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005.小さな命を抱いて


 ――結婚から、もう二年半。


 長いようで、あっという間だった。この辺境の地に来たばかりの頃、私はまだ「仔猫」みたいに気まぐれで、ゼノ様を困らせてばかりいた。すべてが新しく、すべてが不安で、自分自身でもどうしたらいいのかわからなかった。けれど今は、腕の中で穏やかに眠るこの子を見ていると、自分が少しは母親らしくなったのだと思える。




 妊娠がわかった日のことを、今でもはっきりと覚えている。体の不調が続き、もしやと思って診察を受けた日。医師から告げられた言葉に、私は呆然としていた。


「おめでとうございます、奥様。新たな命が宿っております」


 その言葉を信じられないまま、私はゼノ様の元へ向かった。執務室の扉を開け、彼の前に立つと、いつものように冷静な表情で書類に目を通していた彼が、顔を上げた。


「……本当なのか?」


 震える声で診察の結果を伝えたとき、ゼノ様は滅多に見せないほど表情を崩していた。瞳が大きく見開かれ、唇が震え、まるで何が起こったのか理解できないという顔をしていた。そして、ゆっくりと席を立ち、私の手を取った。


「ありがとう」


 その声は、驚くほど震えていた。あの堅物で、どんな困難にも動じない辺境伯が、私の手を握りしめ、ただ「ありがとう」と繰り返した。その姿を見たとき、私の心は不安よりも大きな喜びに満たされた。


 正直に言えば、最初は不安の方が大きかった。この寒い北国で無事に産めるのだろうか。初めての出産を、無事に乗り越えられるのだろうか。母親になれるのだろうか。領民の前では「堂々とした辺境伯夫人」でいなくちゃいけないのに、弱い姿を見せてしまったら――。そんな考えが、頭の中をぐるぐると巡っていた。そんな私の不安を一番よく知っていたのは、やっぱりゼノ様だった。


「君が笑ってくれるなら、私はどんなことだってする」


 そう言って、毎晩暖炉の火を絶やさず、冷たい風から守るように毛布をかけ直してくれた。大きな身体で不器用に紅茶を淹れてくれる姿に、何度涙が出そうになったかわからない。


 そして、クロとシロも。あの猫たちはどういうわけか、私のお腹が膨らんでいくのを察していたらしい。クロはいつも足元で見張り番をし、シロは静かに寄り添って体を温めてくれた。仔猫たちでさえ、膝の上に乗るのを控えてくれるようになって……。彼らの存在が、不安を少しずつ和らげてくれた。


 やがて訪れた出産の日。陣痛は、想像していたよりもずっと長く、痛く、怖かった。夜が明け、日が暮れても、終わりが見えなかった。正直に言うと、途中で「もう無理」と泣き叫んだ。このまま死んでしまうのではないかとさえ思った。


 でもその度に、ゼノ様が手を握って「私の愛しい人、君は強い」と言い続けてくれた。彼の大きな手が、私の手を強く、優しく握りしめる。あの時の彼の必死な声は、きっと一生忘れない。


 そして――産声。


 小さな、小さな命の声を聞いた瞬間、痛みも涙もすべて消えてしまった。胸に抱かされたその子は、白い産着に包まれていて……小さな指を私の手に絡めてくれた。その温かさに、ただただ、この子が無事に生まれてきてくれたことへの感謝でいっぱいになった。


 隣を見ると、ゼノ様が泣いていた。堅物の、あのゼノ様が、静かに、けれど大粒の涙を流していた。


「……ありがとう、ミネット。本当に……」


 震える声でそう言われた時、私もまた、声をあげて泣いてしまった。




 あれから数週間。この子の誕生は、領民たちにとっても大きな喜びだった。城下では祝祭が催され、人々は心から祝福してくれた。エリーゼやハルトも、この子の誕生を自分のことのように喜んでくれた。クロとシロは仔猫たちを連れて覗きにきて、なぜか誇らしげに鳴いていた。今、私の腕の中で眠る小さな寝顔は、ゼノ様にも似ていて、私にも似ている。ふと、ゼノ様の視線を感じて顔を上げると、彼はいつもの真剣な目でこちらを見つめていた。


「……君に似て、可愛いな」

「まあ。私は、ゼノ様に似ていると思いますけれど?」

「いや、やっぱり君に似ている」


 互いに譲らないやりとりに、思わず笑みがこぼれる。その笑顔に、ゼノ様は少しだけ耳を赤くして目を逸らした。


 ――昔から変わらない人。


 私はこの先、母としてどんな風に歩んでいくのだろう。

 不安はあるけれど、ゼノ様とこの子と、そして猫たちと一緒なら。どんな冬の吹雪にも負けない。そう信じられる。胸の中で小さな寝息を聞きながら、私はそっと目を閉じた。




 ゼノの愛と、家族の温かさに包まれて、ミネットは新しい人生を歩み始めた。

 この小さな命が、これからどんな物語を紡いでいくのか、その行く末を静かに見守りながら、ミネットは幸福な予感に満たされていた。

 

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