表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
政略結婚なのに、寡黙な辺境伯の無垢な溺愛が仔猫系令嬢を目覚めさせました  作者: 宮野夏樹
番外編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

31/33

003.春の雪解けに寄せて


 長く厳しかった辺境の冬が、ようやく終わりを告げていた。石畳に残った雪は、その形を失い、雪解け水となって音を立てて流れ、屋根の氷柱は朝の陽光を受けてきらきらと輝きながら滴を零す。冷たい空気の中にもほのかなぬくもりが混じり、遠くの森からは、長い旅を終えて戻ってきた鳥たちのさえずりが響き渡っていた。


「……春ね」


 ミネットは城のテラスに立ち、頬に当たる風を確かめるように目を細めた。吹雪に閉ざされていた季節が嘘のように穏やかで、どこか現実味が薄い。まるで、長い夢から覚めた後のように、ぼんやりと景色を眺めていた。


「辺境の冬を越えたのは初めてだろう」


 隣に立ったゼノが、彼女の肩を抱き寄せる。彼の体温が、冬の間に冷え切っていたミネットの体に、じんわりと染み渡っていく。


「……ええ。寒さも吹雪も、想像以上だったわ」


 ミネットは正直に答えた。故郷では経験したことのない、厳しい冬だった。すべてを凍りつかせるような寒さと、何もかもを覆い尽くす吹雪に、何度心が折れそうになったかわからない。


「だが、耐えきった。誇っていい」

「耐えきった、というより……あなたがいたからよ」


 思わずこぼした言葉に、ゼノは口角をわずかに上げた。その笑みは、雪に閉ざされた夜の記憶を呼び起こす。あの山小屋で過ごした一夜。吹雪の中、互いの温もりだけを頼りに身を寄せ合った、かけがえのない記憶。


 春の訪れとともに、領地は活気を取り戻していた。人々は凍りついた土を耕し、作物の種を蒔き始める。雪の下から顔を出したスノードロップやクロッカスが、城下を彩り、人々の顔にも笑顔が戻ってきた。


 ミネットもまた、領民と共に畑仕事を視察していた。土を掘り起こし、春の香りを胸いっぱいに吸い込む。だが、ふとした瞬間に思い出すのは、やはりあの雪の夜のことだった。


(あの時……怖かったはずなのに、心の奥ではどこか嬉しかった)


 吹雪に閉ざされ、逃げ場のない小屋で寄り添った温もり。互いを確かめ合った唇の熱。それは不安の中で生まれた一夜だったはずなのに、今となっては、誰にも奪うことのできない、かけがえのない宝物になっていた。


「奥様、どうかなさいました?」


 同行していた侍女のエリーゼが首をかしげる。ミネットの頬が、ほんのりと赤くなっているのを見て、不思議そうに尋ねた。


「……いいえ。ただ、去年の冬を思い出していただけ」

「ふふ。あの雪小屋の件、まだ皆に内緒なんでしょう?」


 エリーゼの言葉に、ミネットは驚いて目を見開いた。


「えっ……! どうして知っているの?」

「領民の間じゃ“辺境伯様が奥様を連れて雪中の小屋で一夜を過ごした”って噂になってますもの。辺境伯様があまりに大切そうに奥様を連れ帰ったので、皆、何か特別なことがあったのだと察したようですわ」


 ミネットは頬をさらに赤くし、思わず口元を覆った。あの夜が、こんな風に領民の間で語り草になっているなんて。恥ずかしさと同時に、ゼノが自分を大切に思ってくれていることが、人々に伝わっているのだという喜ばしい気持ちがこみ上げてきた。


 その夜。春の宴の準備を終えたゼノが執務室から戻ると、ミネットは暖炉の前に座り、針仕事をしていた。炎の橙に照らされる横顔は、冬の夜と同じ光景を思わせる。


「……何を縫っている?」


 ゼノは静かにミネットの背後へと歩み寄り、肩に頬を寄せた。針を持つ手がわずかに止まり、ミネットは小さく息を呑む。彼の温かい吐息が、耳元にかかる。


「春祭りのための小さな飾り。領民の子供たちに配るのよ」

「君は本当に……領民に慕われる理由がわかる気がする」


 ゼノの声は、先ほどよりも甘く、優しかった。


「……あなた、またこんなことを」

「思い出していた。あの夜のことを」

「……私も」


 二人の間に、自然と沈黙が落ちる。けれどそれは不快ではなく、炎のはぜる音と互いの鼓動だけが満ちる、心地よい時間だった。ミネットは針仕事を止め、ゼノの方へ向き直った。彼の瞳は、暖炉の炎の色を映して、静かに揺れている。


「……ねえ、ゼノ様」

「なんだ」

「あなたは、もしもあの吹雪の夜に戻れたら……同じように私を抱きしめてくれる?」


 ミネットの問いは、少しだけ不安を含んでいた。もし、あの夜が特別な偶然だったとしたら。もし、この感情が自分だけの一方的なものだったら。


「愚問だな」


 ゼノの声は低く、けれど確固としていた。


「私は何度でも同じことをする。君を守り、温め、隣に置く。……それ以外はあり得ない」


 その言葉に、ミネットの不安は完全に溶けて消えた。頬を熱く染めながらも、ミネットは静かに微笑む。春の暖炉の前で交わす言葉は、雪に閉ざされた夜の約束を、もう一度確かめるようだった。




 春祭りの日。城下は花で飾られ、人々は歌い、踊る。子供たちは、ミネットが作った小さな飾りを手に、笑顔で駆け回っていた。領民たちの「辺境伯様と奥様は雪を越えて強く結ばれた」という噂話は、祝祭をさらに温かいものにしていた。


 夜、屋敷のバルコニーから祭りの灯を見下ろしながら、ミネットはゼノに囁く。


「ねえ……春が来ても、私たちの心はあの冬の夜に繋がっているのね」

「春になっても、夏になっても、冬になっても。君はずっと私の傍にいる」


 白い雪を思い出すほどに、今の夜風は甘く、心地よかった。ミネットはゼノの腕に身を預け、静かに目を閉じる。――雪に閉ざされた夜は終わった。けれど、その記憶は、ミネットとゼノの春に、確かに息づいていた。それは、これから始まる二人の季節を、より温かく、より強くしてくれるだろう。彼らの物語は、冬を越え、今、新しい季節を迎えようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ