02.静かなる宣戦布告
目覚めと共に、ミネットは無意識のうちに掛け布団を抱き寄せた。分厚い羽毛が彼女の身体を包み込むが、それでも肌を刺すような冷気は和らがない。窓辺から漏れる淡い朝陽は、ここが王都のヴィルネール侯爵邸ではなく、北方のノールガール辺境伯邸であることを静かに告げている。しかし、白い息が出そうなほど澄み切った空気の冷たさに、どこか異国に放り出されたような感覚があった。本当の春の訪れは、この北の地ではまだ先のようだ。
「寒……っ。何この家。冗談でしょ」
思わず口から出そうになった言葉を飲み込んだのは、すぐ隣から聞こえてきた声だった。その声は、震えながらも、いつもの皮肉を多分に含んでいた。
「……お嬢さま、布団から出るのは自己責任です。凍え死にたくなければこのままで」
隣の小部屋のベッドから顔を覗かせたのは、ミネットの侍女、エリーゼだった。彼女は頬を真っ赤にしながらふるえており、分厚い毛布にくるまった姿は、まるで冬眠中のリスのようだった。彼女の口元から上がる白い息が、部屋の冷たさを雄弁に物語っている。
「おはよう、エリーゼ。ずいぶんと詩的な忠告ね」
ミネットはふっと笑った。王都の屋敷では、常に温かい空気と香水の匂いに満たされていたが、ここは全く違う。だが、それがかえって彼女の好奇心を刺激していた。
「詩じゃないです。これは、北方辺境における命の教訓です。心して」
エリーゼは、いまだ毛布にくるまりながら、真剣な眼差しで訴える。その顔は、本当に心配しているようで、ミネットはまた小さく笑った。
(寒さは……確かに、王都とは比べものにならないけど。こんなことで私がへこたれると思って?)
ミネットは、ゆっくりとベッドから降りた。素足で厚手の敷物を踏みしめる。ひんやりとした感触が足元から伝わるが、彼女の表情は晴れやかだった。気まぐれで、自由で、誰の檻にも収まらない――そんな令嬢であるためには、まず、寒さごときで根を上げていられない。
豪奢とは言えない石造りの部屋。壁は飾り気なく、質素そのものだ。だが床には厚手の敷物が敷かれ、窓辺には光を遮るための、しかし温かみを感じさせる獣皮が掛けられていた。どこまでも実用的で、必要なもの以外は何ひとつ置かれていない部屋。
(質素、というより……実直。正直、嫌いじゃない)
ミネットは、この飾り気のない空間に、一種の清々しさすら感じていた。王都の絢爛な装飾品に囲まれた生活は、彼女にとって時に息苦しいものだったからだ。鏡台の前に立ち、白銀の髪を整えながらミネットは心を落ち着かせた。
昨日、彼――ゼノ・ノールガールと夫婦となったこと。婚約、式、輿入れまでが一気に押し寄せた数日だった。あの夜に交わされた「ありがとう。来てくれて」という十文字の言葉と、彼のどこか不器用ながらも誠実な眼差しが、まだ胸に温かく残っている。
(……ほんと、まっすぐすぎて、笑っちゃうくらい)
彼の硬い表情の裏に隠されたロマンチストな一面。それに気づいた瞬間、彼女の心は、凍える辺境の地に咲く一輪の花のように、密かに芽吹き始めていた。
ふと、部屋の扉をノックする音が響いた。控えめながらも、凛とした、どこか格式ばったノックの音。
「失礼します」
低く通った、女性の声。ミネットが「どうぞ」と言うより先に、扉は音もなく開けられた。その隙のない動きに、ミネットは警戒心を強めた。
現れたのは、一人の年配の女性だった。黒いドレスに白のエプロン。髪はぴたりと結い上げられ、顔には一切の感情が読み取れない。背筋は一分の隙もなく伸びており、手には無駄な装飾のない銀盆を持っていた。その佇まいは、まるで衛兵のような厳しさを纏い、ミネットを真っ直ぐに見据える。
「お目覚めのところ、失礼いたします。私、ノールガール邸メイド頭のカリーナと申します」
挨拶は丁寧。けれど、その声音は冷たく、氷を含んでいるようだった。まるで、ミネットを試すかのような響き。
「お世話になります。ミネットです」
ミネットはにこりと微笑み、上品な声で応じた。だが、心の内では警鐘が鳴っている。この女性は、明らかに自分を値踏みしている。
(……この人。私のこと、試してる)
侍女のエリーゼもそれを察したのか、凍りついたように固まっていた。彼女の目には、明らかな怯えが浮かんでいる。
カリーナは室内を一瞥し、隅々までの様子をわずかな間に把握した。散らかりひとつない部屋、整えられたミネットの髪。その観察を終えると、彼女は静かに、そして事務的に言った。
「ご朝食の準備が整っております。……以後、当家の慣習に則り、日課と動線の見直しを行いますので、侍女の方には協力をお願いしたく」
「まあ。もちろん、エリーゼはどんなことでもお力になりますわ」
にこり、と微笑むミネットに対し、エリーゼが引きつった顔で盛大に咳き込んだ。毛布の中で、彼女の身体がガタガタと震えているのがわかる。
(やめてくださいお嬢さま!? わたし空気なんですから余計な注目与えないで!)
エリーゼの心の叫びが聞こえてくるようだったが、ミネットは聞こえないふりをした。このメイド頭の試みに乗ってやるのも、悪くない。
「……それと」
カリーナはわずかに視線を落とし、ミネットの足元に止めた。
「館内では、毛皮のスリッパをお履きになるのが冷え対策として有効です」
彼女の視線の先には、ミネットが履いている薄手の室内履きがあった。その指摘は的確で、この北の地では常識なのだろう。
「あら。教えてくださってありがとう。とても親切なのね」
ミネットは、感謝の言葉を口にした。しかし、その瞳の奥では、カリーナの真意を探っていた。
「当家の者に風邪を引かれては困りますので」
返された言葉に、ミネットはほんの少しだけ目を細めた。その言葉は、まるで彼女を「女主人」と認めていないかのような響きだった。
(“当家の者”――つまり、私はまだ、女主人ではない)
見下すでもなく、敵意でもない。ただ、はっきりと“試している”目。この屋敷の秩序と伝統を守るという、彼女の強い意志を感じる。
(なるほど。これは――やりがいがありそう)
ミネットの心に、小さな火が灯った。彼女は、このメイド頭との静かな攻防戦を、密かに楽しむ予感があった。
朝食の席には、ゼノの姿はなかった。食堂は暖炉の火で温められているものの、やはりどこか質素な印象を受ける。「旦那様は早朝より軍務にて」と、メイドの一人が淡々と告げる。ミネットは少しも動じたそぶりを見せず、椅子に腰かけながら微笑んだ。
「お忙しいのね。……でも、お食事をともにする時間も、いずれ持てると嬉しいわ」
言葉にとげはない。しかし、その言葉の裏には、「夫婦ならば、共に食卓を囲むべきではないか」という、ささやかな主張が込められていた。侍女たちの何人かが一瞬、視線を交わし合ったのをミネットは見逃さなかった。その視線には、諦めや、あるいは「それは難しいでしょうね」という含みがあるように見えた。
(あら。もしかして、“それは難しい”って顔かしら)
ゼノが、常日頃から軍務に忙殺され、屋敷で食事を共にする機会が少ないことを示唆しているようだった。
朝食は質素だった。焼いたパン、チーズ、干し肉に季節の野菜。そして、温かなスープ。王都の食卓とは比べ物にならないほど簡素だが、どれも丁寧に調理されており、温かい湯気が胃にじんわりと沁みた。北の厳しい環境で生きる人々の知恵と工夫が詰まっているようだった。
「とても美味しいわ。どなたのご用意かしら?」
ミネットは、純粋な感想を口にした。隣で給仕をしていたカリーナが、決まったように答える。
「厨房責任者のロルフが監修しております」
「あなたは、今朝も厨房の様子をご覧になったの?」
ミネットは、カリーナの仕事ぶりを褒めるように尋ねた。
「毎朝、厨房・洗濯・清掃・修繕箇所を点検いたします」
カリーナの声には、誇りと責任感がにじみ出ていた。彼女がこの屋敷のすべてを管理し、統率していることが窺える。
「まあ。まるで統率の取れた軍隊のよう。……さすが辺境伯邸ね」
ミネットは、カリーナの仕事ぶりを称賛した。それは偽りのない言葉だった。
「ありがとうございます。私どもは、旦那様のご信頼を裏切らぬよう努めておりますので」
“旦那様の信頼”。そう強調するカリーナの声に、少しだけ圧がこもる。それは、ミネットがこの屋敷の「旦那様」の信頼を得るには、まだ時間がかかると言外に示しているようだった。
(あらあら。これは――ますます、面白くなってきたわね)
ミネットの心は、カリーナの言葉の裏にあるメッセージを読み取り、静かに高揚していた。
朝食の後、ミネットは邸内を見て回った。案内役を申し出たものの、カリーナは「お忙しいでしょう」と遠慮し、代わりに若い侍女が付き添った。その侍女は口数が少なく、終始ミネットに気を遣っているようだった。
とはいえ、その侍女の視線の端には、常にカリーナの影がちらつく。彼女は、ミネットの一挙手一投足を、カリーナに報告する役目を負っているのだろう。
書庫、温室、訓練場。邸内のあらゆる場所は、無駄なく整理され、物一つ無駄に置かれていない。すべてが実用性を追求し、機能的に配置されていた。
(まるで……ここ全体が、ひとつの巨大な機構みたい)
この屋敷は、王都の貴族邸とは全く異なる、生きた要塞なのだ。
中でも応接室には、暖炉の上に花瓶が二つ置かれていた。片方には、前夜にミネットが持参した小さな花束が飾られている。それは、王都から彼女が唯一持ち込んだ、彩り豊かなものだった。
(……あら? わたくし、もっと左に寄せて飾ったはずだけれど)
ミネットが飾ったはずの花瓶の位置が、微妙に変わっている。まるで、真ん中にぴたりと揃え直されたように。それは、この屋敷の厳格な秩序を物語っていた。
それが、何を意味するのか。
――この館の均衡を、勝手に崩さないように。
まるでそう語るような、静かな圧。ミネットが持ち込んだ王都の華やかさを、この屋敷の規律がそっと修正したかのようだった。
それなら、とミネットは花瓶にさりげなく手を伸ばし、一輪の花の角度だけを変えた。左へ、ほんのわずかに傾ける。
(“私”という存在が、ここにいるのよ)
明確な主張ではない。ただ、気づいた者にだけわかる、ささやかな違和感。それは、この屋敷の厳格な秩序に、彼女が持ち込んだささやかな”乱れ”だった。
――見つけてごらんなさい。
ミネットは、気まぐれな猫のようにふっと微笑んだ。その微笑みは、彼女の心の奥で始まった、静かなる宣戦布告の証だった。
そしてその数時間後。
「お嬢さ、奥様……花瓶、また戻ってます」
エリーゼの声には、呆れと、わずかな戦慄が混じっていた。
「そう」
ミネットは、まるで予想していたかのように平然と答えた。
「どうされます? もう一度、傾けます?」
エリーゼは、ミネットがこの無言の戦いを続けるのか、と不安げに問いかけた。
「当然でしょう?」
ミネットは、椅子から立ち上がると、再び同じ角度で花瓶の首を傾けた。その動作には、明確な意思が込められていた。繰り返される小さな応酬。無言のまま、けれど確実に続く女たちの戦火。この屋敷の静かなる秩序に、ミネットという”異物”が、波紋を広げ始めていた。
そんなこととは露知らず、ゼノは城の執務室で書類を前に唸っていた。冷たい石造りの部屋には、暖炉の火が燃え、机の上には分厚い報告書と人事異動案が山積みにされている。
(……やはり、朝の挨拶くらいすべきだったのでは?)
彼の視線は何度も報告書から外れ、窓の外をさまよっている。白い雪景色が広がるその先に、屋敷の屋根が見えた。そこに、今、彼の妻がいる。
(いきなり軍の話では堅すぎるし、花の話では軽すぎるし……どうするべきだった?)
彼は、朝の挨拶一つにも、過剰なまでに頭を悩ませていた。今朝、ミネットの部屋を訪ねようかと迷った。しかし、彼は気を利かせたつもりで「仕事を優先」したのだ。軍務を優先する彼の行動は、この辺境を治める者として当然のことだった。
だがその判断が、本当に彼女にとってよかったのか――。
(昨日の笑顔。……あれは、“演技”ではなかったと思いたい)
ミネットのあのくるんとした白銀の髪先と、いたずらっぽいアイスブルーの瞳。彼の脳裏に、昨日の結婚式のミネットの姿が鮮明に浮かび上がった。
(まるで、迷い込んだ仔猫のようだった)
ゼノはふと、胸の奥を押さえた。何かが疼いている。それは、これまで感じたことのない、甘く、そして苦しい感情だった。不器用な彼には、その感情が何であるか、まだ明確には理解できなかった。
(次は、どう言葉をかければ……いや、それ以前に、距離を縮める術とは……)
男としての感情と、辺境伯としての主の威厳。その間で、彼の脳内は今日もぐるぐると忙しい。ミネットの存在が、彼の堅固な日常に、静かに、しかし確実に変化をもたらし始めていた。
一方、邸宅の一室では――。
カリーナは、誰もいない応接室で、ミネットが傾けた花瓶の角度を、ぴたりと真ん中に戻しながら、独りごちた。
「ふうん。なかなか筋のいい駒だわ」
わずかに微笑んだ唇が、まるで勝負に挑む剣士のそれのようで。その表情は、この屋敷の秩序を何よりも重んじる、彼女の強い意志を表していた。ミネットという、予期せぬ”乱れ”の持ち主に対し、カリーナは静かに、そして楽しげに、戦いの火蓋を切ったのだ。
そしてその表情を背後から見ていた若い侍女が、ひそかに冷や汗をかくのだった。彼女は、この屋敷に新たな嵐が吹き荒れることを、無言のまま予感していた。
かくして、北の辺境伯邸で、静かなる女の戦が、静かに始まったのである。それは、凍てつく冬の終わりを告げるように、春の訪れとともに、確かな熱を帯びていた。