05.女主人と割れる氷壁
朝の光が差し込む厨房に、いつになく緊張した空気が流れていた。本来は活気と温かさに満ちるはずの場所が、今は凍てついた氷のように冷え切っている。
「何度言えばわかるのです。銀器は左から順に並べる、と。奥方様に見咎められたらどうするつもりですか?」
メイド頭カリーナの声が冷たく響いた。彼女の言葉には、刃のような鋭さがあった。その視線は、目の前で銀器を並べ直している若いメイドに注がれている。
若いメイドは震えながら、頭を下げる。その肩は小さく震え、今にも泣き出しそうだった。
「も、申し訳ありません、カリーナ様……」
「“申し訳ありません”ではありません。“間違いを繰り返さないこと”が重要なのです」
冷ややかな声とともに、カリーナは手元のチェックリストにさらさらとペンを走らせる。そのリストには、邸内のあらゆる細部にわたる規律が、ぎっしりと書き込まれている。彼女は、この屋敷の秩序と完璧な運営を何よりも重んじていた。
(おかしい……カリーナ様、以前はこんな言い方をなさらなかったのに)
(いつから、こんな……)
厨房の片隅で作業をしていた他の使用人たちは、誰もがそう思っていた。確かに、カリーナは厳しいが公平だった。失敗は叱るが、理不尽ではなかった。誰かを名指しで責め立てるようなことは、決してなかったはずだ。彼女は、個人の感情を挟まず、あくまで職務に忠実だった。
けれど――今のカリーナは違う。その厳しさは、どこか焦燥と苛立ちを含んでいるように見えた。
「昨日の配膳も遅れがありましたね? エリーゼ嬢の報告で知っています」
カリーナは、ミネットの侍女エリーゼの名を口にした。エリーゼは、ミネットの指示で屋敷の「改善点」を記録しているが、カリーナはそれを「密告」と捉えているようだった。
「で、ですが奥方様が話しかけてくださって……つい返答に夢中で……」
若いメイドは、言い訳のように言葉を絞り出した。ミネットが邸内を巡回し、使用人一人一人に声をかけていたことは、皆が知っている。彼女は、使用人たちの小さな不便に耳を傾け、優しく接していた。
「“夢中”で仕事を忘れる? あなたは貴族の遊び相手ではありません!」
ぴしゃりと叩きつけられた言葉に、メイドが小さく肩を震わせる。その言葉は、メイドの尊厳を踏みにじるような響きを持っていた。
それを見ていた他の使用人たちが、そっと視線を伏せた。彼らの心には、不安と不満が募っていた。
(あの奥方様の“記録”が……)
(まさか、こんな形で……)
そう。ミネットが屋敷を巡り、その「観察結果」が旦那様であるゼノにまで届けられてからというもの、カリーナは日々、ぴりぴりと苛立っていた。ミネットの指摘は、彼女が長年築き上げてきた「完璧な秩序」への挑戦だと感じていたのだ。叱責の頻度は増し、些細なミスでも声を荒げることがあった。
(奥方様は、優しく聞いてくださったのに……)
(どうして、私たちが責められなきゃいけないの……)
使用人たちの心は、静かに、しかし確実に離れていっていた。この屋敷の空気は、日ごとに冷え込み、人々は口を閉ざすようになっていた。
――このままでは、邸宅が壊れてしまう。
それは、ミネットが危惧していた「不協和音」が、現実のものとなりつつある兆候だった。
その日、ミネットはゆっくりと台所棟を訪れた。彼女は、朝から厨房に漂う不穏な空気を察知していた。廊下を進むにつれて、カリーナの怒鳴り声と、それに怯える使用人たちの沈黙が聞こえてくる。
「失礼するわ」
柔らかな声が響いた瞬間、ざわついていた厨房の空気が、一瞬にして凍りついた。食器を洗う手が止まり、パンをこねる手が止まる。すべての使用人が、一斉にミネットの方を向いた。
「奥方様……!」
カリーナが素早く前へ出る。彼女の表情は、いつも以上に硬く、ミネットを警戒していることが明らかだった。
「お控えくださいませ、奥方様。こちらは作業中でして、埃や油などが……」
カリーナは、ミネットがこの場所に立ち入ることを阻止しようとした。それは、彼女の権限と、屋敷の秩序を守ろうとする本能的な行動だった。
「構わないわ。見たいと思っただけ」
ミネットは静かに、そして堂々とカリーナの言葉を受け流す。彼女の瞳は、厨房の隅々までを見渡し、緊張した面持ちの使用人たちに、そっと微笑みかけた。その微笑みは、彼らの心を少しだけ和ませた。
「……あら、さっきの声、聞こえてしまったの。誰かを叱っていたのよね?」
ミネットの言葉に、カリーナの表情がわずかに強張る。まさか、ミネットがそこまで聞いていたとは思わなかったのだろう。
「……奥方様のご指摘を受け、改善のために指導しておりました」
カリーナは、ミネットの「改善点」を、自分が厳しく指導する理由にしようとした。
「ふうん。私、改善を“指示”した覚えはないのだけれど?」
ミネットの瞳がすっと細くなる。その視線は、カリーナの言葉の矛盾を明確に指摘していた。
「私は気づいたことを、ただ伝えただけ。手摺りがなければ危ない、廊下が暗ければ見えづらい……それは誰にでもわかる事実よ」
ミネットは、自分の行動の真意を明確に説明した。それは、カリーナを責めるためではなく、あくまで屋敷に暮らす人々の安全と利便性を考えてのことだと。
「……しかし、改善には時間も人手も必要で……現場の意識改革がまずは……」
カリーナは、言い訳をするように言葉を重ねた。彼女は、ミネットの指摘を「現場の怠慢」にすり替えようとした。
「違うわ、カリーナ」
その一言に、場の空気が変わった。ミネットの言葉は、氷のように冷たいカリーナの心を、鋭く突き刺した。ミネットは一歩、彼女に近づく。その距離は、二人の間の緊張感を極限まで高めた。
「あなたの仕事は“女主人の真似事”じゃない。私はあなたの働きを否定していない。でもね、あなたは自分の立場を、履き違えてしまっている」
ミネットの言葉は、カリーナの長年のプライドを、根底から揺るがすものだった。彼女は、長らく女主人が不在だったこの屋敷で、自分がすべてを取り仕切ってきた。その責任感と自負が、いつしか傲慢さへと姿を変えていたのだ。
「…………」
カリーナは口を開きかけたが、言葉が出てこない。ミネットの言葉は、あまりにも的確で、彼女の心の奥底に深く突き刺さった。
その隣で、怯えたようにしていたメイドがそっと顔を上げる。彼女の目には、希望の光が宿っていた。
「……奥方様は、叱らなかったのに……」
ぽつりと、誰かが呟いた。それは、カリーナの厳しい叱責に怯えていた使用人たちの、偽りのない本音だった。
「そうね。私は叱らないわ。なぜなら、責めてもしまいには“声が届かなくなる”から」
ミネットの言葉は、まるで魔法のように、厨房にいる全員の心を揺さぶった。彼女は、叱責がいかに人々を萎縮させ、心を閉ざさせるかを理解していた。
「…………!」
カリーナの表情に、動揺と、そしてかすかな後悔の色が浮かぶ。ミネットの言葉は、彼女がこれまで見過ごしてきた、大切なものを示していた。
「カリーナ。あなたに必要なのは“規律”だけじゃない。“信頼”と“対話”も含めて、屋敷は回るの。あなたならわかるはずよ」
ミネットの言葉は、カリーナへの挑戦であり、同時に、彼女への信頼でもあった。彼女は、カリーナがこの屋敷を心から愛し、その運営に尽力してきたことを知っていた。だからこそ、彼女はカリーナに、より高みを目指すことを求めたのだ。
ミネットはふっと視線をめぐらせた。彼女の視線は、怯えていた使用人たち一人一人に、優しく注がれる。
「ねぇ、皆さん。今日の昼食、庭にテーブルを出して軽食にしない? 春風が気持ちよさそうなの」
ミネットの提案に、厨房の空気が「ざわ……」と揺れる。それは、驚きと、そしてかすかな喜びのざわめきだった。この屋敷では、そのような慣例は存在しない。いつも質素な食堂で、黙々と食事を摂るのが常だった。
メイドたちの顔に、一瞬だけ柔らかな光が戻った。彼らは、ミネットの提案に、これまで感じたことのない温かさと、自由を感じ取ったのだ。
「お忙しい方は無理にとは言わないわ。でも、気が向いたら――エリーゼに伝えてね」
にっこりと微笑み、ミネットは踵を返す。彼女の言葉は、強制ではなく、あくまで「選択肢」を与えていた。
エリーゼが慌てて後に続いた。彼女の顔には、驚きと、そしてミネットへの畏敬の念が混じっていた。
「奥様……よろしかったのですか? あそこまで……」
エリーゼは、カリーナへのミネットの言葉が、あまりにも直接的だったことに不安を感じていた。
「ええ。でも、あれでいいの。カリーナの心には、きっと届いたわ」
ミネットは、静かに答えた。彼女は、カリーナの性格を読み解き、彼女に響く言葉を選んだのだ。ミネットは小さく、空を見上げた。春の風が、彼女の髪をそっと撫でる。
(叱ることで変わる人もいる。けれど、言葉は凶器にもなる。だから私は――)
彼女はそっと、自らの掌を見つめた。まだ何も握っていないけれど、確かな手応えがあった。この屋敷を、変えられる。
静かに、だが確実に、“女主人”としての足音が根を下ろし始めていた。それは、カリーナという頑固な氷壁に、新しい春の光が差し込み、少しずつ亀裂を入れるような、確かな変化の始まりだった。