19.重なる心
ラファエル王子の事件から数日が経った。春の陽光は夏の日差しへと変化し、邸宅の庭には逞しく生きる生命の息吹が満ちていた。しかし、かつての静けさが戻ったはずの屋敷の空気に、どこか緊張が漂っていた。侍女たちは笑顔を作りながらもどこかぎこちなく、廊下を歩く者の足音すら控えめに聞こえる。邸宅全体が、見えない重圧に包まれているようだった。
その中心で、ミネットは明らかに怯えていた。王族からの脅威という、これまで経験したことのない恐怖は、彼女の心に深い傷跡を残していた。部屋にいても、窓を閉め切り、扉に目をやり、誰かの足音が聞こえるたびに身をこわばらせる。彼女の心は、常に警戒態勢にあった。寝室では熟睡できぬ夜が続き、悪夢にうなされることも少なくなかった。食事にも手が伸びなくなり、その顔には、疲労の色が濃く表れていた。
けれど、彼女はそれを「大丈夫です」と言い続けていた。「ゼノ様にご心配をかけてはなりませんわ」と、笑顔を貼りつけて。その笑顔は、あまりにも不自然で、見る者にとっては痛々しいほどだった。彼女は、自分の弱さを見せまいと必死だった。
ゼノは、その笑顔が嘘だと、すぐに気づいていた。ミネットの瞳の奥に隠された恐怖を、彼は見抜いていた。彼女のわずかな仕草、声の震え、そして食欲の低下が、彼女の苦悩を物語っていた。けれど、ミネットが自分から何かを言うことはない。それも彼は知っていた。彼女は、常に他者を気遣い、自分よりも他者を優先する性格だった。だから。
「ミネット、今日は街へ出る」
朝の執務前、ゼノはそう告げた。彼の声は、静かだが、その中には、ミネットを案じる深い優しさが込められていた。彼の瞳は、ミネットの顔をまっすぐに見つめていた。
「えっ……?」
ミネットは、突然の言葉に驚いたように目を見開いた。彼女は、自分が屋敷の外に出ることなど、考えもしなかったからだ。
「私の命令だ。……たまには陽の下で過ごすのも悪くないだろう?」
ゼノの言葉には、有無を言わさない響きがあった。しかし、その根底には、ミネットへの深い配慮と、彼女を癒したいという強い願いが込められていた。彼は、ミネットの心を解き放つために、何か特別なことをしなければならないと感じていた。ミネットは驚いたように目を見開き――やがて、こくりと頷いた。彼女の心は、ゼノの言葉に、わずかな希望を見出していた。
港町は初夏の気配をまとい始めており、すでに夏の力強さを帯び、通りに吹く潮風は湿り気を帯びているが、その中には、海の香りが混じり、どこか懐かしい気持ちにさせる。海に面したレストランのテラス席は心地よい風通しがあり、賑やかな漁師たちの声や、波の音が遠くから届いていた。遠くには、白い帆を広げた船が、ゆっくりと海を進んでいた。
ゼノは、窓際の特等席を用意していた。そこからは、きらめく海と、活気あふれる港の風景が一望できた。テーブルには、白いリネンが敷かれ、小さな野の花が飾られていた。
ミネットの前に並ぶのは、冷やした白桃のスープ、魚介の前菜、ふわりと焼き上げられた鮮魚のグリル。どれも彼女が好きな味ばかりだ。ゼノは、ミネットの好みを事前に調べていたのだ。料理は、見た目も美しく、彩り豊かだった。ミネットは、最初こそ戸惑いを見せていたが、その美味しさと、ゼノの配慮に、次第に口元がほころび、頬にほんのりと赤みが差した。彼女の顔には、久しぶりに、穏やかな笑みが浮かんでいた。
「……こんなに、優雅な時間……本当にいいのですか?」
ミネットは、ゼノに尋ねた。彼女は、ゼノが自分にこれほどまでに気遣ってくれることに、驚きと、そして感謝の気持ちでいっぱいだった。
「君が少しでも、心を休められるのなら、それでいい」
ゼノは静かに答え、ミネットの瞳をまっすぐに見つめた。彼の言葉は、ミネットの心を優しく包み込んだ。ミネットのカトラリーの動きがふと止まった。彼女は、ゼノの言葉の真意を測りかねていた。しばらくの沈黙のあと――彼女は海を見ながら、ぽつりと漏らす。その声は、かすかに震えていた。
「……あの日のことが、夢のようで。いえ、悪夢のようで……」
ミネットは、ラファエル王子との出来事を語り始めた。彼女の心に深く刻まれた恐怖が、言葉となって溢れ出した。
「……」
ゼノは、ミネットの言葉に、静かに耳を傾けていた。彼の表情は、ミネットの苦悩を共有するように、真剣だった。
「王族という存在の恐ろしさを、初めて肌で感じました。……本当に、私は“守られている”のだろうかと、自分に問いかけてしまって」
ミネットの言葉は静かだったが、震えがにじんでいた。彼女の瞳には、不安と、そしてかすかな絶望が浮かんでいた。
「私は、誰かに奪われる存在なのだろうか……と。いつか、また誰かがやってきて、私をゼノ様から引き離すのではないかと、怖くてたまらないのです」
ミネットの言葉は、彼女の心の奥底に隠された、深い恐怖を露わにした。その言葉に、ゼノはナプキンを置いた。彼の表情は、決意に満ちていた。
「……帰ろう」
ゼノは、ミネットの手をそっと取った。
「えっ……」
ミネットは、突然の言葉に、驚きを隠せないでいた。
「少し歩こう。港の風に当たりながら」
ゼノの声は、ミネットを優しく誘った。彼は、ミネットの心を癒すために、もっと時間をかける必要があると感じていた。
レストランを出て、港沿いの静かな道を歩く。昼下がりの陽射しが、ふたりの影を長く引き伸ばしていた。潮風がミネットの髪を優しく撫で、その香りが二人の間を漂う。ミネットは足を進めながら、気丈に笑っていた。その笑顔は、強がっていることを隠せない、痛々しいものだった。
「……おかしいですわよね。私、強がっているのです。自分でもわかってます。けれど、弱音を吐いたら、ゼノ様に迷惑をかけるようで……」
ミネットの声は、かすかに震えていた。彼女は、自分の弱さを見せることを恐れていた。
「……」
ゼノは、ミネットの言葉に、静かに耳を傾けていた。彼は、ミネットの苦悩を理解していた。
「それに……」
と、ミネットはふいに足を止めた。彼女の視線は、ゼノに向けられていた。
「ゼノ様が、もし“いずれ私を手放す時が来る”と思っているとしたら――私は、どうすればいいのでしょう?」
その問いに、ゼノは一歩、彼女に近づいた。彼の瞳には、ミネットへの揺るぎない愛情が宿っていた。
「ミネット」
彼は静かに、しかし迷いなく、ミネットの華奢な肩を引き寄せた。彼の腕は、ミネットを包み込むように、優しく、しかし力強く、彼女を守っていた。
「君は、私の愛する妻だ」
その声は、温かくて、優しくて、けれど芯のある響きだった。ゼノの言葉は、ミネットの心を深く揺さぶった。彼の言葉は、まるで魔法のように、ミネットの不安を溶かしていく。
「手放すつもりなど――最初からない」
ゼノの言葉は、ミネットの心に、決定的な安堵をもたらした。彼の言葉は、彼女の心に、確かな居場所を与えた。ミネットの瞳が、ふるふると震えた。彼女の目には、涙が溢れ出していた。
「君を守れなかったら、私は夫ではない。君が怯えていたことに気づきながら、黙って見ていた私も、愚かだった。だが、これだけは誓える」
ゼノは、そっとミネットの頬に触れた。彼の指先は、ミネットの頬を優しく撫でた。
「君がどんなに怖がっても、泣いても、私の腕の中にいればいい。……君の居場所は、ここだ」
ゼノの言葉は、ミネットの心を深く包み込んだ。彼の言葉は、彼女の心に、安心感と、そして深い愛情をもたらした。ミネットの瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。彼女の顔には、安堵と、そして幸福の涙が流れていた。
「ゼノ様……っ」
言葉にならない想いが、涙になって流れる。嗚咽混じりに、ミネットは答えた。
「私も……私の居場所は……ここです。ゼノ様の……腕の中だけ……です」
ミネットの言葉は、ゼノの心を深く揺さぶった。彼女の言葉は、彼への深い信頼と、そして愛情を表していた。ゼノは、そっとミネットを抱きしめた。港に吹く風の音が、やわらかく、ふたりを包み込んでいた。二人の間には、言葉以上の、深い絆が生まれていた。
帰路の馬車。ふたりは寄り添うように座っていた。ミネットは先ほどの涙が乾いた頬で、ゼノの肩にもたれながら、静かな息を整えている。彼女の表情は、穏やかで、満ち足りていた。窓の外には、夕陽がゆっくりと沈みつつあった。空は、オレンジ色から紫色へと、美しいグラデーションを描いていた。
「……不思議です」
ミネットの声は、うとうとしているように小さかった。
「何が?」
ゼノは、ミネットの髪を優しく撫でながら尋ねた。
「今日という日が……とてもロマンチックで、夢みたいで」
ミネットの言葉は、ゼノの心を温かくした。彼がミネットのために演出した「ロマンチックな一日」が、彼女の心に響いたことに、彼は深く満足していた。ゼノは、目を細めて彼女を見つめた。
「夢のように……か」
彼の声は、微かに震えていた。
「ええ。でも、これは……現実ですわね?」
ミネットの言葉に、ゼノは、ゆっくりと頷いた。彼の顔には、微かな笑みが浮かんでいた。そして――そのまま、そっと彼女の頬に手を添え、柔らかな口づけを落とした。彼の唇は、ミネットの頬に、優しく、しかし熱を持った。ミネットの瞳が、ゆっくりと閉じられる。彼女の心は、ゼノの口付けに、深い喜びを感じていた。
穏やかに、優しく、熱を持つその口付けは、偶然にもとても――ロマンチックだった。彼の不器用な優しさが、ミネットの心を深く満たした。
誰に見られるでもなく、誰に遮られるでもなく。ただ、ふたりの世界の中で、静かに交わされたひととき。
ふたりの心が、確かに重なった瞬間だった。そしてその時、ミネットの胸の奥にはひとつの確信が芽生えていた。
――この人の隣が、私の“永遠の居場所”。
ミネットは、ゼノの腕の中で、自分の未来が、彼と共に歩むことであることを再び強く確信した。




