15.秘密の特訓と嫉妬
ある晩、辺境伯邸の廊下を歩いていたゼノは、給湯室から出てきたメイドに声をかけた。彼の目は、困惑と、そしてかすかな期待に満ちていた。気の強そうな赤毛をきりりとまとめた彼女――エリーゼは、その声に振り返ると、いつものように眉をひそめた。
「……またですか、旦那様。今度は何を?」
エリーゼの声には、呆れと、そしてどこか諦めが混じっていた。彼女は、ゼノの「ロマンチック作戦」に、何度も巻き込まれてきたからだ。
「ミネットを喜ばせたいのだ。だが、うまくいかない」
ゼノは、正直に自分の悩みを打ち明けた。彼は、ミネットの笑顔を見たいと願っていたが、その方法が見つからずにいた。
エリーゼは湯気の立つマグを持ち直し、じとりとした目でゼノを見つめた。彼女の視線は、まるで彼の心の奥底を見透かすかのように、鋭かった。
「そりゃあまあ、そもそも“お菓子と花束で部屋の前をウロウロする”なんて、どこのロマンチックかと……」
エリーゼの言葉は、ゼノの不器用な求愛行動を容赦なく指摘した。
「おかしかったか?」
ゼノは、真剣な顔で尋ねた。彼は、自分の行動がミネットにどのように映っているのか、気になって仕方がなかったのだ。
「ええ、非常に。というか、そういうのって“自然”にやるのが一番ですよ。“ロマンチックであろう”って構えると失敗します」
エリーゼの言葉は、ゼノの心に深く響いた。彼は、ロマンチックであろうとすればするほど、空回りしていることに気づいていた。ゼノは苦悩するように額を押さえた。
(自然……か。自然とは、なんだ)
彼は、自然な振る舞いとは何か、理解できなかった。彼の人生は、常に規律と計画に満ちていたからだ。それでも、ミネットのために何かしたいという思いは変わらない。あの笑顔を、少しでも長く引き出したい。ただそれだけなのだ。彼の心は、ミネットへの純粋な好意で満たされていた。
「……エリーゼ。私に“自然なロマンチック”を、教えてくれないか」
その真剣な声に、エリーゼは心底呆れたように天を仰ぎつつも、ため息交じりに頷いた。彼女は、ゼノの真剣な表情を見て、彼を助けずにはいられなかったのだ。
「……わかりましたよ。“無愛想ゴリラ”様」
エリーゼは、半ば諦めたように言った。
「その呼び方はやめろ」
ゼノは、微かに顔をしかめた。その呼び方は、彼にとってあまりにも不名誉なものだったからだ。
それから数日間、ゼノとエリーゼの妙な“秘密特訓”が始まった。邸宅の隅々で、二人はこっそりと「ロマンチック作戦」の練習をしていた。エリーゼは、ゼノに様々なアドバイスを与え、彼はそれを真剣に実践しようとしていた。
「奥様は“気づいてほしい”タイプです。行動で示すより、ちゃんと言葉にして褒めた方が良い」
エリーゼは、ミネットの性格を分析し、ゼノに具体的なアドバイスを与えた。
「なるほど」
ゼノは、真剣な顔で頷いた。彼は、エリーゼの言葉を、まるで軍事戦略のように、一言一句聞き漏らすまいと努めていた。
「あと、たまには“今日も素敵ですね”とか言ってみてください。嘘でもいいから」
エリーゼの言葉に、ゼノは眉をひそめた。
「嘘をつけと言うのか?」
ゼノは、正直者だった。嘘をつくことは、彼の性に合わなかった。
「そうじゃなくて、照れを捨てろって話です!」
エリーゼは、ゼノの額に指を突きつけながら言った。彼女の声には、苛立ちと、そしてどこか楽しさが混じっていた。
書庫の陰でこっそりやりとりする主従。そんな姿を、偶然見てしまったのが他ならぬミネットだった。彼女は、二人の親しげな様子に、どこか胸騒ぎを覚えていた。
(あのふたり、やけに仲が良いのね……)
どこか胸の奥がもやもやする。その感情は、ミネットにとって初めてのものだった。しかしその感情に名をつけることができず、ミネットは小さく首を傾げた。彼女の心は、まだ、自分の感情を理解するには至っていなかった。
その日の昼下がり、ミネットは執務室に顔を出した。ゼノは珍しく席を立って、書類ではなく花の本を広げていた。彼の顔には、微かに緊張の色が浮かんでいた。
「おや、珍しいですね。お仕事ではなく……」
ミネットは、ゼノが仕事以外のことに時間を割いていることに驚いた。
「いや、これは……参考資料だ」
やや慌てたように本を閉じるゼノ。どこか様子がぎこちない。彼の顔は、まるで秘密を隠しているかのように、微かに赤くなっていた。
(まさか、ロマンチックの勉強……?)
ミネットは心の中で驚愕する。エリーゼとの「秘密特訓」が、彼女の脳裏をよぎった。
(エリーゼと何を……!)
ミネットの心の中で、まだ名前を知らない感情が、さらに大きく膨らんでいく。
「ミネット、……最近、体調はどうだ?」
ゼノは、エリーゼから教えられた言葉を、ぎこちなく口にした。
「え?」
ミネットは、突然の言葉に、戸惑いを隠せないでいた。
「お前は、春の光のようだ。やわらかくて、暖かくて……目が離せない」
ゼノの言葉は、彼の心の中から直接紡ぎ出されたかのように、まっすぐで、そして不器用だった。
「……っ!」
ミネットの頬が熱くなる。息が詰まりそうだ。ゼノは、何を言っているのだろう。彼の言葉は、ミネットの心に、これまで感じたことのない衝撃を与えた。
(春の光って、そんな……そんな風に……)
彼女の心は、ゼノの言葉に、激しく揺さぶられていた。
「……ど、どうしたのですか、急に」
ミネットは、しどろもどろになりながら、尋ねた。
「いや……」
ゼノは視線を逸らした。彼の耳まで赤い。彼は、自分の言葉がミネットにどのように響いたのか、不安で仕方がなかったのだ。
その時、部屋の扉がノックされ、メイド頭のカリーナと執務官ハルトが入ってきた。彼らは、執務の件でゼノに用があったのだ。
「失礼いたします、辺境伯様。執務の件で少し……」
ハルトは何気なくゼノとミネットを見比べた後、呟いた。彼の視線は、ミネットの赤らんだ頬と、ゼノの耳の赤さに向けられていた。
「……あれ、最近ゼノ様、なんか“艶っぽく”なってません?」
ハルトの言葉に、カリーナは驚いたように目を丸くした。
「“艶っぽく”って何ですか、“艶っぽく”って! ゼノ様が?」
カリーナの容赦ないツッコミに、ハルトがきょとんとする。彼は、自分の言葉がそんなに不適切だったのかと、首を傾げた。
「いや、だって最近、言葉遣いがやけに丁寧だったり、花を選んでたり、妙に詩的というか……」
ハルトは、ゼノの最近の奇妙な行動を挙げた。彼の言葉は、ゼノの「秘密特訓」を裏付けるものだった。
「詩的な無愛想ゴリラですか。新ジャンルですね」
エリーゼの冷静な追撃に、ゼノが咳払いして話を逸らす。彼の顔は、さらに赤くなっていた。
「話を戻そう。執務の件だ。視察の計画を見直したい」
ゼノは、無理やり話題を変えた。彼の心は、エリーゼの言葉に動揺していた。
「はいはい、わかりましたよ、旦那様。……あーあ、誰のせいでロマンチック特訓させられてると思ってるんだか」
エリーゼは、わざとらしくため息をついた。その言葉は、ミネットの心に、決定的な疑念を抱かせた。
「……エリーゼ、それは言うな」
ゼノの声は、かすかに震えていた。
(……やっぱり何か企んでる)
ミネットの胸の内には、まだ名前を知らない感情が、ふつふつと湧いていた。それは、エリーゼとゼノの親しげな様子に対する、かすかな嫉妬だった。
その夜、ミネットはカリーナとエリーゼと共に紅茶を楽しんでいた。三人で夜を過ごすのが、最近のささやかな楽しみだ。暖炉の火が、部屋を温かく照らしている。
「エリーゼ。ゼノ様と、よく話していますわね」
ミネットは、さりげなく尋ねた。彼女の視線は、エリーゼに向けられていた。
「あー……まあ、はい。ちょっとした事情で」
エリーゼは、曖昧に答えた。彼女は、ミネットに「秘密特訓」のことを知られたくないと思っていた。
「……ふぅん」
湯気とともに、静かな牽制が流れる。ミネットの言葉には、どこか意味深な響きがあった。
「奥様?」
エリーゼは、ミネットの言葉の意図を測りかねていた。
「な、なんでもないわ。ふふっ。……少し疲れたみたい」
ミネットは、無理に笑った。そう言って紅茶を一口。甘いのに、何故か苦く感じる。彼女の心は、ゼノとエリーゼの関係、そして自分の感情について、考え続けていた。
(これって、何なのかしら……)
ミネットは紅茶の中に自分の気持ちを沈めるように、そっと目を伏せた。彼女の心は、まだ、この新しい感情の名前を知らないでいた。
この夜、ゼノは執務室で書き上げた手紙を前に、ふと思う。彼の手紙は、ミネットに贈るためのものだった。
(……“春の光”は……言いすぎたか?)
言葉を選んだつもりだったが、どうにも的確ではなかったように思う。ミネットの頬が赤く染まったのは、喜んだのか、それとも……。彼の心は、ミネットの反応に一喜一憂していた。
(もっと、違う表現が……)
彼は、さらに完璧な言葉を求めていた。
「……詩集でも読むべきか?」
そんな自問自答に、背後でハルトがぽつり。
「旦那様、仕事してください」
ハルトの言葉に、ゼノは苦笑いを浮かべた。彼の心は、仕事よりも、ミネットのことで頭がいっぱいだった。
ミネットの心に芽生えた、まだ名前を知らない感情。そして、ゼノの不器用な求愛行動。二人の関係は、ゆっくりと、しかし確実に、変化し続けていた。




