けるその姿は、ゼノには想像もできないものだった。何より、それを“努力”として見せないその自然さが、彼を戸惑わせた。まるで、彼女にとって、それが当たり前のことであるかのように。
「…………」
ゼノは、ミネットの存在が、自分の中に新たな感情を呼び起こしていることを自覚し始めていた。それは、これまで彼が経験したことのない、温かく、そして複雑な感情だった。
(私は、彼女を見誤っていたのか? いや、違う。私が見ようとしなかったのだ)
彼は、自分の傲慢さを痛感した。ミネットという存在を、単なる「政略結婚の相手」としてしか見ていなかった自分。彼女の真の価値を、見ようともしなかった自分に。いくらロマンチックに語る言葉が出てこないと嘆いていても、そこに彼女を彼女自身として見ていなければ意味はないのだ。
ゼノは、ゆっくりと椅子から立ち上がる。彼の心の中には、新たな決意が芽生えていた。思えば、まだろくに彼女の目を見て会話をしたことすらない。婚礼の日、誓いの言葉を交わし、寝室を分け、朝夕の挨拶を形式通りにこなしているだけだ。
(それで、“夫婦”だと思っていたのか)
静かに自嘲が滲んだ。彼は、ミネットとの間に、本当の意味での「絆」を築こうとしていなかったのだ。
だが。
(ならば今からでも――)
彼の視線は、再び中庭のミネットへと向けられる。彼女が、陽光の中で輝いているように見えた。
視線の先で、ミネットが顔を上げた。ちょうどこちらを見上げるように。遠く離れていても、彼女の瞳がわずかに揺れたのが見える。まるで、ゼノの視線を感じ取ったかのように。
(届くのだろうか。私は、彼女の風に)
彼の心は、これまでの堅固な鎧を脱ぎ捨て、ミネットという新しい風を受け入れようとしていた。それは、彼自身の内面における、大きな変化の始まりだった。
「……ゼノ様?」
ノックの音とともに、ハルトが控えめに入室する。
「報告がございます。例の東の小作地の件ですが――」
ハルトの声は、ゼノの思考を現実へと引き戻した。彼の頭の中では、ミネットのことと、目の前の軍務がせめぎ合っていた。
「……ああ。話を聞こう」
現実の問題が、思考を遮る。彼は、辺境伯としての職務を全うしなければならない。しかし、彼の心は、もう以前のようには集中できなかった。
だが心のどこかで、ゼノは今初めて、自分が彼女に「惹かれ」始めていると自覚していた。不器用なまま、名前すら気安く呼べぬ距離。けれど、確かに今、ゼノの中に芽吹く何かがあった。それは、春の訪れとともに、彼の心を温め始めていた。
その夜。ミネットは自室でエリーゼに髪を解かせながら、ふと呟いた。窓の外は、夜の帳が降り、邸宅の明かりがぽつりぽつりと灯っている。
「……辺境伯様、最近ずっと様子を見ているわね」
ミネットの言葉に、エリーゼは一瞬動きを止めた。
「……え?」
エリーゼは、ミネットがゼノの視線に気づいていたことに驚いた。彼女自身、まさかゼノがそこまでミネットを意識しているとは思わなかったのだ。
「朝の窓、午後の廊下、夜の食卓――どこかで目が合うの」
ミネットは、鏡越しにエリーゼの顔を見た。その表情には、確信の色が浮かんでいた。ゼノの不器用な視線は、彼女には筒抜けだったのだ。
「お、奥様、それはきっとお気のせいで――」
エリーゼは、慌てて否定しようとしたが、ミネットはくすりと笑った。
「ふふ、そうかしら?」
鏡越しに、ミネットが笑う。その笑みは、ほんの少しだけ、いつもよりやわらかく、そしてどこか満たされたような色を帯びていた。
――誰かが見ていると知ることで、胸の奥がわずかに温かくなる。
それは、これまで彼女が感じたことのない、新しい感情だった。王都での生活では、常に誰かの視線に晒されていたが、それは監視の目であり、品定めする目だった。しかし、ゼノの視線は、どこか純粋で、彼女を「見て」いるという温かさがあった。
けれどまだ、それを“恋”と呼ぶには早すぎた。ミネットも、ゼノも。それぞれに自分の輪郭を知り始めたばかり。
だが確かに、変化の春が始まっていた。この辺境の地に、そして二人の関係に、新しい季節が訪れようとしていた。