16.深まる絆
春の陽光が邸宅の回廊に差し込む穏やかな午後、ミネットはエリーゼと共に庭先で花の手入れをしていた。彼女の指先は、土の感触を確かめるように、優しく花弁に触れる。心地よい風に揺れるスカートの裾。庭には、色とりどりの花々が咲き誇り、甘い香りが漂っていた。
そこへ駆け足で現れたメイド頭のカリーナの声が響いた。その声には、普段の落ち着きとは異なる、かすかな焦りが混じっていた。
「奥様、王都から来訪者が……!」
ミネットは、カリーナの声に、作業の手を止めた。
「どなたかしら?」
ミネットは、不思議そうに尋ねた。この辺境の地に、王都から突然の来訪者があるのは珍しいことだった。
「……第二王子、ラファエル殿下でございます」
カリーナの言葉に、ミネットの手がぴたりと止まる。指先に残る草の匂いが、どこか遠い記憶と結びついた。あの日、宮廷の謁見室で言われた言葉が、脳裏をよぎる。
『“君は第一夫人にしてあげる。僕のハーレムにようこそ”』
喉奥に込み上げるのは、懐かしさではなく確かなげんなりだった。ミネットは、ラファエルの軽薄な言動を思い出し、深い溜息をついた。彼が、この辺境の地まで、一体何の目的でやって来たのか。ミネットの心には、嫌な予感がよぎった。
──数刻後、応接間。ノールガール辺境伯邸の応接間は、普段は静寂に包まれているが、今は、まるで嵐の前の静けさのように、張り詰めた空気が漂っていた。中央のソファには、優雅に脚を組み、悪びれる様子もなく微笑むラファエルが腰かけていた。彼の顔には、自信満々の笑みが浮かんでいた。
「やあ、ミネット。相変わらず綺麗だね」
ラファエルは、まるで何事もなかったかのように、軽薄な言葉をミネットに投げかけた。その声には、ミネットを嘲笑うかのような響きが込められていた。
ゼノは冷静に、だが確かな警戒を纏って彼を迎える。彼の視線は、ラファエルの軽薄な態度を、厳しく見据えていた。ミネットは礼儀を守りつつも、距離を取ったまま立ち位置を崩さなかった。彼女は、ラファエルに近づこうとはしなかった。
「このような辺境まで、何のご用件でしょうか?」
ゼノは、冷たい声でラファエルに尋ねた。彼の声には、ミネットを守ろうとする、強い意志が込められていた。ラファエルは目を細め、まるで甘言のように口を開いた。彼の言葉は、まるで蜜のように甘く、しかしその裏には、毒が隠されているかのようだった。
「君とミネットの婚姻を解消し、私と婚姻を結ぶよう国王に嘆願したんだ。嘆願は通るはずだから──ミネットを連れて帰るよ?」
ラファエルの言葉に、応接間の空気が凍った。エリーゼとカリーナ、側仕えの者たちも息を呑む。彼らは、ラファエルの大胆な発言に、驚きを隠せないでいた。ゼノの眉が僅かに動いた。彼の表情は、一瞬にして硬直した。
だが、先に口を開いたのはミネットだった。彼女の声は、震えていたが、その瞳には、強い光が宿っていた。
「……それは、ご冗談ですわよね?」
ミネットは、信じられないという表情で、ラファエルを見つめた。
「本気だよ。あの時、軽率なことを言ってしまったのは謝る。けど……本当は最初から、君だけだったんだ」
ラファエルは、ミネットの目をじっと見つめ、真剣な声で語った。彼の言葉には、どこか偽りのない響きがあったが、ミネットの心には届かなかった。ミネットの瞳が揺れたのは一瞬だけ。彼女の心は、ラファエルの言葉に、わずかに動揺した。しかし、すぐに平静を取り戻し、毅然とした声を張った。
「貴方様のハーレムには入りませんわ」
ミネットは、明確に拒絶した。彼女は、自分の意思を、誰にも曲げられることのない強い意志で示した。
「ハーレムじゃない、って言ったら?」
ラファエルの声色は、妙に真剣だった。彼は、ミネットの心を掴もうと、必死になっていた。誰もが沈黙した中、彼はすっと立ち上がり、ミネットの正面に歩み寄った。
「ミネットだけの僕、僕だけのミネットだよ」
ラファエルの言葉にミネットの視線が揺らぐ。彼の言葉には、ミネットを惑わせるような、甘い響きがあった。けれど、その時──
「それ以上、私の妻に近づくな」
低く静かな声が、空気を切り裂いた。ゼノだった。彼の声は、氷のように冷たく、しかしその中には、燃えるような怒りが込められていた。長身の彼が一歩前に出て、ミネットの背を支えるようにそっとその肩を抱いた。彼の体温が、ミネットの背にじんわりと広がる。彼の腕は、ミネットを包み込むように、優しく、しかし力強く、彼女を守っていた。
それは、これまで一度たりともなかった──彼の腕の中に、ミネットを抱き寄せるという行為。ミネットの肩が小さく震える。それは驚きからだった。ゼノの体温が、ミネットの背にじんわりと広がる。彼女の心臓は、激しく鼓動していた。
「彼女は、私の妻です。正式に婚姻を結び、我が領の正統なる辺境伯夫人となった」
ゼノは、ラファエルを睨みつけ、毅然とした声で言った。彼の言葉には、ミネットへの深い愛情と、そして彼女を守ろうとする強い意志が込められていた。ラファエルは眉を寄せる。
「王命が出れば……」
ラファエルは、王命という権威を盾に、ゼノを脅そうとした。
「それでも引き下がりません」
言い切ったゼノの瞳は、これまでに見たことがないほど強く、真っ直ぐだった。彼の瞳には、ミネットへの揺るぎない愛と、そして彼女を守るための覚悟が宿っていた。ミネットは視線をそっと上げ、その横顔を見た。
(こんなにも真摯な人が、私を守ってくれるなんて)
ミネットの心には、ゼノへの感謝と、そして深い愛情が芽生えていた。彼の行動は、彼女の心を深く打った。ラファエルは、数秒の沈黙ののち、深く息を吐いた。彼の顔には、諦めと、そしてかすかな苛立ちが浮かんでいた。
「──ミネット。君の意思も、変わらないのかい?」
ラファエルは、最後の望みをかけるかのように、ミネットに問いかけた。ミネットは、そっとゼノの腕に触れた。彼の温かい体温が、彼女の心を落ち着かせた。
「ええ。変わりません。わたくしは辺境伯ゼノ・ノールガールの妻であることに、誇りを持っております」
静かに頭を垂れるミネットの声は揺るぎなかった。彼女の言葉は、ゼノへの深い信頼と、そして彼女自身の意思を表していた。
ラファエルは舌打ちもせず、ただその場を立ち去った。彼の背が扉の向こうに消えた瞬間、応接間の空気がふっと緩む。張り詰めていた緊張感が、一気に解き放たれた。ゼノの腕の中で、ミネットが小さくため息を漏らした。彼女の体は、まだわずかに震えていた。
「……驚きましたわ。あんなに堂々と、わたくしを……」
ミネットは、ゼノの行動に、驚きと、そして感謝の気持ちでいっぱいだった。
「……すまない。許しなく触れてしまった」
ゼノは、ミネットの肩を抱きしめたまま、申し訳なさそうに言った。彼は、自分の行動が、ミネットにとってどう映ったのか、不安で仕方がなかったのだ。腕を離そうとしたゼノに、ミネットがそっと手を添えた。彼女の指先が、ゼノの腕に触れる。
「いえ……そのままで」
ミネットの言葉に、ゼノは思わず固まる。彼の心臓は、激しく鼓動していた。
「このまま……しばらく、安心していたいの」
その囁きに、ゼノの胸奥がきゅう、と苦しくなる。ミネットの言葉は、彼の心に、深い喜びと、そして愛情をもたらした。
(これが……本当のロマンチックというやつか)
ゼノは、ミネットの言葉に、これまでの自分の不器用な求愛行動を思い返した。彼は、ミネットの心を掴むために、様々な「ロマンチック作戦」を実行してきたが、この抱擁こそが、真のロマンチックであることに気づいたのだ。
不器用な男の、初めての抱擁。だが、それはミネットにとっても、確かに心を震わせるものだった。彼の腕の中で、ミネットは、心から安堵していた。
──二人の距離は、またひとつ近づいた。それは、王都からの刺客によって、さらに深まった絆だった。




