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04.静かなる波紋


 春の風は穏やかに吹いていた。しかし、ノールガール辺境伯邸の空気にはどこか、ぴんと張り詰めたものが混じり始めていた。ミネットの輿入れから十日余り。華やかな余韻が徐々に薄れ、この地の日常がその顔を見せる頃だった。


「奥様、またお出かけですか?」


 侍女エリーゼが問いかけると、ミネットは鏡の前で微笑んだ。白銀の髪に、王都から持参した深緑のリボンを結ぶ。その姿は、辺境の質素な部屋とは対照的な、繊細な美しさを放っていた。


「ええ。今日も“お散歩”。屋敷を知るために必要なことよ」


 ミネットの言葉には、ただの散策以上の意味が込められていた。彼女のアイスブルーの瞳は、この数日間、この要塞のような邸宅の隅々までを見つめていた。


「ですが、カリーナ様はすでに『すべて奥様にご案内済みです』と……」


 エリーゼは、メイド頭カリーナの厳格な態度に少しばかり怯えているようだった。カリーナは、ミネットの「散歩」を、単なる気まぐれな娯楽としか見ていない。


「ふふ、それが“すべて”かどうかは、私が判断することだわ」


 ミネットは艶のあるリボンを耳元で結びながら、さらりと言ってのける。その声には、彼女自身の確固たる意志が込められていた。


 そう、これはただの“お嬢様の遊び”ではない。彼女は観察していた――この邸宅のすべてを。人の動き、調度品の配置、使用人の行動パターン、厨房から立ち上る香りの変化、メイドたちの立ち位置、そして、この屋敷の呼吸そのものを。


「エリーゼ、昨日のあの廊下……窓が片側しかないせいで、午後は光が足りなかったわよね。燭台はついていた?」


 ミネットは、何気ない調子で尋ねた。彼女の質問は、単なる好奇心からではない。そこには、この屋敷の「不便さ」を見つけ出すための、緻密な観察眼があった。


「いえ、ございませんでした」


 エリーゼは、ミネットの質問の意図を測りかねながらも答えた。


「それにしては足元がすっきりしていた。誰か、気を利かせて片付けてるのかもね」


 ミネットの言葉に、エリーゼは首を傾げる。


「旦那様の執務室近くですから、警備兵が掃除を?」

「いいえ、そういう『本筋』の話じゃないの。私はね、日々の動きの“癖”を見ているのよ」


 その言葉に、エリーゼは思わず背筋を伸ばした。ミネットは、この屋敷の表面的な秩序の裏に隠された、人々の「小さな苦労」を見つけ出そうとしていたのだ。


 ミネットの笑顔は柔らかい。しかし、その内側には“王都育ちの娘”特有の鋭さが光る。社交界で培われた観察眼と、相手の心理を読む洞察力は、この辺境の地でも遺憾なく発揮されていた。




 カリーナは、ミネットの動きにそれほど注意を払っていなかった。彼女にとって、侯爵家から嫁いできたミネットは、世間知らずで、いつかはこの地の生活に飽きて音を上げるだろうと考えていたのだ。


「奥方様の“観察ごっこ”など、すぐ飽きるでしょう」


 そう言って、他のメイドたちにも特に注意を促すことはしなかった。実際、彼女の目に映るミネットは、時に使用人に話しかけ、時に侍女を引き連れて廊下を歩く、ただの“気まぐれなお嬢様”でしかなかった。


 ――使用人の名を覚えて、何になる。

 ――屋敷の配置を見て回って、何になる。


「お人形遊びの延長ね」と、カリーナは鼻で笑っていた。彼女の頭の中には、この屋敷を「効率的」に運営するという、ただ一つの目標しかなかった。感情や個人の不便さなど、彼女の辞書には存在しなかった。

 だが、ミネットの視線は明確だった。彼女は、カリーナの「効率性」の裏に隠された「無理」を見抜こうとしていた。


「ねえ、洗濯場の流しの位置、あれって雨の日は使えないんじゃないかしら?」


 ミネットは、洗濯場のメイドに優しく問いかけた。そのメイドは、初めは警戒していたが、ミネットの真摯な問いかけに、次第に心を許し始める。


「え、ええ……たしかに屋根が途中までしかないので、風が強い日は濡れてしまって……」


 メイドは、恐る恐る答えた。それは、この屋敷の使用人たちが長年抱えてきた、しかし誰も口に出すことのなかった「小さな不便」だった。


「なるほど。それって、いつからなの?」


 ミネットは、その不便がどれほど長く放置されてきたのかを尋ねた。


「……十年前の増築以来、ずっと……」


 メイドの言葉に、ミネットは頷いた。背後に控えていたエリーゼが、密かに走り書きをする。彼女は、ミネットの指示で、邸宅内の「改善点」を記録する役目を担っていた。


「ふふ、ありがとう。内緒にしておくわ」


 そんな調子で、ミネットは一つ一つ、“小さな不便”を拾い上げていった。使いづらい扉の軋み、冷たい廊下の足音、補修の遅れた階段の継ぎ目。使用人たちが日常に紛れて見過ごしていたそれらを、ミネットは見逃さなかった。彼女の目は、屋敷の構造だけでなく、そこに暮らす人々の息遣いを捉えていた。


(ねぇ、カリーナさん? あなたの仕事は立派よ。でもね、“見ていない場所”があるの)


 ミネットの脳裏で、静かに火が灯った。それは、カリーナの完璧な運営の裏に隠された、人々の「声なき声」を拾い上げるという、彼女自身の使命感だった。




「奥方様、こちらはお控えいただきたいのですが……」


 ある日、ミネットが台所係の物資搬入口に足を踏み入れようとした時、使用人の一人が慌てて声をかけた。そこは、普段、奥方が立ち入る場所ではないからだ。


「どうして?」


 ミネットは、その場所の奥にある、急な階段に目を留めた。手すりもなく、非常に危険に見える。


「こちらは、台所係の物資搬入口でして……」


 使用人は、慣習として立ち入りを止めた。しかし、ミネットの視線は、その場所の「危険性」を指摘していた。


「でも、この間通ったとき、あの階段が急で危なかったわ。手摺りもないのよ?」

「……たしかに、ですが……」


 使用人は、ミネットの指摘に言葉を詰まらせた。その不便は、長年放置されてきたものだったからだ。


 ミネットは何も言わず、メモを取っているエリーゼに微笑んで頷く。彼女の行動は、使用人たちに、自分たちの声が届くことを示唆していた。使用人たちは最初、ミネットの行動に戸惑っていた。しかし、彼女が決して威圧することなく、真摯に耳を傾ける姿を見て、次第に打ち解け始めていった。


「……実は、食器庫の扉がいつも勝手に開いてしまって、何度もぶつけてしまって」


 ある日、若いメイドが、意を決したようにミネットに打ち明けた。


「それは危ないわね。何年もそのまま?」


 ミネットの問いかけは、そのメイドへの共感と、問題解決への意欲を示していた。


「ええ、カリーナ様には……『気をつけて扱えば済むことです』と……」


 メイドの言葉に、ミネットの表情がわずかに曇る。カリーナの「効率性」が、人々の「安全」や「利便性」を犠牲にしていることを、彼女は確信した。


「それは違うわ。建物が人に合わせるべきよ。人が建物に合わせて怪我をするなんて、本末転倒じゃない」


 ミネットの言葉は、メイドの心に深く響いた。誰もがそう思っていたが、口に出すことのできなかった言葉だったからだ。


「……おっしゃる通りです、奥様」


 メイドの目には、感謝の光が宿っていた。ミネットは微笑んだ。だがその内心には、明確な“違和感”が育ちつつあった。


 ――この屋敷は、静かにひずんでいる。

 ――誰かの采配で“無理”が積み重なっている。


 それは、カリーナが作り上げた、完璧に見える秩序の裏に隠された、ひそやかな不協和音だった。




 ミネットは、ついにカリーナに直接対峙した。応接室の暖炉の火が、二人の間に静かに燃えている。


「カリーナさん」

「はい、奥様」


 カリーナの表情は、いつものように冷静で、一分の隙もない。


「あなたが整えたこの邸宅。確かに効率的だと思うわ」


 ミネットの言葉に、カリーナの表情にわずかな安堵の色が浮かんだように見えた。


「恐縮です」

「でも、それは“効率”を最優先にした結果よね。人間は?」


 ミネットの言葉に、カリーナの表情が固まる。彼女の鋼のような顔に、かすかな亀裂が入る。


「……と、申しますと?」

「使用人たちの声、全部届いてる? 彼女たちの動き、見ている?」


 ミネットの声は柔らかいままだった。けれどその視線は、明らかに“測って”いた。カリーナの「完璧な運営」の裏に、どれほどの「見落とし」があるのかを。


「もちろんでございます。私は日々、各部署の報告を受けておりますし……」


 カリーナは、あくまで自分の職務に忠実であることを強調した。


「それは“上がってくる報告”でしょう?」


 ミネットの言葉に、カリーナは言葉を失った。報告書に書かれているのは、表面的な情報に過ぎない。実際に現場で働く人々の声は、そこには反映されていない。


「私はね、今日だけで十の“改善点”を見つけたわ。これは偶然じゃない。私が好奇心旺盛なお嬢様だからでもない。これは、構造的な“盲点”なの」


 カリーナの口元が引き結ばれた。ミネットの指摘は、彼女の完璧なプライドを打ち砕くものだった。


「私が拾ったのは、あなたが見落とした“誰かの小さな声”よ。これが続いたら、いずれ邸宅の空気は崩れるわ」


 ミネットの言葉は、この屋敷の未来に対する、明確な警告だった。


「……奥様。申し訳ありませんが、邸宅運営については私の管轄です」


 カリーナは、自らの権限を主張した。彼女にとって、ミネットの介入は、長年築き上げてきた秩序への挑戦だった。


「ええ、でも私は“辺境伯夫人”よ? 私が見て、聞いて、感じたことを口にしてはいけないのかしら?」


 ミネットの言葉は、穏やかでありながら、揺るぎない権威を帯びていた。この屋敷の「奥様」という立場は、カリーナの権限よりも上位にあるのだと、暗に示していた。


「……いえ、それは……」


 カリーナは、言葉に詰まった。ミネットの論理は、完璧だった。


 ミネットはゆっくりと、カリーナに近づく。その距離は、二人の間の緊張感を高めた。


「あなたが誇るこの屋敷――とてもよく管理されている。でもね、私なら、もっと“人に優しい屋敷”にできる」

「……!」


 カリーナの目に、驚きと、そしてかすかな焦りの色が浮かんだ。ミネットは、単に問題を指摘するだけでなく、解決策を提示し、さらには自らこの屋敷をより良くするという意思を示したのだ。


「火蓋は、もう落ちてるわよ」


 ミネットの囁きは甘く、しかし確かな刃だった。それは、カリーナへの、静かなる宣戦布告だった。


 カリーナの背筋がぴんと伸びる。けれどその眼差しには、もはや余裕の笑みはなかった。彼女は、ミネットという新しい「奥様」が、この屋敷に大きな変化をもたらす存在であることを、ようやく理解したのだ。




 その夜、エリーゼがそっと耳打ちした。


「……旦那様が奥様の“記録”を読んでおられたようです」


 エリーゼは、ハルトから聞いた情報を、興奮気味に伝えた。ミネットが記録した「改善点」のメモは、ゼノの元へと届けられていたのだ。


「へぇ、あの堅物が?」


 ミネットは、少し驚いたように言った。ゼノが自分の行動にそこまで興味を持っているとは、予想外だった。


「はい。『改善すべき点が明確で助かる』と」


 ハルトの報告を、エリーゼは正確に繰り返した。ゼノが、ミネットの観察眼を高く評価していることが窺える。


「ふふ、少しは見直してくれたかしら」


 ミネットはカーテンの隙間から夜空を見上げた。月明かりが、雪に覆われた景色を淡く照らしている。


 今はまだ、静かな攻防。だが、確実に“流れ”は変わり始めている。この屋敷にとっても、ゼノにとっても、そして――自分自身にとっても。ミネットの存在は、この辺境の地に、新しい風を吹き込もうとしていた。

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