26.夜明けの抱擁
灰色の空がゆっくりと薄紅に染まるころ、東の地平線に夜明けの兆しが訪れるのとほぼ同時に、遠くから館の門番のラッパが鳴り響いた。その音は、静まり返っていた邸宅中に響き渡り、人々の眠りを破り、新たな一日を告げる。しかし、今日その音は、単なる朝の合図ではなかった。
「帰還の報せです!」
その一報が飛び込んだ瞬間、ミネットは政務室の文机から跳ね上がった。彼女の心臓は、激しく鼓動し、その顔には、一瞬にして期待と、そして恐怖が入り混じった複雑な表情が浮かんだ。執務室にいたエリーゼが「お仕度を」と声をかけるよりも早く、ミネットの足は、すでに門へと向かって動き出していた。彼女は、ゼノの無事を確かめるために、一刻も早く彼の元へ向かいたかった。
夜明けの冷たい石畳を、ミネットの足音が打ち鳴らす。その音は、彼女の心の高鳴りを映しているかのようだった。城門の前。馬上の兵たちの姿が見えた。彼らは、風と砂にまみれ、その顔には疲労の色が濃く表れていた。しかし、彼らの瞳には、任務を遂行した兵士特有の、揺るぎない光が宿っていた。その中に、ひときわ高く、そして力強い騎士の影があった。背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま、その男は馬から静かに降りた。彼の動きは、一日の激戦を物語っていた。
「ゼノ様……!」
ミネットの口から、掠れた声が漏れた。その姿は、無残なまでに戦の痕を纏っていた。黒い鎧は血と砂埃で鈍く光を鈍らせ、彼の左肩には、白い布が巻かれていた。その布からは、濃い血が滲み出ており、痛々しい姿をしていた。ゼノの顔には、疲労と、そしてかすかな痛みの色が浮かんでいた。
「ミネット、来てはいけない……こんな姿……」
ゼノの声は、低く、そして苦痛を押し殺したような響きだった。彼は、ミネットに、自分の傷ついた姿を見せたくなかったのだ。
「構いません!」
ミネットは、ゼノの言葉を遮るように、全力で走った。泥で裾が跳ね上がるのも、髪が乱れるのも気にしなかった。彼女の視線は、ただ目の前の男に触れることだけを求めていた。確かに帰ってきたその体温を感じたかった。彼女の心は、ゼノの無事を確かめることだけを願っていた。
「私、待ってました……ゼノ様が、帰ってくるのを……ずっと、ずっと……」
ミネットの声は、嗚咽に混じって震えていた。その腕に飛び込んだ瞬間、彼女の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。彼女の頬を伝い、ゼノの鎧に吸い込まれていく。
ゼノは咄嗟に右腕だけでミネットを抱き留めた。左肩の痛みに顔をしかめながらも、その身を離さなかった。彼の体温が、ミネットの体を包み込み、彼女の心に深い安堵をもたらした。
「言ったはずだ。必ず、帰ってくると」
ゼノの声は、穏やかだったが、その中には、ミネットへの揺るぎない愛情と、そして約束を違えなかったことへの、かすかな自負が込められていた。
「……はい、はい……っ」
ミネットは、ゼノの言葉に、何度も頷いた。彼女の心は、ゼノの言葉に、深く満たされていた。ミネットの手は、ゼノの背をそっと撫でた。あたたかかった。生きている。触れている。胸の奥から湧き上がる安堵と歓喜が、涙の熱となって頬を伝った。彼女の心は、ゼノの無事を確信し、その喜びを全身で感じていた。
ゼノはすぐに医師の手当てを受けた。邸宅の医務室には、緊張した空気が流れていたが、医師は、ゼノの傷を冷静に処置していた。骨までは至らぬが、傷は深かった。肩の筋を一部切っていたらしい。刺突ではなく斬撃――それだけで戦場の過酷さがわかる。彼の身に起こった激戦の痕跡は、彼の強さと、そして彼が背負う重責を物語っていた。
ミネットもようやく着替え、髪を整えた。彼女の顔には、まだ疲労の色が残っていたが、その瞳は、ゼノへの愛情で輝いていた。彼女は、ゼノの元へ向かうために、心を落ち着かせようとしていた。
ゼノの自室。明かりを落とした寝室に、ふたりきり。窓の外では鳥がさえずっている。まだ夜は完全に明けきらず、空は静けさを湛えていた。その静けさは、二人の心の安らぎを象徴しているかのようだった。
ゼノは寝台の上に座り、肩に包帯を巻いたまま、黙ってミネットを見上げていた。彼の瞳には、ミネットへの深い愛情と、そして感謝の念が宿っていた。ミネットはそっと膝をつき、ゼノの隣に座る。彼女の視線は、ゼノの傷ついた肩に向けられ、その表情には、心配と、そして愛情が入り混じっていた。しばらくの沈黙ののち、ミネットが口を開いた。彼女の声は、穏やかだったが、その中には、確かな決意が込められていた。
「ゼノ様……私、今回のことで思いましたの」
ミネットの言葉に、ゼノはわずかに眉をひそめた。
「……なんだ?」
ゼノの声は、ミネットの言葉の続きを促した。
「私、貴方の子供が欲しいです」
その言葉に、ゼノは目を瞬かせた。彼の唇がわずかに開いたものの、すぐには何も言えなかった。彼の心は、ミネットの突然の言葉に、驚きと、そして深い感動で満たされていた。
「ミネット……こんな時に、そんな冗談……」
ゼノの声は、かすかに震えていた。彼は、ミネットの言葉が、現実のものであることを、まだ信じられないでいた。
「冗談ではありませんわ!」
ミネットはまっすぐにゼノを見つめる。その瞳は、かつて見せたどの微笑みよりも強く、そして震えていた。彼女の瞳には、ゼノへの深い愛情と、そして彼との未来を築きたいという、彼女の強い願いが込められていた。
「こんな時だからこそ……貴方がいない夜が、こんなにも苦しいなんて、思いませんでした。ずっと怖かった。今こうして触れているのが夢だったらと、思ってしまうほどに……」
ミネットの言葉は、ゼノの心を深く揺さぶった。彼女の言葉は、彼の不在が、ミネットにどれほどの苦痛を与えていたかを物語っていた。ゼノの喉がごくりと鳴った。胸元の布が揺れる。彼の心は、ミネットの言葉に、深い感動と、そして愛情で満たされていた。
「いいんだな?」
ゼノの声は、ミネットの言葉の真意を確かめるように、尋ねた。
「はい……」
ミネットの声は震えていたが、そこに迷いはなかった。彼女の瞳には、ゼノへの揺るぎない愛情と、そして彼との未来を築くことへの、彼女の固い決意が宿っていた。
ゼノは右手でそっとミネットの頬に触れた。熱を帯びたその肌は、戦場のどんな焔よりも、彼の心に火をつけた。彼の心は、ミネットへの愛情で燃え上がっていた。
「なら……もう離さない。次はお前を置いていかない」
ゼノの言葉は、ミネットへの深い愛情と、そして彼女を二度と独りにしないという、彼の固い誓いを表していた。それは現実的には無理だとわかっていても伝えたかった想いだった。
「ええ、ぜひそうして。……ゼノ様」
ミネットの言葉は、ゼノへの深い信頼と、そして彼と共に生きていくことへの、彼女の強い願いを込めていた。
その夜、ふたりは初めてひとつになった。窓の外には、まだ夜が明けきらない空が広がり、星々が瞬いていた。寝室は、二人の吐息と、そして互いへの愛情で満たされていた。
ゼノは左肩を庇いながら、できる限り優しく、丁寧にミネットの髪を撫で、服を解いた。彼の指先は、ミネットの肌を優しくなぞり、その感触は、ミネットの体を震わせた。ミネットは何も言わずに目を閉じ、ゼノの動きに身を委ねた。彼女の心は、ゼノへの愛情で満たされ、彼の腕の中で、深い安らぎを感じていた。
「ああ……ミネット、かわいい……」
こぼれたその呟きは、まるで祈りのようだった。ゼノの声は、ミネットへの深い愛情と、そして彼女の美しさを讃える気持ちを込めていた。
そして、ふたりの想いが結ばれた瞬間――静寂の中、世界はふたりだけのものになった。そこには、他者の存在はなく、ただ二人の心だけが、深く繋がっていた。
痛みと喜びが入り混じる中、ミネットはゼノの名前を何度も呼び、ゼノはそのひとつひとつに応えながら、何度もキスを落とした。彼の唇は、ミネットの肌に触れるたび、彼女の心に、深い喜びと、そして幸福をもたらした。
「……ゼノ様、ありがとう……」
ミネットの声は、感謝と、そして愛情で震えていた。
「私の方こそ……お前に生かされた」
ゼノの言葉は、ミネットへの深い感謝と、そして彼女が自分の人生にどれほど大きな影響を与えたかを物語っていた。月が隠れ、夜が完全に明けるまで、ふたりは互いを確かめ合い続けた。彼らの間に生まれた絆は、愛と、信頼と、そして互いを必要とする深い感情で満たされていた。
翌朝、エリーゼが部屋の前で扉に手をかけようとして、ためらった。彼女の耳には、中から聞こえる小さな寝息と、もうひとつ、深い呼吸が届いていた。それは、二人が深く愛し合った証であり、彼女の心を温かくした。
「……おめでとうございます、ミネット様」
エリーゼはそっと口元を緩め、扉に背を向けて歩き出した。彼女の顔には、ミネットの幸福を祝う、温かい笑みが浮かんでいた。政務官ハルトが朝の報告を持って現れたが、彼女は言う。
「今日は静かにしておいてあげましょう」
エリーゼの声は、ハルトの質問を遮るように、穏やかだった。
「また夫婦喧嘩ですか?」
ハルトは、エリーゼの言葉に、首を傾げた。
「違いますわ。夫婦円満、というやつです」
エリーゼは、にこりと笑って去っていった。その笑顔は、ハルトに、ミネットとゼノの間に起こった変化を、暗に示していた。ハルトは理解できないまま頭を掻いた。彼の顔には、困惑の色が浮かんでいた。
そのころ――寝室の中、ゼノはミネットを優しく抱き寄せたまま、ひとことだけ呟いた。彼の声は、微かに掠れていたが、その中には、ミネットへの深い愛情と、そして満足感が込められていた。
「……私の妻だ」
ミネットはうっすら目を開けて、微笑む。彼女の瞳には、ゼノへの揺るぎない愛情が宿っていた。
「ええ。ずっと、そうですわ」
ミネットの声は、ゼノへの深い愛情と、そして彼と共に生きていくことへの、彼女の固い決意を込めていた。そして、もう一度眠りの中へと落ちていった。彼らの間には、言葉以上の深い絆が生まれていた。




