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政略結婚なのに、寡黙な辺境伯の無垢な溺愛が仔猫系令嬢を目覚めさせました  作者: 宮野夏樹
第1章 不器用な溺愛

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25.空白の時間


 夜は、明けた。しかし、その光は、希望の色ではなかった。ただ、時間が過ぎ去ったというだけの証。朝陽が窓から差し込み、執務室を淡く照らしていた。窓辺に立ち尽くしたミネットは、くたびれた瞳で朝陽を見つめていた。彼女の顔には、夜通しの不安と、そして疲労の色が濃く表れていた。ゼノは、まだ戻らない。


(……ご無事なのだと、信じているのに)


 ミネットの心は、ゼノの安否を案じる気持ちで、張り裂けそうだった。目を閉じれば思い出す。昨日、鎧を身にまとった彼の姿。その背中に帯びた長剣の冷たさ、そして彼の放つ、研ぎ澄まされた気配。低く、穏やかで、でも強い覚悟を秘めた声。


『ここに戻ってくると、誓う』


 それは、確かに言葉だった。力強く、そして確かな約束の言葉。けれど、その重みを知れば知るほど、胸が苦しくなる。彼の言葉は、まるで彼女の心臓を締め付ける鎖のように、彼女を不安の淵へと引きずり込んでいた。


 カリーナの勧めもあって、ミネットは政務室へと足を運んだ。彼女の足取りは重く、その心は、まだゼノの不在に囚われていた。ゼノがいつも座る席に、彼女は初めて、自分の手で書類を置いた。彼の座る椅子は、まるで彼がそこにいるかのように、どっしりとした存在感を放っていた。


「本日の議題は、三件。うち一件は……村からの追加要請ですわね」


 ミネットの声は、微かに震えていたが、その中には、辺境伯夫人としての責任感が込められていた。読み慣れぬ筆跡と数字に眉をひそめながらも、ミネットは一つずつ読み進めた。資料に添えられた農民の署名。村の水資源の再分配案。資材の搬送日程。どれも、ゼノが真剣に取り組んできた証だった。彼女は、ゼノが残した仕事を、彼に代わって果たそうと、必死だった。


(……わたくしも、守られるだけでなく、彼の横に並ぶ者でいたい)


 ミネットの心には、ゼノの隣に立つ者としての強い決意が芽生えていた。だから、ゼノがいない今、彼の代わりにできることをやろうと心に決めた。彼女の指先が、書類の上を滑るたびに、微かな音が執務室に響いた。


「おはようございます、奥方様」


 そっと声をかけたのはハルトだった。彼の足音は、普段よりも控えめで、その声もまた、ミネットの心を気遣うかのように、優しかった。書類の束を手に持ち、平然とした様子で一礼する。彼の顔には、疲労の色が浮かんでいたが、その瞳は、冷静だった。


「お身体は、大丈夫ですか」


 ハルトの言葉には、ミネットへの深い気遣いが込められていた。


「……ええ。少し、寝不足ですけれど。お構いなく」


 ミネットがそう返すと、ハルトは一瞬だけ目を伏せてから、言葉を続けなかった。彼はすべてを察していた。ゼノの不在が、ミネットの心をどれほど苦しめているかを。けれど、慰めの言葉をかけることも、安易な希望を口にすることもなかった。彼は、ミネットが、自らの足で立ち続けることを、静かに見守っていた。


「では、順に確認してまいります」


 淡々とした口調のまま、ハルトはミネットの隣に立ち、報告を読み上げていく。彼の声は、執務室に響き渡り、ミネットの心を、少しだけ落ち着かせた。


 エリーゼも同じだった。彼女は、静かに、しかし献身的にミネットに仕えていた。紅茶を淹れ、帳簿を揃え、必要なものを差し出し――何一つ、変わらぬ仕草で仕えていた。だがその指先の動きが、いつもより少しだけ丁寧で、少しだけ慎重であることを、ミネットは気づいていた。


 彼女たちの無言の支えが、ミネットの心を温かく包んでいた。誰も何も言わない。けれど皆が、ミネットと同じ空白を見つめている。ゼノの不在という、ぽっかりと空いた“穴”を。邸宅全体が、ゼノの不在によって、静かで重苦しい空気に包まれていた。


 時間は、いつものように進んでいった。秒針の音が、執務室の静寂を際立たせる。ミネットは、書類と向き合いながら、心の中でゼノの無事を祈り続けていた。

 昼には村の代表が来訪し、ミネットは応接間で話を聞いた。村人たちは、ゼノの取り組んでいた井戸の進捗について、感謝の言葉を述べていた。彼らの言葉は、ミネットの心に、温かい光を灯したが、同時に、ゼノがそこにいないことの寂しさを募らせた。


(ゼノ様なら、もっと上手に応えられるのに)


 ミネットは、そう思いながらも、笑みを浮かべて応じた。彼女は、ゼノの代わりとして、完璧に振る舞おうと努力していた。しかし、心のどこかがずっと空虚だった。彼女の心は、ゼノの不在によって、ぽっかりと穴が開いたようだった。


 午後には書簡が三通届き、視察に関する返信を要した。ゼノが決めた方針を崩すことなく、ミネットは慎重に言葉を選んで返答を書き記す。彼女の指先は、ペンを握りしめ、一文字ずつ丁寧に筆を運びながら、ミネットはそっと窓の外を見やった。


「……殿下の代筆として。間違っていませんように」


 ミネットの声は、祈るように、しかしその中には、ゼノの信頼を裏切らないという、彼女の固い決意が込められていた。




 雲ひとつない空。夏の空はどこまでも青く広がり、太陽が眩しいほどに輝いている。しかし、ミネットの目には、その輝きは届かなかった。騎馬の影も、兵の一団も、まだ見えない。遠くの地平線を見つめながら、ミネットの心は、不安で満たされていった。


(あれほど強かった方が、そう簡単に倒れるわけない)


 理屈では理解していた。ゼノは、厳しい軍事訓練を積み、剣も扱える。実戦経験も多く、冷静に判断できる人だ。彼の強さを、ミネットは誰よりも知っていた。

 けれど、心はそう簡単には納得しない。ほんの少しの不安が、まるで墨を垂らした水のように、静かに胸の中を黒く染めていく。


 ――もしも、帰ってこなかったら。


 そんな考えを、何度も振り払った。しかし、振り払った分だけ、また違う形でよぎってしまう。ミネットの心は、不安の波に飲み込まれそうだった。


 日が傾き始め、長い影が廊下に伸びる頃。政務室は、夕暮れの淡い光に包まれていた。ミネットは、ようやく手を止めた。彼女の指先は、書類を書き続けた疲れで、わずかに震えていた。政務室を出て、廊下を歩く。邸宅は、夕暮れの光に染まり、その静けさは、ミネットの心を、さらに沈ませた。庭へ出ると、夏の花々が風に揺れていた。色とりどりの花が、まるで彼女を慰めるかのように、優しく咲いていた。




 ふと、ゼノとともに歩いた日のことを思い出す。あのとき、彼は微笑んでいた。ミネットが花に見とれて立ち止まると、そっとその手を取ってくれた。彼の指先は、ミネットの手に優しく触れた。


「君は……本当に、気まぐれな猫みたいだ」


 そう言って、優しく頭を撫でてくれたこと。――今でも、あの手の温もりを覚えている。その記憶は、ミネットの心に、温かい光を灯したが、同時に、彼の不在を強く感じさせた。


(帰ってきて。あなたじゃなきゃ、いや)


 ミネットの心は、ゼノへの深い愛情で満たされていた。花に手を伸ばしたその指先が、かすかに震えていた。彼女の心は、ゼノの帰還をただ願うばかりだった。


 夕刻。夕食の時間になっても、ゼノの帰還の報せはなかった。食堂は、いつもより静かで、ゼノの席は、ぽっかりと空いていた。


「……夕餉は、お下げしましょうか?」


 エリーゼが、そっと問いかける。彼女の声は、ミネットの心を気遣うように、優しかった。ミネットは少し考えてから、静かに首を振った。


「残してください。……あの方の分も」


 ミネットの言葉には、ゼノの帰還を信じる、彼女の強い意志が込められていた。


「かしこまりました」


 エリーゼはそれ以上何も言わず、深く一礼して去っていった。彼女の背中は、ミネットの願いを尊重する、彼女の忠誠心を表していた。


 ミネットはそのまま、誰もいない食卓に一人座った。銀の燭台が炎を灯し、静かな食堂に揺れる光だけがあった。遠くで、時計の針が時を刻む音がする。その音は、ミネットの心を、さらに不安にさせた。ゼノの椅子の前には、彼のためのパンとスープが置かれていた。けれど、彼がそれを口にすることは、まだ叶っていない。ミネットはスプーンを手に取ることもなく、ただ炎を見つめていた。その瞳は、ゼノの無事を願う、彼女の強い祈りを映していた。


(きっと、無事。きっと……)


 どれだけ祈っても、答えは返ってこない。それでも、祈ることしかできなかった。彼の声が聞きたい。無事に帰ってきたと、ただ一言でいいから、そう言ってほしい。――それが、こんなにも難しいことだったなんて。ミネットの心は、深い絶望に包まれそうだった。




 夜が深まり、窓の外には星が瞬き始めていた。夜空には、無数の星が輝き、その光が、ミネットの祈りを、静かに見守っていた。けれど、ゼノの足音も、馬蹄の音も、まだ館には届かなかった。


 ミネットはその夜、寝台には向かわず、またあの窓辺に腰を下ろした。月が昇り始めるのを見ながら、彼女はひとつ、そっと呟いた。


「……明日こそは、あなたに会えますように」


 それは祈りというより、願いというより――ただの、夢のような言葉だった。


 けれど、それでも。ミネットは信じていた。その願いが、きっとゼノのもとに届くと。ゼノの“帰る場所”が、ここにあることを誰よりも強く信じて。

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