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03.落とされた火蓋


 辺境の春は短い。けれど、だからこそ貴重なのだと、ミネットは薄桃色の花弁を眺めながら思った。開かれた中庭の桜に似た花が、柔らかな風にあおられては舞い、白い石畳の上に静かに落ちていく。王都の絢爛な庭園に咲き誇る花々とは異なる、控えめながらも力強い美しさがあった。


 春の気配がこの要塞にも少しだけ滲んできた。空気はまだ冷たいが、陽光は確かに柔らかく、あたたかい。厳しかった冬の終わりを告げる、ささやかな喜びがそこにはあった。


「……咲いてるのね。あんな場所に」


 ミネットがふと立ち止まったのは、使用人用の裏庭に面した小道だった。邸宅の正面からは見えない、ひっそりとした場所。しかし、そこには、王都では見られないような、野趣あふれる花が咲き誇っていた。


 ここ数日、メイド頭のカリーナに言われるがままの「邸宅内巡回」を終えたミネットは、まだ見ぬ景色を探してほんの少し道を逸れたのだ。この屋敷の隅々まで知り尽くすことで、カリーナの「導線」に逆らうことができる。これがまた、邸内の“導線の悪さ”を裏付ける証拠になるわ――そんなことを思いながら、彼女は猫のように気ままに散策を楽しんでいた。


「――どうして奥様がこんなところにいらっしゃるのかしら?」


 背後からかけられた声に、ミネットはゆっくりと振り返った。そこには、やはりメイド頭、カリーナが立っていた。彼女の顔には、この場所でミネットを見つけたことへの、明確な疑問が浮かんでいる。

 厳格で、無駄を嫌う女。カリーナがミネットに向ける表情は、表向きこそ礼儀正しいが、どこか「試すような」色を含んでいた。まるで、ミネットがこの屋敷の秩序を乱そうとしているのではないかと、警戒しているかのようだ。


「春の匂いがしたからよ。カリーナさんも、この花が咲いてるのをご存知なかった?」


 ミネットはにこやかに答えた。その言葉の裏には、「この屋敷のすべてを知っていると豪語するあなたが、この花の存在を見落としていたの?」という、かすかな皮肉が込められている。カリーナの表情は変わらない。


「申し訳ございません。私は、毎年この時期に確認しております」

「そう。じゃあ、あなたは“気づいていた”のに、あえて何も言わなかったのね。奥方には似合わない場所だから?」


 ミネットの言葉は、静かに、だが確実にカリーナの核心を突く。そのアイスブルーの瞳には、猫のような光が宿っていた。好奇心と、ほんの少しの――警戒。ミネットは、カリーナが自分をこの屋敷の「秩序」に組み込もうとしていることを感じ取っていた。そして、この場所が、その秩序から外れた「自由」の象徴であることも。


 カリーナの表情が一瞬、固まる。彼女の鋼のような顔に、かすかな動揺が走る。しかし、すぐに平静を取り戻し、微笑を浮かべた。その微笑みは、彼女のプロ意識の高さを示していた。


「……さすが、侯爵家のご令嬢。物の見方が鋭いのですね」


 その言葉は、称賛のようでありながら、やはり試すような響きを含んでいた。


(さて、火蓋は落ちたかしら)


 ミネットは内心で唇をつり上げる。社交界で培った“視線の剣”を抜いたのは、久しぶりだった。これまでの数日間は、カリーナとの間で、お互い様子見の域を出ていなかった。お茶の時間での言葉の応酬や、花瓶の位置を巡る無言のやり取りは、あくまで前哨戦に過ぎなかった。だが今、この裏庭で、ついに「女の戦」が始まったのだと、ミネットは本能的に悟っていた。

 しかもこれは、言葉で刺し合うような単純なものではない。相手の価値観や空気を読み取る“気配の勝負”だ。表情、間合い、声色、そのすべてが試されている。ミネットは、カリーナの支配欲と、この屋敷への絶対的な忠誠心を感じ取っていた。


 カリーナは一礼し、「お気をつけてお戻りくださいませ」と告げて去っていく。その背を見送りながら、ミネットはくすりと笑った。


(このお屋敷……嫌いじゃないわ)


 静かな火花が、春の風に乗って舞った。それは、この辺境の地に新たな息吹がもたらされる予兆のようだった。





 その日の午後。ゼノは執務室で地図とにらめっこしていた。広大な領地の地図の上には、軍事拠点や民政に関する重要地点が記されている。軍務と民政が入り交じる膨大な資料に、彼は幾度も眉間を寄せる。北の辺境伯としての重責が、常に彼を縛り付けていた。


 そんな中、彼の口から小さくこぼれる、ため息のような声が響いた。


「……また、彼女と話せなかった」


 己に問う。朝早くから軍務に出て、ミネットの顔を見ることもなく一日が始まってしまった。


(もっとロマンチックな何かは、できなかったのか)


 彼は、ミネットと初めて会った時のことを思い出していた。彼女の美しさ、そしてその奥に潜む気まぐれな魅力に、瞬く間に心を奪われた。


 ミネットは美しい。いや、美しいだけではない。どこか、夢のような、掴みどころのない気配を纏っている。輿入れして数日。ゼノは、ミネットと同じ空間にいるたびに、その気配に飲まれていくような錯覚を覚えた。彼女が微笑むたび、歩くたび、まるで詩の一節が香るようで――彼の堅物な心は、彼女の存在によって静かに揺さぶられていた。


(こんなにも心を奪われるとは……)


 気づけば、ゼノの目はふと窓の方へ向いていた。外は春の陽光に満ちている。彼の心は、硬い執務室ではなく、柔らかな春の光に包まれたミネットを求めていた。あの白い肌が、陽に照らされたらどう映るのか。あのアイスブルーの瞳が、あのいたずらっぽい笑顔が――彼の中で、ミネットの姿は、冷たい辺境の景色の中で唯一の色彩となっていた。


「……は」


 我に返って、顔を覆う。自分の感情の赴くままに、職務を忘れてしまうことに、彼は強い羞恥を感じた。


「何をしている、俺は……執務中だぞ」


 だが心は正直だ。軍務と民政の合間にも、ミネットのことが頭から離れない。彼女のささやかな挑発や、不器用な自分をからかうような笑顔。それらすべてが、彼の心の奥深くに、これまで知らなかった感情を呼び起こしていた。


 ――今日こそ、何か話すきっかけを作ろう。


 そう誓って、彼は立ち上がる。不器用な彼は、言葉よりも行動で示す人間だ。ミネットと心を通わせるために、自分にできることを探そうとしていた。




「ミネット様、午後のお茶のご用意ができております」


 執務官ハルトの声に、ミネットは顔を上げた。自室の窓辺に猫のクロと並んで座っていた彼女は、ちょっとばかり面倒そうに体を伸ばす。午後の穏やかな陽光が、彼女の白銀の髪をきらきらと照らしていた。クロは、ミネットの膝の上で満足げに喉を鳴らしている。


「じゃあ、参りましょうか。お茶菓子は、あのサブレ?」


 ミネットは、王都ではあまり見かけない素朴なサブレが、この屋敷のメイドの手作りであることを知っていた。それは、この地の温かさを感じさせる、数少ないものの一つだった。


「ええ、厨房に伝えてあります」


 ハルトは、ミネットの好みをよく把握している。彼の淡々とした物腰の中にも、彼女への気遣いが感じられた。


「ふふ、さすが。無愛想ゴリラより、あなたの方が気が利くわね」


 ミネットは、エリーゼも言っていたゼノのあだ名を、あえてハルトにも口にした。ハルトの反応を、猫のように楽しんでいるのだ。


「……そのお呼び方は、控えていただけると……」


 ハルトは困ったように眉を下げたが、ミネットはそんな彼の反応すら面白がっていた。




 軽口を交わしながら向かった応接間には、すでにゼノの姿があった。彼は、ミネットが来るのを待ちわびていたかのように、すぐに立ち上がった。彼の顔には、微かな緊張が見て取れる。


「ミネット」


 ゼノは、ミネットの名を呼んだ。その声には、少しだけ高揚感が混じっていた。


「まぁ、珍しい。わざわざあなたが待っていてくれるなんて」


 ミネットは、からかうように言った。普段の彼なら、軍務を優先し、お茶の席に顔を出すことは稀だったからだ。


 ゼノはどこかぎこちない。言葉を選んでいるかのように、一度口を開き、また閉じた。だが、その声にこもった真摯さに、ミネットは思わず目を見張った。


「今日は……話が、したかった」


 彼の言葉は、飾り気がなく、ただ純粋な気持ちが込められていた。ミネットは、彼のまっすぐな瞳を見つめた。


「どうして私と話したいと思ったの?」


 彼女は、彼の心の奥にある理由を知りたかった。


「……ただ、話がしたいと思った。それだけでは、だめか?」


 彼の言葉は、まるで子供のように素直だった。その純粋さに、ミネットの心は、またしても温かい感情で満たされた。


(素直すぎる……けれど、悪くないわ)


 彼の言葉に含まれた照れと誠実さに、ミネットはふっと微笑んだ。その微笑みは、彼に向けられた、初めての純粋な好意だった。


「じゃあ、お話ししましょう。お茶を飲みながら、のんびりとね」


 ミネットは、ゼノの向かいの席に座った。足元では、ついてきたクロが丸くなり、静かに喉を鳴らしている。二人の間に、ようやく静かな時間が流れ始めた。


 話題は、中庭に咲く花から始まった。ゼノは、ミネットが裏庭の花を見つけたことに驚き、そして少しだけ嬉しそうにしていた。


「あの花は、あまり人目につかない場所に咲く。君が見つけてくれたとは、嬉しい」


 彼の言葉は相変わらず不器用だったが、その中に喜びが滲んでいるのがミネットには分かった。


「ええ。とても綺麗だったわ。王都の風習では、春の花の日になると“花を送る”習慣があるのよ。恋人にね。あなたの領地には?」


 ミネットは、王都の華やかな習慣を話した。それは、彼との距離を縮めるための、ささやかな試みだった。

 ゼノは、少しだけ困ったような顔をした。


「……ないな。花は、寒さであまり育たぬから」


 彼の言葉は、この地の厳しさを物語っていた。ロマンチックな習慣など、この地には存在しない。


「まぁ、それは可哀想。じゃあ今度、花を一輪、贈ってあげようかしら」


 ミネットは、いたずらっぽく微笑んだ。


「――それは、どういう意味だ?」


 ゼノの表情が、わずかにこわばる。彼の深い青の瞳には、ミネットの言葉の真意を探るような光が宿っていた。


「ふふ、秘密よ」


 くすりと笑った彼女に、ゼノの鼓動が高鳴る。彼の心は、彼女の言葉と仕草に、激しく揺さぶられていた。


(……なぜ、こんなにも惹かれる?)


 彼女の仕草ひとつに、声色ひとつに、心が乱される。ミネットは、彼の心を意図せず翻弄していた。彼の堅固な理性は、彼女の気まぐれな魅力の前では、何の役にも立たない。


(もっと……もっと、彼女の心を知りたい)


 ゼノの瞳に、焔のような光が灯る。それは、ミネットへの純粋な好奇心と、そして抗いようのない惹かれだった。彼は、彼女のすべてを知り尽くしたいという、強い衝動に駆られていた。




 夕暮れ時。ミネットが自室に戻ると、エリーゼがぽつりと呟いた。


「今日の旦那様、ちょっと様子が違ってましたね」


 エリーゼは、今日のゼノが、いつもより表情豊かで、ミネットとの会話を心から楽しんでいるように見えたことを感じ取っていた。


「ええ、なんだか……頑張ってたわ」


 ミネットは小さく肩をすくめて笑う。彼女は、ゼノが自分と話すために、普段とは違う努力をしていることに気づいていたのだ。


「ミネット様のこと、やっぱりお好きなんでしょうね」


 エリーゼの言葉に、ミネットは小さく肩をすくめた。


「まだわからないわ。あの人、心の奥に“仕舞い込み癖”があるもの」


 彼の言葉足らずな部分、感情を表現するのが苦手な部分。それらは、彼が感情を奥深くにしまい込んでいるからだと、ミネットは理解していた。


「じゃあ、それをほどくのは?」


 エリーゼは、ミネットの瞳を見つめた。


「もちろん、私の役目でしょう?」


 ミネットは、猫のように自信に満ちた笑みを浮かべた。その瞳は、これから始まる「ほどく」という行為への、強い意志と期待に満ちていた。


 窓の外、春の風がふわりとカーテンを揺らした。白い花びらが舞い、二人の間を通り過ぎていく。


 ――こうして、静かに。けれど確かに。


 ミネットとゼノの距離は、少しずつ、ほどけていくように近づいていた。それは、短い辺境の春のように、はかなくも美しい、新しい関係の始まりだった。

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