001.雪に閉ざされて
雪というものは、こんなにも音を吸い込むのだと――ミネットは初めて知った。
辺境の冬は、ミネットの故郷のそれとはまったく違っていた。窓の外は一面の白。しんしんと、まるで綿を置くように降り積もる雪は、街の喧騒はおろか、風の音さえも柔らかく覆い隠し、世界からあらゆる音を奪い去っていく。暖炉の爆ぜる音だけが、やけに鮮明に聞こえた。
「……すごい。本当に真っ白」
暖かな部屋の中にいても、白い吐息がこぼれた。窓ガラスに頬をつけ、ただただ降り続く雪を眺めていると、背後でカサリと音がする。
「初めての冬だろう。辺境の雪はまだ序の口だ」
振り返ると、ゼノが分厚いマントを羽織っていた。革製の留め具を締め、慣れた手つきでフードを被る。その低い声が、暖炉の火の音と混じって、やけに近く聞こえた。
「今日は北部の村まで視察に行く。雪道は慣れていないだろうから、馬車で行く」
「……この天気で?」
ミネットは思わず尋ねた。降り始めたばかりとはいえ、雪はすでに地面を覆い尽くしている。こんな日に出かけるなんて、どうかしているのではないか。
「まだ降り始めだ。夕方までには戻れる」
ゼノの言葉に、ミネットは少し眉を寄せた。しかし、この国の辺境で長年暮らしてきた彼の判断に、安易に逆らうことはできなかった。ただ、胸の奥で小さな不安が芽を出しているのを感じた。それは、まるで凍てつく土の下から顔を出す、小さな雪割草のようだった。
昼前、馬車は雪原を進んでいた。白い吐息が窓を曇らせ、外の景色はぼんやりとかすむ。御者の巧みな手綱さばきで、馬はかろうじて道を外れずにいたが、時折吹きつける風が雪を巻き上げ、視界を遮った。馬車の中は暖炉の熱で温かいが、外の厳しい気候がひしひしと伝わってくる。
「思ったより降ってきたな……」
ゼノが低く呟いた。彼の言葉には焦りではなく、どこか冷静な響きがあった。
「まだ大丈夫なんでしょう?」
「ああ。ただ、村での用事は手早く済ませたほうがいい」
彼の言葉を信じ、ミネットは不安を押し込めた。しかし、その予想は外れた。村での視察が終わる頃、吹雪は本格的になり、帰路は一面の白の迷路と化していた。雪は横殴りに叩きつけられ、景色はおろか、数メートル先すら見通せない。
「……殿下、このままでは道が……!」
御者の悲痛な叫び声が、風の音に掻き消されそうになる。
「無理はできん。近くに避難できる場所は?」
ゼノは即座に御者に尋ねる。彼の声には、どんな危機的な状況でも動じない、確固たる意志が宿っていた。
「半刻ほど先に、猟師の山小屋があります!」
御者が頷くのを確認し、ゼノはすぐさま指示を出し、馬車は雪道を外れて林へと入った。雪は容赦なく積もり、進むほどに視界は閉ざされていく。馬の蹄が雪に深く沈み、時折、大きな音を立てて倒木にぶつかった。ミネットは、ガタガタと揺れる馬車の中で、恐怖に身を縮めた。
やがて、遠くにかすかに光が見えた。それは、救いの光だった。山小屋は古びていたが、屋根と壁があるだけで安心感は段違いだった。ミネットは震える足で馬車から降り、凍える体に鞭打って小屋の中へ駆け込んだ。
ゼノは手際よく薪を探し、暖炉に火を起こした。パチパチと音を立てて燃え上がる炎は、見る見るうちに小屋の中を温めていく。ミネットは凍えた指先を火にかざし、はあ、と白い息を吐く。
「……間に合ってよかった。もし野宿だったら……」
ミネットが震える声で呟くと、ゼノが静かに言った。
「大丈夫だ。私が君を凍えさせるものか」
その言葉は、暖炉の炎よりもずっと温かく、ミネットの心の底まで溶かしていくようだった。不安に固まっていた胸が、少しずつ解けていくのを感じた。
しかし、外の吹雪は収まらない。日が暮れる頃には、小屋の窓は分厚い雪で完全に塞がれ、外の世界とは完全に隔絶されていた。
「今日はここで一晩だな」
ゼノが毛布を広げながら言った。
「……一晩?」
「不安か?」
「……少しだけ。でも、あなたがいるなら」
ミネットは苦笑しつつも、内心では胸がざわついていた。この距離、この状況――逃げ場のない密室のような夜。
外の荒れ狂う嵐とは対照的に、小屋の中は静かだった。暖炉の火が燃え尽き、薪の燃える匂いが部屋に充満する。二人は毛布を一枚ずつ分け合い、肩を寄せ合って座っていた。ゼノの腕が自然とミネットの背に回る。
「……寒くないか?」
ゼノの声が、耳元で囁くように響く。
「……少し。あなたは?」
「私は……君がいるから温かい」
その一言で、ミネットの心臓は跳ねた。けれど、すぐに顔を逸らす。雪の夜に包まれて、こんなにも近いと、素直な反応を見せるのが怖くなる。
「……あなたって時々、ずるいわ」
ミネットは、なんとか平静を装ってそう言った。
「どういう意味だ?」
「こういう時だけ、妙に甘い言葉を言うから」
「本心だ。……それとも、もっと言ってほしいか?」
ゼノがわずかに笑い、ミネットの頬に触れた。その指先は、ひんやりと冷たい。外の雪音が遠のき、耳に届くのは自分の鼓動と、彼の息づかいだけ。
「……ゼノ様」
「ん?」
「こうして二人きりになると、少し……あなたのこと、意識しすぎてしまうの」
「それでいい。私も同じだ」
そう言って、ゼノはミネットの顔をゆっくりと自分の方に向けさせた。唇が触れる。短いはずの口づけは、雪解け水のようにゆっくりと深まっていく。二人の間にあった不安も、ためらいも、すべてが溶けていくようだった。
翌朝、吹雪は嘘のように止んでいた。小屋の窓を塞いでいた雪は、夜の間に固まり、分厚い壁のようになっていた。ゼノがそれを叩き割ると、外から眩い光が差し込んだ。雪原は朝日を受けてきらめき、まるで宝石の海のようだった。あたり一面の銀世界は、昨夜の嵐が嘘のように、静かで穏やかな表情をしていた。馬車に戻る前、ミネットは山小屋を振り返った。
「……きっと、この夜は忘れないわ」
「私もだ。君と過ごした初めての辺境伯領の冬としてな」
ゼノが微笑むと、ミネットは照れ隠しのように、積もった雪を指先ですくい上げた。
「……冷たい」
ミネットがそう呟くと、ゼノがふっと笑い、自分の手を差し出した。
「だからこそ、温め合うんだ」
そう言って差し出されたゼノの手は、雪よりもずっと、確かに温かかった。ミネットは、その大きな手を両手で包み込むように握りしめた。その瞬間、彼の温かさが、手のひらからミネットの心臓まで、じんわりと伝わっていくのを感じた。
二人の間に、新たな冬が始まった。それは、厳しい寒さの中でも、互いを温め合うことを知った、特別な冬だった。




