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政略結婚なのに、寡黙な辺境伯の無垢な溺愛が仔猫系令嬢を目覚めさせました  作者: 宮野夏樹
第1章 不器用な溺愛

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14.ふわふわする心


 春の風が、邸の花壇を優しく揺らしていた。淡い色の花びらが、午後の陽光にきらめく。午前の陽光がカーテン越しに差し込む寝室で、ミネット・ノールガールは自分の胸元に手を当て、考え込んでいた。彼女の表情は、どこか夢見るようで、しかし同時に戸惑いも含まれていた。


(なんだか最近、胸がふわふわする……)


 特に理由もないのに、浮き足立つような感覚がある。まるで雲の上を歩いているかのような、不思議な心地よさ。思い返せば、その始まりは──


『……俺は、不器用だ。君がしてくれるように、気の利いた言葉を選べない。優しい気遣いも……たぶん、すぐにはできない』


『それでも、君の言葉に……今、救われたと思っている』


 あの日の、執務室でのやりとり。疲労困憊のゼノが見せた、剥き出しの感情。彼の言葉は、簡素で、まっすぐで、不思議な温もりがあった。その時、ミネットの心に、温かい何かがじんわりと広がっていくのを感じた。


(ゼノ様……)


 彼の声が、今も耳に残っている。まるで、あの日の執務室の空気が、そのまま胸の中に閉じ込められているかのように。


(別に……特別なことは言っていないのに)


 なのに、どうしてこんなに反芻してしまうのだろう。まるで胸に、花びらが舞い込んだような、ふわふわとした落ち着かなさ。その感覚は、これまで経験したことのないものだった。


 考えても考えても答えは出ず、やがてミネットはぽつりとつぶやいた。彼女の視線は、部屋の片隅で朝の支度をしている侍女、エリーゼに向けられていた。


「……エリーゼ。この感じ、何かしら?」


 部屋の片隅で朝の支度をしていた侍女が、すぐに顔を向けた。エリーゼは、ミネットの顔色を伺うように、じっと彼女を見つめた。そして、何かを確信したように、口元に笑みを浮かべた。


「その症状、心当たりしかありません」


 エリーゼの声には、どこか茶目っ気と、そして確信が込められていた。


「心当たり?」


 ミネットは、エリーゼの言葉に、わずかに身を乗り出した。


「恋じゃないですか?」


 エリーゼの言葉に、ミネットは固まった。まるで雷に打たれたかのように、彼女の全身が硬直する。


「こっ……」


 ミネットの頬がみるみるうちに紅潮する。その色は、熟した林檎のように鮮やかだった。喉が詰まりかけたのを、ミネットは懸命に飲み込んだ。


「そんな……馬鹿な」


 ミネットは、必死に否定した。しかし、その声は、震えていた。


「え、なにかお心当たりが?」


 エリーゼは、ミネットの反応を見て、さらに確信を深めたように笑った。


「いえ、ただ、その……昨日、執務室で少し話をしただけで……」


 ミネットは、しどろもどろになりながら、ゼノとの会話について語った。しかし、その言葉は、まるで言い訳のように聞こえた。


「はいはい、それが恋の入口なんですよ。奥様」


 にやりと笑うエリーゼに、ミネットは枕を投げそうになったが、ぎりぎりで思いとどまった。彼女の心の中は、混乱と、そして新しい感情への戸惑いで渦巻いていた。


(恋……わたくしが、ゼノ様に……?)


 そう考えた瞬間、再び胸が騒いだ。おさまるどころか、ますますふわふわと騒がしい。彼女の心は、ゼノという存在によって、大きく揺さぶられ始めていた。




 その日の午後、二人は街の視察へ出かけることとなった。それは、ミネットがゼノの仕事に寄り添いたいと申し出たことで実現した、二人の初めての外出だった。


 ゼノの案内で、ミネットは邸から馬車に乗り、城下町へと向かう。馬車の窓からは、春の陽光に輝く辺境の風景が広がっていた。途中、春を告げる花々が咲き誇る街道を通るたびに、彼は馬車を止めて言った。


「……ここは、父とよく来た場所だ」


 ゼノは、普段見せないような穏やかな表情で、過去の思い出を語った。彼の言葉は、彼の硬い殻の奥に隠された、人間らしい一面を垣間見せた。


「……まあ、素敵ですわ」


 ミネットは、ゼノの言葉に、心から感動した。その一言がどうしてだろう。心の奥にまで染みて、ミネットは思わず口元を手で覆った。彼女の心に、温かい光が灯るのを感じた。


(今までと、何かが違う……)


 彼女の心は、ゼノの言葉一つ一つに、敏感に反応し始めていた。




 到着した城下町では、住民たちが道の端に整列していた。彼らは、領主であるゼノの訪問を、心から歓迎しているようだった。ゼノが馬車を降りると、彼らは一斉に頭を下げた。その姿は、ゼノへの深い敬意を表していた。


「辺境伯閣下、お出ましをいただき光栄です!」


 住民たちの声が、城下町に響き渡る。


「……頭を上げろ。今日は、様子を見に来ただけだ」


 ゼノは低く、けれど決して冷たくない声で住民に応えた。彼の声には、領民への配慮と、そして彼らを守ろうとする強い意志が込められていた。


 その背中が、とても大きく見えた。ミネットは一歩後ろを歩きながら、胸の高鳴りが止まらなかった。彼の一挙手一投足が視界から離れない。通りのあちらで子どもと話す姿、工房の職人に丁寧に言葉をかける姿。ゼノは、領民一人ひとりの声に耳を傾け、彼らの生活に寄り添おうとしていた。


(ゼノ様って、こんなに……)


 彼の知らなかった一面に出会うたびに、ミネットの心は揺れる。彼の厳格な外見の裏に隠された、優しさ、そして領民への深い愛情に、彼女は気づき始めていた。


「……ミネット」


 突然、名前を呼ばれ、ミネットは弾かれたように返事をした。


「は、はいっ!」


 名前を呼ばれただけで、背筋が伸びてしまった。ゼノは不思議そうに眉をひそめたが、すぐに言葉を続けた。彼の顔には、どこか照れくさそうな表情が浮かんでいた。


「……今夜、港のテラスで夕食を取ろう」


 ゼノの言葉に、ミネットは驚いた。彼が、自分を食事に誘うなど、これまでの彼からは想像もできなかった。


「港……?」


 ミネットは、思わず聞き返した。


「この季節は、ちょうど潮風が心地よい。特等席を用意させた」


 ゼノは、少しだけ得意げに言った。彼は、ミネットを喜ばせようと、密かに準備していたのだ。


「そ、それは……ロマンチック、ですわね」


 ミネットの言葉は、自然と口からこぼれた。彼女の頬は、再び紅潮していた。


(やっぱり恋なんじゃ……!)


 焦りのあまり、ミネットの内心は騒然としていた。エリーゼの言葉が、現実味を帯びてきたのだ。




 夕刻。ミネットが連れられて行った港のテラスは、確かに美しかった。春の入り日が水面を染め、漁船の帆がゆらゆらと揺れている。空には、夕焼けのグラデーションが広がり、辺境の風景を幻想的に彩っていた。テラスには白いクロスがかかったテーブルと、野の花を飾った花瓶。料理は軽やかな春野菜と魚介が中心で、見た目も美しく、食欲をそそるものだった。


「……どうだ」


 ゼノが、どこか不安げに聞いた。彼の視線は、ミネットの表情を注意深く伺っていた。


「とても、素敵ですわ」


 ミネットは、心からの言葉で答えた。彼女は、ゼノの努力に、深く感動していた。


「……よかった」


 ホッとしたように小さく頷くゼノ。だが、ミネットは見逃さなかった。彼の足元がほんの少し、ふらついたことに。彼の表情には、微かな緊張が走っていた。


(あれは……)


 ミネットは、視線を皿へと移した。パセリの彩りが片側にだけ偏っている。テーブルクロスはわずかに歪み、花瓶の位置も中央からずれていた。ゼノの視線がテーブルを泳ぎ、何度も彼が椅子に座りなおしている。彼は、完璧な「ロマンチックな夜」を演出しようと、必死に努力しているようだった。


(ロマンチックな演出に……慣れていないのね)


 気付くと、ミネットは微笑んでいた。その笑顔は、彼への愛情と、そして彼の不器用さへの愛おしさに満ちていた。


 たどたどしく、でも懸命に「素敵な夜」を演出しようとするゼノ。彼の不器用な努力は、かえって彼女の胸を打った。完璧ではないけれど、その中に込められた彼の真摯な気持ちが、何よりも彼女の心を温かくしたのだ。


(可愛らしい……なんて、とても言えないけれど)


 ミネットの心の中で、温かい感情が渦巻いていた。


「ゼノ様。あなたのお気遣い、とても嬉しいですわ」


 ミネットがそう言うと、ゼノの手がふと止まった。彼の視線は、ミネットに向けられた。


「……そう言ってもらえるなら、嬉しい」


 彼の照れたような声に、ミネットは思わず頬を染めた。彼女の心臓は、激しく鼓動していた。


(だめですわ、エリーゼ……これは、きっと恋ですわ……!)


 心の中でひとりごちた瞬間、潮風がテラスを通り抜け、花びらがふわりと舞い落ちた。それは、まるで二人の関係を祝福するかのような、美しい光景だった。

 不器用なロマンチストと、ふわふわに染まる辺境伯夫人の、距離はまた一歩近づいた。彼らの物語は、春の終わりに、静かに、しかし確実に、新たな章を開いていた。

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