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政略結婚なのに、寡黙な辺境伯の無垢な溺愛が仔猫系令嬢を目覚めさせました  作者: 宮野夏樹
第1章 不器用な溺愛

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17.避けられない距離

 春の終わりを告げる風が緩やかに屋敷の庭を撫でていく。草花は陽光にうなずき、鳥たちの囀りが穏やかな朝に色を添えていた。しかし、ノールガール辺境伯邸の一角においては、決して穏やかとはいえない空気が流れていた。




 前日、ラファエル第二王子の突然の訪問により、二人の距離は決定的に変わった。ゼノの「私の妻だ」という言葉と、その抱擁は、どちらの心にも確かな爪痕を残していた。ミネットは、あの時の温もりと、ゼノの力強い声が、今も鮮明に胸に残っていた。ゼノもまた、ミネットを抱きしめた瞬間の柔らかさや、彼女の震える肩の感触を忘れられずにいた。


(どうしてあんなことを……)


 ミネットの心の中では、あの時のゼノの行動が何度も繰り返されていた。それは、彼女の理性では理解できない、衝動的な行動だった。


(あのとき、なぜ……触れてしまった?)


 ゼノの心の中では、あの抱擁に対する後悔と、そして未知の感情への戸惑いが渦巻いていた。彼は、自分の行動が、ミネットにどのような影響を与えたのか、気になって仕方がなかった。


 二人とも、互いに向き合うことを避けるように朝を迎えていた。廊下ですれ違いそうになれば、同時に背を向けて別の方向へ歩き出す。まるで、見えない壁が存在するかのように、互いの存在を避けている。食堂では、少しずつ時間をずらして姿を現す。朝食の席で顔を合わせれば、互いに視線を合わせず、まるでそこに相手がいないかのように振る舞った。そのぎこちなさは、使用人たちの目にも明らかだった。




 その様子を見守る者たちが、ここにもいた。彼らは、辺境伯邸の日常を、まるで舞台劇のように観察していた。


「……なにをやってるんですかねぇ、あの二人は」


 ため息交じりに呟いたのは、政務官ハルトだった。彼は、ゼノの執務室の隣にある自分の部屋で、書類を整えながらも、その視線は扉のほうに向けられている。彼の顔には、呆れと、そしてどこか楽しさが混じっていた。


「初恋の成れの果てって感じですよね」


 そっと茶を置きながら返したのは、侍女エリーゼ。整った顔立ちに似合わぬ冷静さで、主人たちの恋模様を見守っている。彼女は、二人の関係が、予想以上に早く進展していることに、内心驚いていた。


「成れの……果て?」


 ハルトは、エリーゼの言葉に、思わず聞き返した。彼の頭の中では、「成れの果て」という言葉が、二人の関係の終焉を意味するように感じられた。


「いえ、違います。まだ始まったばかりでしたね」


 エリーゼは、すぐに言葉を訂正した。彼女の顔には、どこか満足げな笑みが浮かんでいた。


「言い直すの早くないです……?」


 ハルトは、エリーゼの素早い訂正に、苦笑いを浮かべた。彼の言葉には、エリーゼの観察眼の鋭さへの感嘆が込められていた。


 エリーゼはわずかに肩を竦めた。ゼノの抱擁から一夜明けたというのに、ミネットは紅潮した頬を隠すように扇子を開き、ゼノは本棚の陰に逃げるような振る舞いを見せている。彼らの行動は、まるで思春期の子供たちのようだった。


「まったく……無愛想ゴリラが感情を持ち出すから、ややこしくなるんですよ」


 エリーゼは、小声で呟いた。彼女は、ゼノの不器用な性格が、二人の関係をさらに複雑にしていることに、内心呆れていた。


「……言葉の選び方、容赦ないですね」


 ハルトは、エリーゼの言葉に、苦笑いを浮かべた。彼は、エリーゼの率直な物言いに、慣れていた。


 それでも二人は、互いにどこか浮き足立っていた。視線を逸らしながらも、気づけば相手を探している。部屋の窓辺、食卓の端、廊下の先――ほんの数歩の距離が、ひどくもどかしく、そして甘い。彼らの間には、まだ名前のない感情が、確実に育まれていた。




「奥様、次の予定はこちらでございます」


 エリーゼが手渡した予定表に目を通しながら、ミネットはうっかり隣の席に目をやった。食堂の隅にあるテーブルで、ゼノが一人で朝食を摂っているのが見えた。


(……昨日、抱きしめられた)


 その瞬間の記憶が、鮮明に脳裏をよぎる。ミネットの心臓は、激しく鼓動し始めた。


(な、何を考えているのよわたし!)


 耳まで真っ赤になって、ミネットは目を逸らした。あれは突発的な行動、場の空気に押されてのもの。そう思い込もうとしても、胸の高鳴りは止められなかった。彼女は、自分の感情をコントロールできずにいた。


「奥様?」


 エリーゼが、ミネットの様子を心配そうに尋ねた。


「っ……な、なんでもないわ。さあ、行きましょう。今日は花壇の様子を見るのよね?」


 ミネットは、努めて平静を装い、予定表をエリーゼに返した。




 その日の散策は、なぜかゼノと同じ時間帯に重なった。それは、まるで運命のいたずらのようだった。庭の中央、まだ若いバラがほころび始めた植え込みの前で、二人は偶然出会った。ミネットはエリーゼと並び、ゼノは政務官ハルトと。


「あ……」

「っ……」


 出会った瞬間、二人の口から間の抜けた声が漏れた。まるで、初めて出会ったかのように、互いに緊張していた。お互い、妙にぎこちない礼を交わすと、バラを眺めながら沈黙する。彼らの間には、気まずい沈黙が流れた。


(どうして言葉が出ないの?)


 ミネットの心は、言葉を探していたが、何も見つからなかった。


(ロマンチックな言葉を用意しておくべきだった……)


 ゼノの頭の中には、昨晩一晩かけて考えた台詞が次々と浮かんでは消えていた。彼は、ミネットに感動的な言葉を贈りたいと願っていたが、適切な言葉が見つからずにいた。


『この庭の花は、君の美しさに劣る』


(いや、それはさすがにキザすぎる)


『バラも嫉妬しているだろう、君のその微笑みに』


(言えない……無理だ……)


 結局、ゼノはただ黙って立ち尽くしてしまった。彼の顔は、微かに赤く染まっていた。対するミネットも、心臓の音がうるさすぎて何も聞こえず、ただ花を見つめるふりをするばかりだった。彼女の頬もまた、紅潮していた。


「……進まないですねぇ、あのふたり」


 ハルトが苦笑しながら呟いた。彼は、二人のぎこちなさに、内心呆れていた。


「進むわけがないでしょう。次の段階に進むには、あの二人には“お膳立て”が必要なんですから」


 エリーゼは、自信満々に言った。彼女は、二人の関係をさらに進展させるための「お膳立て」を考えていた。


「たとえば?」


 ハルトは、エリーゼの言葉に、興味津々に尋ねた。


「たとえば、“口付けの場所”とか」


 エリーゼの言葉に、ゼノとミネットが同時に振り返った。彼女の声は、まるで雷鳴のように、二人の耳に響き渡った。距離をとっていたふたりの顔が、まるで計ったように赤く染まっていく。


(ほ、抱擁の次は……口付け?)


 ミネットの心臓は、激しく鼓動していた。彼女の脳裏には、ゼノとの口付けの光景が、鮮明に浮かび上がった。


(く、口付けだと……!)


 ゼノの心臓もまた、激しく鼓動していた。彼は、エリーゼの言葉に、羞恥と、そしてかすかな期待を感じていた。


「え、いま聞いえていたの……?」


 ハルトは、二人の反応に驚きを隠せないでいた。


「ふたりとも、耳が良すぎる」


 思わずエリーゼとハルトが顔を見合わせる。彼らの顔には、楽しさと、そしてどこか企みめいた表情が浮かんでいた。


 それでも、春の陽射しは柔らかに、あたかも二人の恋路を応援するかのように、あたたかさを増していくのだった。彼らの関係は、ゆっくりと、しかし確実に、次の段階へと進もうとしていた。

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