002.あなたの指は私のもの
その日、ゼノは帰ってくるなり腕の中に“それ”を抱えていた。
「……猫?」
ミネットがぽつりと呟く。白い、ふわふわとした毛並みに、宝石のようなブルーの瞳――それはまるで、幼い頃のミネットを模したような小さな仔猫だった。門の隙間から差し込む光を受けて、その毛並みは純白に輝いている。
「うむ。門の外で震えていたんだ。まだ乳離れしたばかりらしい。親とはぐれたのかもしれん」
ゼノの声音には、僅かながらも愛しさがにじんでいた。その声は、普段の冷静で威厳のある彼からは想像もつかないほど優しかった。その表情を、ミネットは見逃さなかった。
柔らかく目尻を下げ、まるで壊れ物を扱うように優しく抱きしめている。その腕の中で、仔猫は安心したように「ふにゃ」と甘えた声を出し、ゼノの胸元に顔をうずめた。
「クロじゃ、ないのね」
ミネットは壁際に座っていた黒猫――クロに目をやった。クロは相変わらず不遜な態度で、新入りに対して明らかな「またか」という顔をしてそっぽを向いている。仲間意識は皆無のようだ。クロにとって、この家に来る新入りの動物はすべて、自分の縄張りを脅かす存在でしかなかった。
「……で、名前は?」
「まだ考えていない。とりあえず毛布を……」
そう言いながら、ゼノは仔猫を大事そうに抱えたまま寝室の奥へと入っていく。仔猫のあまりの可愛らしさと、それを見つめるゼノの優しい表情に、ミネットはなぜか胸がざわついた。その背を、ミネットはじっと見送った。心の内で、チリ、と火花が散ったような音がした。それは、何とも形容しがたい、小さな棘のような感情だった。
数時間後。ミネットは苛立ちを隠せないでいた。
「――可愛いわねえ」
窓辺に設置されたふかふかのクッション。その中央で仔猫は丸まり、ゼノに撫でられて喉をゴロゴロと鳴らしている。ミネットの声は、普段よりもよく通る高音だった。まるで、自分の感情を誤魔化すかのように。
ゼノは仔猫を膝に乗せ、ひたすらに背中を撫でている。その表情は穏やかで、満ち足りていた。ミネットは、自分がこれまで見たことのないような、柔らかなゼノの横顔に、言葉にならない感情を抱いていた。
「ふふっ。ねえ、ゼノ様。この子をお膝に乗せていると、満たされるの?」
「……まあ。温かいからな。軽いし」
素直な返答に、ミネットの頬がぴくりと動いた。見れば、ゼノの右手はこの十分ずっと、仔猫の背を丁寧に撫でている。毛の流れを優しくたどり、時に首筋に指を滑らせ、耳の付け根をくすぐるように――その所作が、あまりにも優しくて、あまりにも愛おしそうで。
(何よ、それ)
ミネットはティーカップを持ち上げた。指先に力が入りすぎて、小さく音が鳴る。カチャリ、と。その音は、静かな部屋にやけに響いた。
「奥様、まさか――」
後ろからひそひそ声がした。振り返ると、侍女のエリーゼが無表情で立っていた。紅茶を盆に載せ、ぴしっと背筋を伸ばしている。
「猫に嫉妬など、なさっていませんよね?」
「……は?」
ミネットはとぼけたふりをした。しかし、エリーゼは鋭い。
「その目、完全に敵意を孕んでます。仔猫に向けてるとは思えないような」
「そんなこと、あるわけないじゃない」
「ではその握られた拳をおしまいください。茶器が割れます」
「…………」
否定できない。まさか自分が――こんなにも、小さな猫に心乱されるとは。けれど、ゼノがあんなに優しい顔をするのは、自分に向けた時だけだと思っていたのだ。その独占欲は、ミネット自身も気づかないうちに、心の中で大きく膨らんでいた。
「……あれは、私の色をしてるわ」
「え?」
「白い毛、青い瞳。まるで“私を小さくしたような”仔猫よ」
ミネットは、そう言って窓辺の仔猫を睨みつけた。
「……はあ」
エリーゼは器用に眉を片方だけ上げた。その表情は、呆れているようにも、呆然としているようにも見えた。
「確かに似てますね。つまり、旦那様は奥様に似た猫を拾ってきたわけで……」
「……それって、余計ムカつく」
ミネットの理不尽な言葉に、エリーゼは「えぇぇ……」と小さな悲鳴を上げた。ミネットは、ゼノが自分に似たものに惹かれていることが、猫に嫉妬することと同じくらい、いや、それ以上に屈辱的だと感じていた。自分はただの代わりなのだろうか、と。
その夜。ゼノはミネットの寝室を訪れた。
「……入っても?」
返事がない。だが、戸には鍵がかかっていなかった。ゼノは静かに扉を開け、中へ入った。ミネットは、背中を向けてベッドの端に座っていた。その小さな背中は、どこか寂しげに見えた。
「……機嫌が悪いのか?」
「別に。ご機嫌よ」
声色は明るいのに、空気が冷えていた。その冷たさは、ミネットの心の冷たさをそのまま映し出しているようだった。
「まさかとは思うが……あの仔猫に嫉妬を?」
「…………っ」
ミネットの肩がぴくりと震える。ゼノは静かにミネットの背後へと歩み寄り、そっと腰を下ろした。
「君に似ていたから、可愛く思えた。それだけだ」
「なら、撫でればいいじゃない。好きなだけ。あの子の毛でも、声でも、目でも、全部“私の代わり”にすればいいわ」
ミネットの言葉は刺のようだった。その言葉の奥には、嫉妬と、自分を代わりだと思われているのではないかという、深い悲しみが隠されていた。ゼノは何も言わず、自分の指を、ミネットの手に重ねた。彼の指は、優しくミネットの指を包み込む。
「……君が妬くほど、私は無神経だったのか」
「……ちが……そんなつもりじゃ」
ミネットは、自分の感情が露わになってしまったことに気づき、慌てて否定しようとする。しかし、ゼノはそれを遮るように、静かに言葉を続けた。
「君の肌に触れるより、柔らかいものなんてない。君の声より甘い音など、この世界には存在しない。君の目を見るだけで、私はもう何もいらない」
「……そんな……、上手いこと言って……」
ミネットの瞳が揺れる。その震えを、ゼノの唇がそっと吸い上げた。短く、優しいキスだった。
「私は君の夫だ。撫でるのも、抱くのも、愛するのも……君だけで充分なんだよ」
低く甘い声が、ミネットの心の氷を溶かしていく。心の奥底に眠っていた不安や嫉妬が、彼の言葉によって消え去っていくのを感じた。
ふたりきりだった。ゼノの指が、今度はミネットの頬を、髪を、背を、ゆっくりと撫でる。仔猫を愛しむように――だがそれ以上に、情熱と欲を孕んだ仕草で。キスが肌を這い、言葉よりも深く「君が欲しい」と告げてくる。ミネットは、そのすべての愛おしさを全身で受け止める。
「……今日は、私を撫でてくれるのね」
「指先が覚えている。君に触れたいのは、いつだって君だけだ」
絡まる指。交わる熱。甘やかされるミネットは、やがてその胸で何度も名を呼ばれる。その声が、何よりも甘い子守唄のように響いた。
翌朝。エリーゼが部屋をノックする。
「……失礼します、朝食の用意が……って、うわ」
シーツにくるまるふたりと、枕元ですやすや眠る白猫が一匹。ゼノの胸元には、ミネットが腕の中で深く眠っていた。その隣には、仔猫が丸くなって眠っている。
「……旦那様、猫と奥様、どちらをお選びになったんでしょうか」
その問いに、ミネットは寝ぼけた声で呟いた。
「もちろん、私よ……ん……」
ゼノが隣で微笑んだ。その腕には、やっぱり彼女だけが抱かれている。仔猫は、二人の温かさに包まれて、幸せそうに喉を鳴らしていた。この日、この家には、新しい家族が増えた。そして、ミネットとゼノの絆は、また一つ、深くなったのだった。




