21.辺境伯夫人の覚悟
帳簿の束を両手に抱えたミネットは、その重みに少しだけ肩をすくめながら、机の向こうにいる夫に向かって小さく口を開いた。彼の執務室には、墨と紙の匂いが満ち、外の穏やかだけれど力強い夏の陽気とは対照的な、引き締まった空気が漂っていた。
「ゼノ様」
ミネットの声は、普段よりも少しだけ真剣な響きを帯びていた。ゼノが顔を上げる。彼の指先は、まだ墨で汚れたままだ。静かに彼女を見つめるその瞳には、彼女の言葉の続きを促すような穏やかな光が宿っていた。
「私……実際に、この目で見てみたいんですの」
ミネットは、抱えていた帳簿をそっと机に置いた。彼女の瞳には、強い意志が宿っていた。
「“この目で”?」
ゼノは、ミネットの言葉を反芻するように、ゆっくりと繰り返した。
「はい。数字だけでは……きっとわからないこともありますわ。百の数字より、ひとつの顔を見たいと思いましたの」
それは、ゼノと共に帳簿を眺め、農作物の収穫量や税率の推移を確認していた折に抱いた、素直な想いだった。数字の羅列だけでは、その裏にある人々の暮らしや感情が見えてこない。彼女は、紙の上の情報だけでなく、その背景にある現実を肌で感じたいと願っていた。
「貧しい地区とされている集落、実際にはどういう暮らしをしていて、何が足りなくて、何を望んでいるのか。私も知っておきたいんです」
ミネットの言葉には、領地の民への深い関心と、辺境伯夫人としての責任感が込められていた。彼女は、ただゼノの傍にいるだけでなく、彼の重責を分かち合いたいと思っていた。
「……」
ゼノは筆を置き、顎に手を添えて考え込む。彼の表情は、真剣だった。ミネットはその沈黙が不安になり、つい言葉を重ねた。
「……駄目でしょうか?」
ミネットの声は、かすかに震えていた。彼女は、ゼノが反対するのではないかと、心配していた。
「いや」
短く否定し、ゼノは立ち上がる。彼の瞳には、ミネットの真剣な眼差しを受け止める、確かな光が宿っていた。
「準備する。明日、現地へ向かう。最初は第二区域の南部村落だ。道は悪いが……」
ゼノの言葉に、ミネットの顔が一瞬で明るくなった。彼の言葉は、彼女の心に、希望の光を灯した。
「本当に?」
ミネットは、信じられないという表情で、ゼノを見つめた。
「……君の瞳は、どこまでも真っ直ぐだからな。否と言える理由がない」
ゼノは、ミネットの瞳の奥に宿る純粋さを見抜いていた。彼の言葉には、ミネットへの深い信頼と、そして愛情が込められていた。
「やった……!」
ミネットは、喜びを隠しきれないように、小さく拳を握った。
「はしゃぎすぎるな。視察は遊びではない」
ゼノの声は、いつも通りぶっきらぼうだったが、その口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。
「わかってますわ。でも……少しくらい、嬉しくてもいいでしょう?」
ミネットは、いたずらっぽく笑った。ゼノは苦笑し、そっと彼女の頭に手を添えた。彼の指先が、ミネットの髪を優しく撫でた。
「……ああ。嬉しい顔も、ちゃんと見せてくれ」
ゼノの言葉は、ミネットの心を温かくした。彼の言葉は、ミネットの心に、深い安堵と、そして幸福をもたらした。
翌朝。邸宅の門前には、馬車ではなく、現地の道に慣れた小型の馬車と騎馬が用意されていた。これは、辺境伯としてのゼノが、民の目線に立って行動しようとする彼の姿勢の表れでもあった。ミネットはゼノの隣に座り、少し緊張しながら車窓の景色を眺めていた。彼女の心は、期待と、そして未知の体験への不安でい満たされていた。
夏の日差しがやわらかく、木々の緑がまぶしい。道端には色とりどりの野花が咲き、農夫たちが遠く畑を耕している姿も見える。その風景は、ミネットがこれまで見てきた、整然とした邸宅の庭とは全く異なる、素朴で力強いものだった。
「……ゼノ様」
ミネットの声は、静かに、しかしその中には、感嘆の響きが込められていた。
「なんだ?」
「思ったより、活気がありますわね。もっと暗い景色かと……」
ミネットは、村の風景に、意外な印象を抱いていた。
「ここの者たちは、辛くとも笑う。だからこそ、我々が忘れてはならないのだ」
ゼノの言葉は、この地の民が持つ、強さと尊厳を示していた。彼の言葉は、ミネットの心に深く響いた。
「……そうですね」
ミネットは、深く頷いた。彼女の心には、新たな認識が芽生えていた。
やがて馬車は村に到着し、ゼノとミネットはそれぞれ視察の準備に取りかかった。村長や耕作者たちが集まり、ゼノの姿に緊張と敬意が入り混じった空気が流れる。彼らは、領主とその奥方の訪問に、戸惑いと、そして期待の眼差しを向けていた。
「これはノールガール辺境伯様……!」
村長の声は、敬意と、そしてわずかな緊張を帯びていた。
「奥方様まで……遠路お越しくださるとは」
村人たちは、ミネットの訪問に、驚きと、そして喜びの表情を見せていた。ミネットは、ゼノの言葉に倣い、頭を下げる。彼女の動作は、優雅でありながらも、村人への敬意が込められていた。
「今日は、お時間をいただきありがとうございます。私も、できるだけ現地を見て学びたいと思っておりますの」
ミネットの言葉は、村人たちの心に、温かく響いた。その言葉に、村人たちは顔を見合わせ、やがてほころんだように頷いた。彼らは、辺境伯夫人が、自分たちの生活に真剣に向き合おうとしていることに、感動を覚えていた。
ミネットは、ゼノの案内で村を歩いた。彼女は、荒れた道を、裾を気にしながらも踏みしめ、農地を一緒に見てまわった。彼女の視線は、村の隅々まで向けられ、その一つ一つを心に刻み込もうとしていた。農夫の老爺が彼女に語る。彼の顔には、苦労の跡が刻まれていた。
「去年の干ばつで、井戸の水が枯れましてな。新しく掘るには費用が足りんで……」
老爺の言葉は、この地の民が直面している困難を物語っていた。
「なるほど、それで貯水用の桶が多く……」
ミネットは、帳簿の数字と、現実の風景を繋ぎ合わせて理解しようとした。
「ええ、水の確保が毎朝の勝負ですわ。皆、夜明け前から動いておる」
老爺の言葉に、ミネットは真剣に頷き、持参した帳面に何かを書き留めた。彼女は、この地の民の苦労と、彼らの懸命な努力を、心に刻み込もうとしていた。
ゼノがその様子をそっと見守っていた。彼の表情は、ミネットの真剣な姿に、満足と、そして誇らしさを感じていた。子供たちが駆け寄ってきて、ミネットのスカートをつまんで笑う。彼らの目は、ミネットの優しい笑顔に、喜びと好奇心を映していた。彼女はその手を優しく取って、微笑み返した。
「あなたたち、元気ね。お名前は?」
ミネットの声は、子供たちを安心させるように、優しかった。
「ぼく、テオ!」
「わたし、ナナ!」
子供たちは、元気いっぱいに答えた。
「まあ、いいお名前」
ミネットは、子供たちの名前を優しく呼び、彼らの頭を撫でた。ゼノがわずかに目を細めた。彼の心の中には、温かい感情がこみ上げていた。
(……自然だな)
この地に立っても、ミネットは気取らず、誰にでも優しく接している。書物や帳簿の上では見られない、実地の力。思わず、誇らしさがこみ上がる。彼の心は、ミネットへの愛情と、そして彼女が持つ、かけがえのない人間性に満たされていた。
昼食は、村人が用意した素朴なパンとスープだった。テーブルには、採れたての野菜が並べられ、その香りが食欲をそそった。
「奥方様、こんな粗末なもので申し訳ない……」
村長は、恐縮したようにミネットに言った。
「とんでもない。どれほど心のこもったご馳走か」
そう言ってミネットは笑い、パンを頬張った。彼女の笑顔は、村人たちの心を温かくした。ゼノも同じく手を伸ばす。彼の顔には、ミネットと同じように、満足げな笑みが浮かんでいた。子供たちがくすくす笑う。彼らは、ゼノとミネットの仲睦まじい様子を見て、楽しそうに笑っていた。
「旦那様と一緒だー!」
「仲良しー!」
子供たちの無邪気な言葉に、ゼノが少しだけ慌てた様子で子供たちを見る。彼の顔は、微かに赤くなっていた。ミネットはその横顔を見て、そっと手を伸ばした。彼女の指先が、ゼノの手に触れる。
「仲良しですもの。ね、ゼノ様?」
ミネットの言葉には、ゼノへの愛情が込められていた。
「……ああ」
微かに耳が赤くなった彼の姿に、ミネットは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。彼女の心は、ゼノへの愛情で満たされていた。
午後。視察の最後、ゼノとミネットは村の小高い丘に登った。そこからは村全体が見渡せ、畑、井戸、家屋、すべてが縮図のように眼下に広がっていた。遠くには、きらめく海が見え、その向こうには、広大な空が広がっていた。
「どうだった?」
ゼノが隣で問う。彼の声は、ミネットの感想を促すように、優しかった。ミネットは小さく息を吸って――答えた。彼女の瞳には、村で見た光景が、鮮明に焼き付いていた。
「……数字ではわからなかったことが、たくさんありましたわ」
ミネットは、自分の言葉に、確かな重みを感じていた。
「たとえば?」
ゼノは、ミネットの言葉の続きを促した。
「この村には、笑顔があります。けれど、その笑顔の裏に、見過ごされている“当たり前の不便”がある。彼らは声を上げないだけで、援けを求めていないわけじゃない」
ミネットの言葉は、この地の民への深い洞察と、そして共感が込められていた。彼女は、彼らの苦しみを、自分のことのように感じていた。
「……そうだな」
ゼノは、ミネットの言葉に、深く頷いた。彼は、ミネットが、辺境伯夫人として、確かな一歩を踏み出したことに、感動していた。
「それを、私は……“目にする責任”があると、初めて思いました」
ミネットの言葉には、辺境伯夫人としての覚悟が込められていた。彼女は、自分の役割を、単なる形式的なものとしてではなく、真の責任として捉え始めていた。ゼノは静かに頷き、そしてゆっくりと、彼女の手を取った。彼の手は、優しく、けれど確かに強かった。ミネットの手を包み込むように、温かく、そして力強かった。
「お前が今日ここで得たものは、どの貴族令嬢や夫人よりも重い。胸を張れ、ミネット」
ゼノの言葉は、ミネットの心を深く揺さぶった。彼の言葉は、彼女への深い信頼と、そして彼女が持つ、かけがえのない価値を認めるものだった。
「……ゼノ様」
ミネットの瞳が、ぱっと潤んだ。彼女の顔には、感動と、そして幸福の涙が浮かんでいた。
「君は、立派な妻だ。私の誇りだよ」
ゼノの言葉は、ミネットの心に、忘れられないほどの喜びをもたらした。
「……そんな風に、言われたら……嬉しくて、また頑張りたくなりますわ」
ミネットの声は、喜びで震えていた。
「ならば、次の村にも同行してもらうとしよう」
ゼノは、ミネットの成長を促すように、次の課題を与えた。
「はいっ!」
ミネットは、力強く返事をした。彼女の瞳には、新たな挑戦への意欲が宿っていた。風が吹き抜け、ミネットの髪が舞う。ゼノはその髪をそっと掬い、耳にかけた。彼の指先が、ミネットの肌に触れる。その感触は、ミネットの心を温かくした。
「この地を見て、感じたことを、君が忘れない限り――この領は大丈夫だ」
ゼノの言葉は、ミネットへの深い信頼と、そしてこの領の未来を彼女に託すかのような響きがあった。ミネットは真っ直ぐに、ゼノを見上げた。彼女の瞳には、揺るぎない決意が灯っていた。
「ええ。私は、この場所を、あなたと見た今日を、絶対に忘れませんわ」
それは、政略結婚から始まったふたりが、ようやく「並び立つ者」として同じ地平に立った瞬間だった。彼らの関係は、愛と信頼に満ちた、真の夫婦へと変化していた。
どこまでも広がる空の下――ミネットの瞳には、新しい覚悟が灯っていた。彼女はゼノと共に、この領をより良い場所にするために、全力を尽くすことを誓ったのだ。




