13.執務室への訪問者
暖かな夏を感じさせる春風がようやく冷気を溶かしきった頃、ノールガール辺境伯邸は、季節の息吹と共に忙しさを増していた。農地の準備、街道の修繕、そして来るべき夏に向けた様々な計画が、辺境伯領全体に活気をもたらしていた。
ゼノ・ノールガールは、連日執務室にこもり、山積みの報告書と向き合っていた。彼の執務室は、まるで要塞のように、分厚い壁と重厚な家具に囲まれていた。窓から差し込む陽光も、部屋の奥までは届かず、書類の山に影を落としている。
――農地改革に関する報告
――冬季に停滞していた街道修繕の進行状況
――近隣領主からの協定文書の再確認
――新たな治水工事計画に関する試算書
次から次へと届けられる文書の束に目を通し、判断を下し、署名をする。そのすべてを一人でこなしていた。彼の集中力は驚異的で、朝から晩まで、食事を摂ることも忘れ、ひたすら職務に没頭していた。彼の机の上には、未開封の封筒と、すでに処理された書類の山が、まるで二つの山脈のようにそびえ立っていた。
それは彼にとっては「いつものこと」で、誰にも文句を言うことなく、誰にも助けを求めることもなかった。彼は、辺境伯としての重責を、すべて自分一人で背負うことを当然と考えていた。彼の孤独な戦いは、日々の生活の一部となっていたのだ。
「……ゼノ様、朝食を下げにまいりました」
メイド頭のカリーナの控えめな声が、執務室の重い扉の向こうから聞こえてきた。返事はなかったが、部屋の中から紙をめくる音だけが聞こえてくる。それは、ゼノが集中している証拠だった。カリーナは、慣れた様子で朝食の盆を運び出し、扉を静かに閉めた。
侍女たちは互いに目を見合わせ、肩をすくめた。ゼノの過労は、屋敷中の共通の認識となっていた。
「奥様……あれでは、倒れてしまいますわ」
若いメイドが、心配そうに囁いた。彼女たちは、ゼノの健康を案じていた。
「さすがの無愛想ゴリラ様も、燃料が尽きれば動けなくなるわよ」
エリーゼがそう呟いたとき、ミネットは窓辺に立ち、遠くを眺めていた。彼女の視線の先には、ゼノが守ろうとしている、広大な辺境伯領の緑が広がっていた。
ゼノがこの屋敷にいながら、ほとんど姿を見せなくなって三日が経つ。朝食も昼食も執務室に運ばれるものの、ほとんど手をつけられていないと侍女たちが報告していた。ミネットは、彼の過労を憂慮していた。
「……では、私が行ってまいりましょう」
ミネットは立ち上がり、エプロン姿のまま、ふんわりと軽食を包んだ籠を手に取った。彼女の顔には、決意の表情が浮かんでいた。
「奥様?」
エリーゼが、驚いたように尋ねた。ミネットがゼノの執務室を訪れるのは、これが初めてのことだったからだ。
「執務室へお届けしますの。花とお菓子を携えて来られるより、ずっと合理的でしょう?」
ミネットは、くすりと笑った。彼女の言葉には、ゼノの不器用な求愛行動への、かすかなからかいが込められていた。しかし、その根底には、彼への深い気遣いがあった。
「……さすが奥様」
微笑むエリーゼを背に、ミネットは廊下を歩いた。風が揺らしたカーテン越しに、明るい日差しが差し込んでいる。廊下には、彼女の足音だけが静かに響き渡っていた。
(少しでも……彼の疲れが和らげば)
そう願いながら、ミネットは静かに扉をノックした。その音は、執務室の重い扉に吸い込まれるように、小さく響いた。
「……ゼノ様、入ってもよろしいかしら?」
しばしの沈黙の後、かすかに椅子のきしむ音がした。彼女はそっと扉を開ける。
室内は、紙とインクと本革の香りに満たされていた。それは、ゼノの生活そのものを表しているかのようだった。中央の大きな机に、隙間なく積まれた書類の山。その向こうに、まっすぐ背を伸ばして座るゼノの姿があった。彼の顔は疲労の色が濃く、目の下にはうっすらと隈ができていた。しかし、その瞳は、未だ鋭い光を放っていた。
「……ミネット?」
ゼノは、ミネットの突然の訪問に驚いたように目を見開いた。彼の執務室に、妻が入ってくるなど、これまでの人生で一度もなかったからだ。
「お邪魔しますわ。今日は、お昼を抜くと聞きましたので」
そう言いながら、ミネットは籠を机の端に置く。開けた中には、小さなサンドイッチと果物、そして温かい紅茶の入ったポットが入っていた。どれも、簡単に片手で食べられるように、丁寧に準備されていた。
ゼノは驚いたように目を瞬かせ、それから深く息をついた。彼の表情には、安堵と、そしてかすかな感謝が浮かんでいた。
「……ありがとう。気がつかなくて、すまない」
ゼノは、自分の不注意を詫びた。彼は、仕事に没頭するあまり、食事を忘れていたのだ。
「いえ、忙しいのはわかっておりますもの」
ミネットは椅子をひとつ引いて、机の隅に腰かけた。彼女は、ゼノの邪魔にならないよう、控えめに座った。彼女の存在は、まるで執務室に差し込んだ一筋の光のようだった。
そしてふと、ゼノの手元を見つめる。
いつもの不器用さとはまるで違う、無駄のない動作。彼の指は、まるで楽器を奏でるかのように、書類の上を滑らかに動き回っていた。目は鋭く、判断は的確。書面を読み、印を押し、次の案件に移る。少しの躊躇もない。彼は、この領地を統治する、紛れもない主だった。
(……格好いい)
そんな言葉が、思わず胸の内に浮かんでしまった。ミネットは、ゼノの仕事に対する真摯な姿勢に、深く感銘を受けていた。彼が、どれほどの重圧を背負っているのか、その一端を垣間見た気がした。
「……何か?」
ゼノが不思議そうに顔を上げた。ミネットの視線に気づいたのだ。
「いえ。驚いただけですわ。普段は、もっと……こう、言葉選びが慎重な方ですから」
ミネットの微笑みに、ゼノは少しばかり照れくさそうな顔になった。彼の頬は、微かに赤く染まっている。
「仕事は、間違えられないからな」
ゼノは、ぶっきらぼうに答えたが、その言葉には、彼の仕事に対する責任感がにじみ出ていた。
「ええ。あなたは誠実な方ですもの」
さりげなく紡がれたその言葉に、ゼノは一瞬、手を止めた。彼の心臓は、微かに高鳴った。ミネットからの、直接的な賞賛は、彼にとって何よりも嬉しいものだった。だがミネットはそのまま紅茶を注ぎ、自分の分も用意する。その自然な仕草に、ゼノは言葉を失った。
「よろしければ、少しお付き合いを」
ミネットは、温かい紅茶のカップをゼノの前に差し出した。
「……ああ」
二人は、執務机をはさんで紅茶を口にした。部屋には、紅茶の温かい香りが広がり、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
机の上にはまだ数多くの文書が残っているというのに、そのひとときだけはまるで時間が止まったかのようだった。二人の間には、静かで、しかし確かな温もりが流れていた。
「ゼノ様」
ミネットが、静かに呼びかけた。
「なんだ?」
ゼノは、カップを置き、ミネットに視線を向けた。
「あなたが抱えているものが、どれほど重いか。私には正確にはわかりません。ですが、せめてあなたが孤独にならぬよう、私が在りますわ」
ミネットの言葉は、彼の心の奥底に深く響いた。彼は、長年、孤独にこの辺境伯領を守り続けてきた。誰にも弱音を吐かず、誰にも頼ることなく、すべてを一人で抱え込んできた。
「……」
ゼノは視線を逸らすように、机の書類を見た。けれどその手はもう動かない。彼の心は、ミネットの言葉によって、大きく揺さぶられていた。そして、低く、しかし確かに告げた。
「……俺は、不器用だ。君がしてくれるように、気の利いた言葉を選べない。優しい気遣いも……たぶん、すぐにはできない」
ゼノは、自分の不器用さを正直に認めた。彼は、ミネットのように、言葉や行動で優しさを示すことが苦手だった。
「それは知っております」
ミネットは、微笑んだ。彼女は、ゼノの不器用さを知っていた。しかし、それが彼の誠実さの証であることも、理解していた。
「それでも、君の言葉に……今、救われたと思っている」
それは、ゼノなりの“感謝”だった。彼の口から出る、最大限の感謝の言葉だった。彼の声は、わずかに震えていた。
ミネットは黙って微笑む。彼の誠実な言葉には、飾りも芝居もない。けれど、それが何よりも真っすぐだった。彼女は、ゼノの言葉に、心から満足していた。
紅茶の湯気が、春の風に揺れるカーテンと重なった。執務室には、二人の間の静かな温もりだけが満ちていた。ふと、ゼノが言った。
「……明日、街の視察に行く。君も来るか?」
ゼノは、ミネットを誘った。それは、彼が彼女を自分の世界に招き入れようとしていることの表れだった。
「ええ、喜んで」
ミネットの笑顔が、執務室をやわらかく照らした。彼女の心は、歓喜に満たされていた。彼が日々守ろうとする世界の中心に、自分の居場所がある。そう思えるだけで、ミネットの胸は不思議と温かくなった。彼女は、この地で、ゼノと共に生きていくことの意味を見出し始めていた。
――その日、ゼノは書類に囲まれているにもかかわらず、午後には仕事を切り上げた。カリーナもハルトも、彼の変化に驚きを隠せなかった。いつもなら、日が暮れるまで執務室にこもり続ける彼が、自ら仕事を切り上げたのは、何年ぶりのことだろうか。
彼女がいれた紅茶を飲み干して、いつになくゆっくりと笑みをこぼしたのは、執務室の誰も見ていない片隅でのことだった。その笑みは、春の陽光のように温かく、彼の孤独な心を少しだけ解き放った。
ミネットの存在が、ゼノの心に、静かな変化をもたらしていた。彼らの関係は、まだ始まったばかりだが、その絆は、辺境の春の土壌に根を下ろすように、ゆっくりと、しかし確実に育まれ始めていた。




