24.辺境伯の仕事と妻の祈り
それは、青空の澄み切った昼下がりのことだった。夏の陽光が広大な庭園に降り注ぎ、館の大広間には、穏やかな風が吹き込んでいた。ミネットは、窓から差し込む柔らかな光の下、帳簿に目を通していた。その指先が紙の上を滑るたび、微かな音が広間に響く。使用人たちが行き交い、涼風が窓から吹き込み、穏やかな時間が流れていた――その瞬間までは。
「失礼いたします!」
静寂を切り裂くように、警備隊の副官が駆け込んできた。彼の息は荒く、顔には疲労と、そして緊迫した表情が浮かんでいた。息を切らしながらゼノのもとへ進み出ると、ひざをついて声を低くする。彼の報告は、広間の空気を一変させた。
「野党が、南の森林地帯に潜伏しているとの報告がありました。物資の略奪と、農民への脅しが確認されています」
副官の声は、広間に響き渡り、ミネットの手が止まった。彼女の心臓は、激しく鼓動し始めた。「野党」という言葉は、領地内でも時折耳にしていたが、実際に被害が報告されるのは珍しい。その言葉は、ミネットがこれまで触れてきた、穏やかな日常とはかけ離れた現実を突きつけるものだった。
「……数は?」
ゼノの声は、低く、しかしその中には、冷静な判断力が宿っていた。
「確認できたのは七、八名。だが、さらに増えている可能性があります。村に接近される前に排除を、と」
副官の言葉は、事態の緊急性を物語っていた。村人たちの安全が脅かされていることを知り、ミネットの心は不安に満たされた。
「エルンスト隊長は?」
ゼノの問いに、副官は即座に答えた。
「既に準備を整えております」
ゼノは無言で立ち上がると、いつもの軍務服に加え、腰には剣を帯びていた。彼の動きは、迷いがなく、その姿からは、辺境伯としての強い覚悟が感じられた。その姿に、ミネットは思わず言葉を失う。彼の腰に帯びた剣は、彼女にとって見慣れないものだった。剣を携えた彼を見るのは、初めてだった。
「……行かれるのですね?」
ミネットの声は、かすかに震えていた。彼女の瞳は、ゼノの背中に向けられ、不安と、そして悲しみが入り混じっていた。
「当然だ。村が脅かされている以上、領主の責務として」
ゼノの声は、迷いがなく、その中には、辺境伯としての強い責任感が込められていた。それが、辺境伯としての当然の義務。ゼノは常にそう語っていた。彼の言葉は、彼がどれほど民を大切に思っているかを物語っていた。けれど。
「……私も、行けませんか?」
ミネットの声は、懇願するように、しかしその中には、微かな決意が込められていた。彼女は、ゼノと共に、民を守るために戦いたいと願っていた。
「だめだ」
ゼノの声は即答で、迷いがなかった。彼の言葉は、ミネットの願いを、容赦なく打ち砕いた。
「危険すぎる。私は剣を持っている。だが君は……」
ゼノの言葉は、ミネットの無力さを突きつけるものだった。彼女は、自分がゼノの力になれないことに、深い無力感と、そして悔しさを感じた。ミネットは唇を噛んだ。自分が無力であることを、こうして突きつけられるのは、何より悔しかった。
「……でも、私は……あなたの傍にいたいんです」
震える声で呟くと、ゼノはミネットの前にひざをつき、そっと彼女の方へ手を差し出す。彼の指先は、ミネットの頬を優しく撫でた。その眼差しは、深く、そしてミネットへの揺るぎない愛情に満ちていた。
「ミネット、私は必ず帰る。……ここに戻ってくると、誓う」
ゼノの言葉は、ミネットの心に、深い安堵と、そして希望をもたらした。彼の言葉は、彼の固い決意と、そしてミネットへの深い愛情を表していた。
ミネットは思わず、ゼノの首に腕を回して抱きついた。彼の鎧の金具が冷たくて、でも、確かに体温を持っていた。彼女の顔は、ゼノの胸に押し付けられ、その心臓の音が、はっきりと聞こえた。彼の体温が、ミネットの体を包み込み、彼女の不安を和らげた。
「……帰ってきてください。どれだけ遅くなっても、ずっと待っていますから」
ミネットの声は、祈るように、しかしその中には、ゼノへの深い愛情が込められていた。
「……ああ」
そのときのゼノの声は、深く、低く、何かを押し込めていた。彼の声には、ミネットへの惜別の念と、そして戦いへの覚悟が混じっていた。
「隊長、急ぎお支度を!」
扉の向こうからエルンストの呼び声が響く。その声は、ゼノの出発を促していた。ミネットは名残惜しくも腕をほどいた。彼女の瞳は、ゼノの背中に向けられ、その背中が遠ざかるのを、見送ろうとしていた。その時、背後から声が飛んできた。その声は、ミネットの心を、強く揺さぶった。
「ミネット様。お心をしっかりお持ちくださいませ」
カリーナだった。彼女は、凛とした表情で一礼し、毅然と告げる。彼女の瞳は、ミネットの顔をまっすぐに見つめていた。
「これも、辺境伯のお勤めです。……あなた様が弱気になってどうなさるのです」
カリーナの言葉は、ミネットの心を奮い立たせるものだった。彼女は、ミネットが、辺境伯夫人として、強くあるべきだと諭していた。
「……カリーナ」
ミネットの声は、かすかに震えていた。
「どうか、ご無事を。殿下の帰る場所は、奥方のもとにございます」
カリーナの言葉は、ミネットに、ゼノの帰りを待つことの重要性を再認識させた。ミネットは、喉の奥に詰まる思いを飲み込み、カリーナに小さく頷いた。彼女の心は、カリーナの言葉に、力強く支えられた。
夜になっても、ゼノは戻らなかった。館の廊下は静まり返り、普段よりも使用人たちの足音さえ少なく感じられた。邸宅全体が、重苦しい沈黙に包まれていた。
ミネットは自室の窓を開け、月の光を見上げていた。夜空には、満月が煌々と輝き、その光が、ミネットの顔を淡く照らしていた。夜風が淡く髪を揺らし、額に落ちた一房を指で払う。彼女の瞳は、遠くの森の方向を見つめていた。
「……遅いですわね」
何度目かの呟きだった。返事があるはずもない。なのに、声を出していないと、自分の胸が耐えられなかった。彼女の心は、ゼノの安否を案じる気持ちで、張り裂けそうだった。
机の上には、ゼノが出発前に外した手袋がある。丁寧に折られたその革手袋を、ミネットは手に取った。その感触は、ゼノの温もりを微かに伝えていた。
「怖いのですわ。あなたが剣を持って出ていくのが……」
ミネットの声は、震えていた。今まで、ゼノの背には政務と義務しか見てこなかった。けれど今日、彼の背には確かに“戦い”があった。それは、ミネットがこれまで知らなかった、ゼノのもう一つの顔だった。そしてその覚悟が、美しく、恐ろしく、そして、愛おしくてたまらなかった。彼女の心は、ゼノへの愛情で、深く満たされていた。
(私……こんなに、あなたを……)
胸をぎゅっと押さえる。心が、叫びそうになる。
――無事でいて。
ミネットの心は、ゼノの無事をただ願うばかりだった。どんなに大義があっても、どんなに正義の剣でも。私は、あなたを失いたくない。彼女の心は、ゼノを失うことへの恐怖で、押しつぶされそうだった。ミネットは、窓辺にしゃがみ込み、月明かりの下で祈るように瞼を閉じた。その姿は、まるで聖女のようだった。ゼノの名を、ただ心の中で呼びながら。それだけが、今の自分にできるすべてだった。彼女は、自分の無力さを痛感しながらも、ゼノの帰還を信じ続けた。
その夜、館の灯りは、ミネットの部屋だけが遅くまで消えなかった。彼女は眠ることもせず、誰よりも静かに、そして誰よりも強く、ゼノの帰還を信じ続けていた。月は雲に隠れ、やがて静かに沈んでいった――。夜空は、ゼノの無事を願うミネットの祈りを、静かに見守っていた。




