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政略結婚なのに、寡黙な辺境伯の無垢な溺愛が仔猫系令嬢を目覚めさせました  作者: 宮野夏樹
第1章 不器用な溺愛

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20.新たな一歩

 馬車の中で交わされた、誰にも知られていない静かな口付け。それはまるで、ミネットとゼノにしかわからない「はじまりの合図」だった。あの瞬間、二人の間には、目に見えないけれど確かな絆が生まれた。ミネットの心は、ゼノの温かい唇の感触を忘れられずにいた。ゼノもまた、ミネットの柔らかい唇の感触と、彼女の閉じた瞳の美しさを、脳裏に焼き付けていた。


 翌朝から──ふたりの空気は、目に見えて変わった。これまでどこかぎこちなかった距離感が、柔らかく溶けはじめていた。ミネットはゼノの隣にいることを自然と選び、ゼノもまた、彼女が傍にいることを当然のように受け入れていた。その変化は、邸宅中の誰もが気づくほど、明らかだった。


 たとえば執務室。以前なら、ミネットはゼノの執務の邪魔をしないよう、扉の外で控えていた。しかし、今ではゼノの書斎の奥、窓際の椅子に腰かけて読書をしている。彼女の視線は、時折ゼノに向けられ、彼の仕事ぶりをそっと見守っていた。ゼノもまた、時折視線を上げて、ミネットの姿を確認するようにしていた。


 たとえば食堂。これまでは緊張のせいか会話も少なかったが、今は笑い声が交わされ、デザートの取り合いに小さなじゃれ合いすら起きている。朝食の席では、ゼノがミネットの好きなパンを取り分け、ミネットがゼノのカップに紅茶を注ぐ。そんな些細なやり取りが、二人の間に温かい空気を生み出していた。


 使用人たちはその変化に驚き、そして微笑ましく見守っていた。彼らの顔には、安堵と、そして喜びの表情が浮かんでいた。


「奥様、今朝も旦那様とお揃いで……」


 メイドたちが、ひそひそと囁き合う。


「ええ、それにお部屋にもずっといらっしゃるのよ? まるで新婚のように」

「新婚ですけどね」

「ふふっ」


 邸の空気が、明るくなった。ラファエル王子による事件以降漂っていた張りつめた緊張も、今ではどこかへ消え去っていた。邸宅全体が、幸福な雰囲気に包まれていた。


 特に厨房では、料理長のロルフの指揮のもと「辺境伯夫妻の甘い昼餉」が話題に上がり、今日はどんな菓子を出すべきか、フルーツの切り方はハート型が良いのではと真剣な議論がなされているほどだった。彼らは、二人の幸福を願い、心を込めて料理を作っていた。

 その中心にいるのが、誰よりも今、愛を欲し、愛を注ぐようになったミネットである。彼女の顔には、愛情に満ちた、穏やかな笑みが浮かんでいた。彼女の心は、ゼノへの愛で満たされ、その愛を彼に注ぎ込もうとしていた。


「ゼノ様、今日はお傍で裁縫をしても?」


 ミネットの声は、ゼノの執務室に、優しく響いた。彼女は、ゼノの隣にいることを、何よりも望んでいた。


「構わない。邪魔でなければ」


 ゼノの声は、いつも通りぶっきらぼうだったが、その瞳には、ミネットへの優しさが宿っていた。


「邪魔なわけがありませんわ。ふふ」


 ゼノの書斎の片隅で、ミネットは猫の刺繍入りの布を膝に乗せ、小さく笑った。彼女の膝元には、いつの間にか現れた黒猫のクロが、気持ちよさそうに丸くなっていた。クロは、ミネットの指先が動くたびに、しっぽをゆらゆらと揺らしていた。ゼノの視線が、彼女に一瞬だけ向けられ──そして、すぐに手元の書類に戻る。その一瞬を、ミネットは見逃さなかった。彼女の心は、ゼノのわずかな仕草にも、敏感に反応していた。


(今、見ましたわね?)


 満足そうに目を細めると、ほんの少しだけ布をずらして肌を見せ──ミネットは、ゼノの視線を再び引きつけようと、ほんの少しだけ、いたずらっぽい駆け引きを仕掛けた。


「……ミネット。袖が滑り落ちている」


 ゼノの声は、冷静だったが、その耳は、わずかに赤く染まっていた。


「まあっ、うっかり」


 うっかりなわけがない。ミネットは、心の中でくすりと笑った。


 けれど、ゼノは咎めず、ただそっと上着を脱いで彼女の肩にかけた。彼の指先が、ミネットの肌に触れる。その感触は、ミネットの心を温かくした。ミネットは「大好きですわ」と囁き、小さく彼の腕に触れた。彼女の言葉は、ゼノの心を深く揺さぶった。

 ゼノの耳が、わずかに赤く染まる。彼は、ミネットの愛情表現に、照れを隠せないでいた。クロは、二人の様子を、興味深そうに見上げていた。




 そんな甘い日々のなか、問題が起きたのは三日目の朝だった。執務室には、相変わらず穏やかな空気が流れていたが、その中で、ハルトの声だけが、疲労の色を濃くしていた。


「ゼノ様……本日、もう三度目の書類確認が抜けています」


 淡々と告げたのは、政務官ハルト。彼の顔には、疲労の色が濃く、目の下には、うっすらと隈ができていた。山のように積まれた書類と、それを無視してミネットと朝の紅茶を楽しんでいる主君を交互に見やった彼は、いつにも増して疲労の色が濃い。クロは、ハルトの疲れた表情に、同情するように彼の足元に擦り寄った。


「ミネット様の誕生花の話は後でも……いえ、できれば今はご遠慮いただけますか」


 ハルトの言葉には、どこか懇願するような響きがあった。


「……」


 ゼノは紅茶を置いた。少しだけ気まずそうな顔。彼は、自分の行動が、ハルトに迷惑をかけていることに気づいていた。ミネットは、くすりと笑って「ごめんなさい」と小さく頭を下げる。けれど、ゼノの袖をそっと掴んで離さない。彼女の顔には、いたずらっぽい笑みが浮かんでいた。


「ゼノ様、書類を読んでいる間、ここにいてもいいですか?」


 ミネットの声は、ゼノを誘うかのように、甘かった。


「……もちろん」


 ゼノは、ミネットの誘いに、迷うことなく頷いた。


「静かにいれば、お邪魔にはなりませんよね?」


 ミネットは、ハルトの顔をちらりと見て、尋ねた。


「……邪魔ではない」


 ゼノは、ミネットの言葉に、力強く答えた。彼の瞳には、ミネットへの深い愛情が宿っていた。ハルトはこめかみを押さえ、書類を机にドンと置いた。彼の顔には、諦めと、そして怒りが混じっていた。


「では、これは?」


 ハルトは、書類の山を指差した。


「後で確認する」


 ゼノは、書類から視線を逸らした。


「これは?」

「後回しだ」

「これは?」

「必要なら……」

「これは?」

「……私の妻が微笑んでいる今、処理するべきではない」


 ゼノの言葉に、ハルトは絶句した。彼の顔は、驚きと、そして呆れで歪んでいた。


「甘やかしすぎです!!!」


 ハルトの声が書斎に響いた。クロは、ハルトの大きな声に、驚いてぴくりと耳を動かした。


 午後。ゼノは、ようやく机に向かって政務に取りかかっていた。彼の顔には、わずかな疲労の色が浮かんでいたが、その瞳は、集中していた。ミネットは離れた場所で静かに書きものをしていたが――時折、視線がカリーナに向けられている。彼女の視線には、どこか不満の色が混じっていた。カリーナは涼しい顔で、ゼノに報告書を渡していた。彼女は、ゼノの忠臣として、常に冷静沈着だった。ミネットからの視線を感じてはいたが……。


「……この部分ですが、内政費の振り分けに不備があります」


 カリーナの声は、淡々としていた。


「ふむ……確かに、確認しよう」


 ゼノはカリーナの指摘に、真剣な顔で頷いた。


「先日から数値のブレが大きいため、きちんと見直しを」

「了解した。助かる」


 ゼノは、カリーナに感謝の言葉を述べた。彼の言葉は、カリーナの仕事ぶりを高く評価していることを示していた。


「では私は失礼します」


 淡々と報告を終え、カリーナは退出する。その背中を、ミネットがむすっとした顔で睨んでいた。彼女の顔には、嫉妬の表情がはっきりと表れていた。


「ゼノ様……」


 ミネットは、不満そうにゼノを呼んだ。


「なんだ?」


 ゼノは、ミネットの声に、わずかに眉をひそめた。


「私よりもカリーナに“助かる”って言いましたわ」


 ミネットは、頬を膨らませて言った。彼女の言葉には、嫉妬の感情がはっきりと表れていた。


「……仕事の話だ」


 ゼノは、冷静に答えた。


「でも! お礼を言われて嬉しそうでしたわ、カリーナ」

 ミネットは、さらに不満そうに言った。彼女の視線は、カリーナが去っていった扉に向けられていた。


「嫉妬か?」


 ゼノは、ミネットの言葉に、微かに笑みを浮かべた。彼は、ミネットの嫉妬を、愛おしく感じていた。


「嫉妬です。今の私は“ゼノ様の腕の中だけが居場所”のミネットですのよ?」


 ミネットの言葉は、ゼノの心を深く揺さぶった。彼女の言葉は、彼への深い愛情と、そして彼の腕の中が唯一の居場所であるという、彼女の強い思いを表していた。クロは、ミネットの言葉に、満足そうに喉を鳴らした。ゼノは、書類の山に視線をやったあと、椅子から立ち上がった。彼の顔には、決意の表情が浮かんでいた。


「……少し休憩だ」

「えっ?」


 ミネットは、ゼノの突然の行動に、驚きを隠せないでいた。


「私の妻が嫉妬している。仕事より重要だ」


 ゼノの言葉は、ミネットの心を深く満たした。彼の言葉は、彼女への深い愛情と、そして彼女を何よりも優先するという、彼の固い決意を表していた。ミネットの目がぱぁっと輝いた。彼女の顔には、幸福な笑みが浮かんでいた。


「うふふ、私の勝ちですわね。カリーナに」


 ミネットは、いたずらっぽく笑った。


「……そういう話ではない」


 ゼノは、ミネットの言葉に、苦笑いを浮かべた。


「いいえ。勝負は勝負ですわ!」


 ミネットは、そう言って、そのままゼノの腕に飛び込み、抱きついた。彼女の体温が、ゼノの胸にじんわりと伝わった。クロは、二人の様子を、微笑ましそうに見上げていた。遠くから、政務官ハルトが盛大なため息をついている音がした。


 夕方、ようやく落ち着いたゼノの執務室で――ミネットは不意に、ペンを持ったままゼノの机に歩み寄った。彼女の表情は、真剣だった。


「ゼノ様」

「なんだ?」


 ゼノは、ミネットの言葉に、視線を向けた。


「……私、少しずつでいいので、領地のことを教えていただけませんか?」


 ミネットの言葉に、ゼノは驚いたように目を見開いた。彼女が、内政に興味を示すなど、これまでの彼女からは想像もできなかったからだ。


「君が、内政に……?」

「ええ。だって、私は“あなたの奥方”ですもの。ただ愛されて可愛がられるだけでなく――あなたがどんな世界で戦っているのかを、ちゃんと知りたいと思うんです」


 ミネットの言葉は、ゼノの心を深く揺さぶった。彼女の言葉は、彼への深い愛情と、そして彼の仕事に寄り添おうとする、彼女の固い決意を表していた。


「あなたが疲れているときに、支えられる人になりたい。……甘えるだけの妻じゃなくて、寄り添える妻に」


 ミネットの言葉は、ゼノの心を深く温めた。彼の心は、ミネットへの愛情で満たされていた。ゼノは静かに、けれど確かに笑った。その笑顔は、ミネットへの深い愛情と、そして彼女の成長を喜ぶ気持ちを表していた。


「では──一番面倒で地味な帳簿の仕分けから始めようか?」


 ゼノは、ミネットに、あえて難しい課題を提示した。それは、彼女の真剣さを試すための、彼なりの「愛の試練」だった。


「……もう少し愛のある入門を期待していましたわ」


 ミネットは唇を尖らせつつも、その瞳には、学ぶことへの意欲が宿っていた。


「これは愛の試練だ」


 ゼノの言葉に、ミネットはくすりと笑った。ミネットは、ノートを片手にゼノの隣に座った。彼の書き慣れた文字をなぞるように、少しずつ、書類を読み解いていく。彼女の横には、クロが丸くなり、静かに二人の様子を見守っていた。すぐ隣には、ゼノの温かな声。彼の声は、ミネットの心に、安心感を与えた。


 そして、机の下では――そっと、ふたりの指が触れ合っていた。その触れ合いは、二人の心の距離が、さらに近づいたことを示していた。愛しさも、学びも、嫉妬も――全部まとめて、これが「夫婦」なのだと、ミネットは少しずつ理解していく。


 そんな新しい一歩が、今日、確かに始まったのだった。ゼノとミネットの物語は、まだ始まったばかりだ。彼らの関係は、これから、さらに深まっていくことだろう。

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